みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

「部屋」という心の自由 2021.10.24

皆さんは自分の部屋を持っているだろうか?

突然だが、私の家には、私の部屋があるようでない。一応あるのはあるのだが、ほぼ家族に侵食されてしまっている。まぁいわゆる物置きのような形になっている。

住宅には様々な種類がある。

マンション、アパート、一軒家。

どんな家に住んでいても、自らの部屋が家族との空間としっかりと棲み分けされているというのは、とても重要な事だ。

実際、私がヤングケアラーとしてここまで悩み拗らせ、ある意味「八方塞がり」な状態になってしまったのも、そういう棲み分けが皆無であった事、とりわけ自分の「部屋」が無かった事が大きく影響している。

 

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私自身、小学生の頃から、自分の部屋(既に侵食は始まっていたが)に勉強机はあれど、勉強はほとんどリビングでしていた。

そして子供の頃「テレビ大好き!!」な人間だった私にとってテレビは生命線。

そんなテレビも当時リビングに一つだけだった。

現代のようにTverだのYouTubeだのHuluだのがあれば別だが、スマホすらなかったので、遊びという面でも、リビングでテレビにかじりついていた。

そうなると、私は今まで生活のほとんどをリビングで過ごしていたという事になる。

いつの事だったか「リビングで勉強する事は良い」なんて話題になったが、リビングにずっと居るのも考えものだ。

 

というのも、カウンセラーの方から今の自分の状態を改善するために「部屋を明確に分ける」事を強く求められている。

なぜ私がここまで自らの権利を放棄し、家族の歯車のようになってしまったか。

それは家族と常に空間を共有しているからだった。

常に皆がリビングにいるため、全ての情報は共有されるし、感情も共有される。

それ故に、家族の問題に関わりすぎてしまい、自分のプライベートとしての感覚も希薄になってしまっていた。

だから、それを避ける事、物理的な距離を取る事が大事という訳だ。

物理的な距離があれば、何か家族のトラブルがあった時、そもそも影響を受ける事も、私が割って入って緩衝材になる必要もない。親の機嫌が悪い時に、その影響をもろに受ける必要もない。

 

そういう意味で、リビングで大半の時間を過ごすことを「何ともない」「むしろ、家族皆が仲良い象徴」だと思っていた私の認識は少しズレたものであった。

とはいえ、分けたくても分けられない。そんな状況ももちろんある。

私の家も、部屋数としてはあっても、その多くが共有スペースになっており、子供だけでなく、夫婦も十分な個人スペースを保持できていない状況。

というか、私が幼少期からリビングで過ごしていたのだから、自然とそこが物置化するのも当然と言えば当然で、それも相まって、私の部屋は現在確保されていない。

 

ここで少し、ふと思いついた疑問を調べてみた。

「皆の家にはどれぐらいの数の部屋があるのだろうか?」

しっかり統計を調べればもっといいデータがあるのかもしれないが、別にこれは論文ではないので、まぁザックリと。

「2021年社会生活統計指標-都道府県の指標-」のデータを見ると、全国で居住室数トップなのは富山県で6.02。ワーストが東京都で3.26らしい。

地方の方が高くて都会の方が低いのは、人口密度や土地面積の問題などが関係しているのだろう。だが、ここで注目したいのは、全国の居住宅の部屋数は大体3~6の間にあるという事だ。

 

家にある部屋数の事は、統計上「居住室数」と言うらしいが、いわゆる”3LDK”とかのあれで説明すると。部屋を表す”3”はもちろんの事だが、L(リビング)、DK(ダイニングキッチン)も部屋数に含まれる。

という事はリビングとダイニングキッチンの2つがあると考えれば、ワーストの東京都では、3-2=1と、一部屋しか余剰スペースを確保できない事になる。

 

この推測は、全部を家族単位で見ており、ひとり暮らしを無視しているので、極めて大雑把なものなので、あてにはしないで欲しいのだが、この考えからすると、家族全員、少なくとも子供が、十分なパーソナルスペースを取れている家は少ないと推察できる。

そう考えると、

「部屋がないんだから、リビングにいるしかない」

という考えになってしまうのも自然だろう。

 

だが、家族と言えども、適度な距離感、自らの空間を持つこの重要性は私が身を以て実感している事だ。

親(大人)が抱える問題から子供をしっかりと離す。そして子供は、自らの空間で、自分のしたいようにする。

物理的な距離・仕切りは、人との心理的な距離を適切に調節し、「自分」を維持する最も手軽で有効な手段だ。

 

「自分の部屋がなくても、家族仲が良く、リビングにいてもたいして問題もない。」

と思っている人もいるかもしれない。だが、自らの部屋があるというのは一つ「誰にも踏み込まれない」安全地帯を持つこと、そして絶対的な「自分」を持つことでもあるのだ。

それ故、「自分の部屋がなくとも~」などと言っている時点で、実は「自分」の存在が危うい状態なのかもしれない。

 

一方で自分の部屋がある人は、ここまでを読んでこう思ったのではないだろうか。

「自分の部屋がないとかめちゃくちゃ不便じゃない?」

 

親には言えない(言いたくない)趣味も自分のやりたいように楽しめない。

自分のコレクションを飾る事もできない。

友達と電話しようにもできない。

1人になりたい時に1人になれない。落ち着いて考える事もできない。

 

と、部屋がない事で「できない」事は沢山ある。部屋がある人にとっては「当たり前」に出来る事だろう。それ故、”不便”と思うはずだ。

部屋がない事で出来ない事は、一見すると「なんてことない」些細な事。だが些細な事だからこそ、それが出来ないというのは問題で、それが子供であればより大きな問題だ。

自分の好きな事が十分にできない、それどころか我慢しなければ、隠さなければならない。それは「自分の好きは、我慢すべき。隠すべき」という考え方に繋がりかねない。

また、友達との交流に関しても、親の前では友達との会話はしたくない。だが自分の部屋がないため、親がいないときにしかできない。そのため交友関係の希薄化を生むことにもなる。

また、部屋がある人が”当たり前”とする事が、そうではないことで、周りとのギャップも生まれ、人と違うという事が、さらに自分のコンプレックスになったりする。

 

私自身も、子供の頃から親に趣味はモロバレ。言えない(言いたくない)趣味は、親のいないときに謎の罪悪感を持ちながら楽しんでいたし、コレクションスペースもないため、グッズはあまり買わない(買えない)。親は早く寝るので、夜更かしは出来ず、当然夜通し電話をするみたいなことも未だ経験がない。

今書いてるブログも、本当は部屋に籠って書きたいのだが、それが出来ない故、かなり作業効率の面では苦労していたりもする。

それは、自らの「好き」に対して億劫になったり、罪悪感を持つことにも繋がったし、交友関係が生成されにくいという事に繋がった。

現に最近も、フォロワーさんの配信に、参加したかったが、声を出せないため聞き専に徹する事になり、苦い思いをした。(その反動で、文章力があるのかもしれないが)

それに何より、ヤングケアラーとして関わりすぎ、今に至る一つの要因になった。

そういう意味では、子供の頃に部屋があったかなかったかが、自らの自己形成やアイデンティティに大きく影響するなと改めて感じる。

 

最近、我が家では私を中心に、部屋の棲み分けをしっかりしようと整理が始まっている。物理的な距離を持つ事で、適切な距離で家族と関わり、「自分」を大事にする事が簡単になるなら、お安い御用だと思う。

母親は、昨日私にこう言った「あなたの事を友達のような感じと思って色々愚痴とか相談とかしていた」と。

”友達親子”なる概念も、家族の多様化という面では一理あるのかもしれない。

だが、親子の距離は適切でなければならないし、決して友達ではない。

自分の部屋があるという事は、親と子が生活を共有しながらも、「自分は自分」と、”子供”という立場を抜け個人としてのアイデンティティを育み、「自分はいてもいいのだ」「自分の好きなようにしていいのだ」という心の自由を、分かりやすい形で保障することなのかもしれない。

 

【出典】

総務省統計局 統計表で用いられる用語,分類の解説

https://www.stat.go.jp/data/kokusei/1995/04-03.html

 ・「2021年社会生活統計指標-都道府県の指標-」

https://www.e-stat.go.jp/stat-search?page=1&query=%E5%B1%85%E4%BD%8F%E5%AE%A4%E6%95%B0&layout=dataset&year=20210&file_type=0&metadata=1&data=1

 

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「解散」は偶然とのサヨナラ 2021.10.17

来たる11月1日。アイドルグループ「V6」が解散する。

以前、解散報道が出た際は、とても驚いた。結局それは偽りの情報で、活動は続けられたのだが、今回は本当に解散ということらしい。

私は特段、ジャニーズが好きという訳ではないが、以前も記事にしたように、子供の頃は皆がテレビを観ていて、皆が同じ音楽に触れていた。そんな世界だった。

そして私もその世界にいた。

特に私自身が、テレビっ子という事もあり、その影響は多大だった。

そんなテレビから流れていた音楽の一つにジャニーズの音楽があった。

そのため、今回の「解散」も何も他人事ではない。

 

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「解散」

その言葉が意味するのは、単純に「グループが無くなる」という事以外にも、「その音楽の歌い手がいなくなる」事も意味する。

音楽は、なくならないし永遠に残る。

だが、その歌い手が「歌う」という事をしなくなれば、その音楽が一つ形を変えるという事ではある。

今なら、CDもあれば、それこそサブスクリプションのサービスで聞けたり、音楽は保存され半永久的に、生き続ける。

それは「私たちはいなくなっても、音楽はあなたの心の中で永遠です!!」的な、そういううやつでもなく、技術革新がもたらしてくれた音楽の延命だ。

だが、「その時」、「その人が」、「歌う」。

それは「解散」すればもう二度とない。

 

「それってそんなに大事?」

と感じる人もいると思う。それを望むのはファンぐらいなのではないかと。

だが、私はそうではないと思う。

そのアーティストが歌わなくなれば、音楽番組で「あ!久しぶりじゃん!V6!!今日はなんか懐かしい曲歌うんかな~?」と口に出る事もない。

ファンではないけど、「その曲は好きだ」という人がおそらく沢山いる。

そんな人の心からは、その存在は徐々に消えていってしまう。

そう。そのアーティストが、その時、歌わなくなれば、その存在は狭く薄くなってゆく。その曲自体に触れる機会が失われるのだ。

 

実際、V6には『TAKE ME HIGHER』という曲があるが、この曲は、音楽番組で歌われると毎回、Twitterのトレンド入りを果たしていた。

この曲は、メンバーの長野博が務めた特撮ドラマ『ウルトラマンティガ』の主題歌であった。この曲が番組で流れて、当時の特撮ファンがその曲に盛り上がる。そんな光景が、印象的だった。

そんな出来事が少なくなっていくという訳だ。

 

youtu.be

 

youtu.be

(小学生の頃、昼休み後の掃除の時間に流れていた。テンション上げ上げでほうきを

振っていたことを思い出す)

 

 

過去にはあまり良くない幕切れがあった。

国民的アイドルグループと言われた「SMAP

彼らが「解散」した後、いや。する前、私はすぐにベストアルバムを買った。

なぜなら、彼らの音楽を覚えておきたかったから。

もう、ふと音楽番組で「あ!この曲好きなんだよ~!!歌ってくれるの嬉しい!!」

と言う事もない。そうやって曲に思いを積み重ねてきた私からすれば、「解散」は、その音楽が私の中で「バイバイ」と言おうとしてるのと同義だ。

 

youtu.be

(ちなみに『愛なんだ』の歌詞がとても私は好きだ。

「とにかく愛なんです!!愛なんだ!!全部愛!!愛!!最高!!」

という感じなのが良い。これほど振り切った歌詞だと、逆に乗り切れない場合もあるが、玉置浩二が織りなす自由に溢れるメロディーが調和を取り、とてつもなく心地よく、エネルギーを充填できる一曲になっていると思う。)

 

バンドサウンドとボーカル長瀬の作詞作曲センスが光った「TOKIO

彼らは明確な「解散」ではなかったが、それこそ私が言う意味での「解散」に一番近いかもしれない。

1人のメンバーが脱退することになり、「彼が抜けるのなら音楽活動をしない」と演奏されることはなくなった。

TOKIOは、私のイメージでは気さくにどんな番組でも演奏をしてくれるグループのイメージで、突如鳴り止んだその衝撃はとにかく大きかった。

 

youtu.be

(TOKIOSMAPの曲を入れるべきなのだろうが、V6の曲を入れざるを得ない。だって良いのだから。『Darling』は、言葉遊びが本当に楽しい。”いい just night"が「いいんじゃない」、”what 感 eye”が「分かんない」、”knight 病んで”が「悩んで」に聞こえるといった具合に、文字を当ててる感がとても感じられてそれが良い。今は皆「カッコ悪い」と言いそうだが...それでも良い。)

 

10年程前、AKB48がブレイクし始めの頃は、よく「口パク疑惑」が世間を揺るがせた。

「口パクなら別にあの人たちが歌わなくてもいい」

そんな声も聞こえた。

だが、私はそうではないと思う。彼ら彼女らが歌うからその歌は生まれる。生まれた。

そして、そんな彼らがいなくなれば、その曲たちは一つの区切りをつけ生まれ変わる。

だから、その曲の価値を決めるのは、歌の上手さではないのだ。”彼らが””彼女たちが”歌うから、その曲なのだ。

 

音楽が情報と一緒に大量に流れる現代で、「解散」は音楽と一度「バイバイ」する事なのだと思える人はどれだけいるだろう。

大量に流れる音楽の中で、大事になるのは、その音楽に触れる「きっかけ」

そんな「きっかけ」が「解散」という出来事で、絶えてしまう。

だが、彼らが「解散」を決めたのだ。

「きっかけ」がなくとも、いつでもその音楽が鳴らせるように、彼らと共に音楽をしっかり覚えていたい。

 

youtu.be

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(解散前に、良い曲に出会ってしまう...”あの時代”の曲って感じで良い...)

 

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「好き」のいろいろ。「言葉」のいろいろ。2021.10.11

書きたいネタはあるのに、なかなか書けない。そう言って何も書かないのもあれなので、今日も今日とて思いつきでつらつらと。

 

先日、私が応援している女優、上白石萌音の初エッセイ『いろいろ』が発売された。

芸能人のエッセイなど買ったことがなかった私だが、これを機に芸能人エッセイデビューをした。

本の質感にもこだわっている本書。

紙の質感がとても良く、思わず本をなでなで。それで満足してしまい、そのまま放置している。

 

 

え??

 

 

それはさすがに冗談だ。と言いたいが、放置しているのは事実だ。

「好きな芸能人のエッセイなら、早く読みたくて仕方ないんじゃないのか?」と大多数からそう言われると思う。

確かにそういう思いもあるが、「しっかり読みたいから」と放置している節もある。

だが、放置している一番の理由は、また別にあるのだ。

 

 

私が誰かのファンになるポイントは大抵が、外見ではなく内面だ。

もちろん外見で好きになる事もあるが、何年もずっと好きが続くのには、内面の部分で”好き”があるのが絶対条件な気がする。

そして、外見であろうが内面だろうが、”好き”にはグラデーションがあるだろう。(私はよく”ニュアンス”とも言うが)

特に内面においては、主に二つの評価軸が存在し、それは「共感」と「憧れ」だと思う。

「共感」を縦軸に、「憧れ」を横軸にすると、我々がいつか学んだ一次関数のグラフのようになり、そのどこに点を書くか。それが”好き”のグラデーションだろう。

 

 

まぁそんな事で、「同じ内面が好き」でも、人によれば「共感」が強いかもしれないし、人によれば「憧れ」が強いかもしれないという事だ。

 

 

 

ちょっと脱線してしまったので、最初に話を戻すが、「何故、私が推しの著書をすぐ読めないのか?」

それは「共感と憧れのバランスがとれなくなって、自分自身も壊れそうになることがあるから」だ。

 

自分はまぁ”いろいろ”あって、すこぶる自己肯定感が低い。

それ故に、推しに対して感じる”好き”は主に「同じ気持ちでいる」という”共感”の面が高い。

「私と同じように思っている人がいるんだ」「私の考えはこれでいいんだ」という点で、自己肯定感も保たれるからだ。

そして、それと共に生まれるのは「この人は、自分と同じ考えだけど、こんなにキラキラしているんだ」「自分もこんな人になりたい」という”憧れ”でもある。

だが、その「憧れ」は同時に「同じなようで私とは違う。私にはなれない。あんなキラキラしてていいなぁ」という”羨望”や”妬み”といった気持ちとしても噴出するのだ。

それは、同時に他者の考えを受ける事で、自分自身の存在価値が揺るがされる事でもある。

そのため、自己肯定感が上がるのだが下がるというカオスな状況にハマってしまうのだ。

 

まぁここまで読んで、自分でも「めんどくせえやつ」と思ったが、私の推しに対する感情はそういったカオスの渦の中にあり、他者の考え(特にエッセイのようなもの)に触れるのは、適度な気合と覚悟がいるのだ。

 

だからこそ、読めない。

読むと自分が惨めになる。自分が壊れそうになる。それが怖い。

それに、妬みとかいう感情を推しに向けてしまいそうになってしまうから嫌なのだ。

 

 

「憧れは理解から最も遠い感情だよ」

 

小学生の頃、ハマっていた少年漫画『BLEACH

その登場人物である”藍染惣右介”という人物は作中で、主人公の最凶の敵として立ちはだかり、ただ単に強いだけでなく多くの名言を残したことからもカリスマ的な人気を現在でも誇っている。

そんな藍染の名言の一つがふと思い出された。

憧れは、羨望であり妬みでもある。そしてそれは、「自分とあなたは違うんだ」という事を明確にすることでもある。それはある種、相手からしても同じだ。

だからこそ「憧れ」と「理解」の距離は、遠い。

 

私は読み手だけでなく、今この瞬間も、文字を紡いでるように書き手でもある。

それ故、書き手としてもそれを実感する事がある。

このブログ、有難いことに”いろいろ”な方に、褒めてもらう。

「私が思ってくれていたことを代弁してくれた」

「とても共感する考えばかりだった」

「みぞさんの凄さを感じた」

「みぞさんの言葉に救われた」

そんな恐れ多い言葉を貰ってきた。

 

毎回とてもとても嬉しいのだが、その言葉からは「尊敬」に近いものを感じ、どちらかというと「憧れ」のような態度からくる言葉だ。失礼でおこがましい事かもしれないが「共感」という視点では、「誰も私を本当は分かってくれてないんだ」という気持ちになって、真っすぐに言葉を受け取れない事もある。

という事で「尊敬」や「憧れ」という形で私に接してくれる人に違和感を感じてしまうことがあるのも事実だ。

まぁそれは前述した自己肯定感の低さと、もう一つ、自分の言葉が評価される一方で、社会においては落ちこぼれだという認識が私の中で支配的なせいだと思うのだが、それには他の要因もあると思う。

 

 

言葉にすること、それは自分の考えに形をもたせ確かなものとして整理でき、相手に伝える事ができるという点で、とても有用だ。

だが、言葉にした瞬間に、それは自分自身の中にあるそれそのものとは違うものになってしまう。

無数にある言葉からそれに合うような近いものを選んで作る。

いわば”加工食品”みたいなものだ。

 

それ故、他者から見れば、その言葉は、文章は、その人そのものに見えても、”私”からすれば、どこか足りない”私”に似せた模造品なのだ。

それが、私が書き手として感じる「憧れ」や「尊敬」に対する違和感であり、「理解されていない」と思ってしまう原因かもしれない。

 

だから、その文章に対する評価に疑念を持つのはある意味、自然な事なのだ。

だが、一方で発話が伴うコミュニケーションの中では、模造品が作られることはない。

確かに、言葉を用いている事に変わりはないが、その一つ一つがその空間において自分から意図せず出る言葉だ。

それがどれだけ不格好で、意味がめちゃくちゃでも、書かれる言葉よりも新鮮でダイレクトな言葉であることには間違いない。

そして、ブログや本などの文章が、一方的に語りかけるのに対し、会話は互いに言葉のキャッチボールができる。そういう「投げればそれに対して投げ返される」という状況は、「憧れ」のような大きな上下関係を生まず、対等な発話者としての言葉が交わせるのだ。

 

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前回の記事で、SNSでの繋がりに助けられたという事を書いたが、同時に”face to face"の関係を上乗せる必要があるとも述べた。

今回の話はまさにそうだ。

加工ができる書き言葉の世界では、一方的な関係に留まったり、不完全な(incompleteではなくpartialに近い)自分でしか対話できない。

自然な話し言葉の世界のやり取りを完全に再現することは出来ないのだ。

 

ということで、最近の例に倣って、何も考えずに書いたばっかりにめちゃくちゃになったが、つべこべ言わず、早く推しの著書を読もうと思う。

それが自分にとって恐怖を伴う事であったとしても、カオスの渦の中で考え続けなければならない。そして、羨望や妬みも全部受け入れて、好きな人の考えに向き合わなければならない。

そこから吸収できることも必ずある。そして、それを吸収できる人間でなければならない。

 

そして、つべこべ言わず、褒め言葉は貰っておけ!!!

この間、あるフォロワーさんに言われた言葉だが、褒め言葉それ自体を否定する事はそう思ってくれている人に失礼極まりない。

それに藍染の言葉は、一つ間違っていると思う。

確かに「憧れ」は「理解」とは相容れないかもしれない。

だが、「憧れ」を持てば、「理解したい」と思う。だから、「自分とは違う」と分かれば、その距離はどんどん近づくはずだ。

それに「共感」することだってできる。

そうやって互いに歩み寄れるように自分も褒め言葉を真っすぐ受け止められるようにならなければと思った。

「好き」には”いろいろ”あるけれど、良い事には違いないんだから。

ということで、これからも遠慮せず褒めて下さい。

「理解されてねえな」とか言ってるのは無視です。記憶から消してください(じゃあ書くな)

という事で、徐々に『いろいろ』読もう!!

 

【過去記事】

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SNSが紡ぐ緩やかで温かい「繋がり」2021.10.2

このブログを読んでくれている方から、「もっと気軽に」と言われたこともあり、思いつきで今書き始めた。

自分のブログは、下書きをしたり、大体の構成が決まらないと書けないものが多い。それ故、体力消費がすごい。だから、更新頻度が遅い。だから、なかなか書く気にならない。完璧主義もいい加減コントロールしないとならないなとつくづく思う。

 

さて、本当に何も用意していない。

さっき感じたことを書いてみる。

ヤングケアラーの記事を先日、5回に渡って更新した。ありがたいことに多くのアクセスを頂き、さらに多くの温かいコメントも頂き、本当に嬉しかったし、自分の中で、一歩...いや二歩も三歩も進めた気がしている。

まぁまた、いつか「私」の話は続きを書こうと思っている。「みぞ!さんの文章を読んで救われた」というコメントを貰った時に、そう思った。

 

そんな記事の中で、Twitterで仲良くして下さっているフォロワーさんにとても感謝していると書いた。実際、こうしてブログを書いて、見てくれる人は大抵がそんなフォロワーさんたちだと思う。

私は8年ほどTwitterをしている。その中で一番長い付き合いをしている人たちは5年の付き合いだ。

Twitterを始めた当初は、色々ルールを決めていた。

「〇年以上絡んでいる人じゃないと信用しない」

とか、他にもSNSに対する危機意識から、自分で決めたルールに基づいて、Twitterを利用していた。

まぁそこまで頑ななのは、私が「真面目」だからなのもあるが、親がSNSに対して良いイメージを持っていなかったからというのが大きい。

といっても、Twitterを利用する中で、私のつぶやきに反応してくれたり、好きなもので繋がれたりで、どんどんと私の中でその存在が大きくなっていったのも事実で、徐々に考え方も変わっていった。

 

私の親はいわゆる”face to face”のやり取りを絶対とする人だ。私も最終的にはそうだとは思う。

だが、私はその直接的なコミュニケーションが困難だった人間の一人だった。それは一連の記事を見てもらえれば分かって貰えると思う。

だからこそ、私にとってフォロワーさんは唯一の繋がりだった。心許せる存在だった。

 

それなのに少し前までは、親の考えや世間の風潮から、「SNSでの繋がりは良い繋がりじゃない」「SNSでの繋がりは、不健全で不完全なもの」という思いが私の中では多くを占めていて、「好きだけど、この人たちは”友達”ではないんだよな。」と失望したり、そのやり取りに依存している自分に罪悪感を持つこともあった。

しかし、ヤングケアラーの記事を更新し、自分自身に向き合い始めた最近。その考えが完全に払拭された。

色々な方からの温かいコメントを読むたびに「私が今ここにいるのはこの人のおかげだ」と感じたからだ。

周りがどう言おうと私にとって私にそんな言葉をかけてくれる人は”友達”以外の何物であるというのか。

確かに、一般的なそれとは違うかもしれない。繋がりの強さも、劣るかもしれない。

それでも、0だった私がマイナスにならず、1.2.3...と大事な人の数を数えられる自分でいられるのは、その人たちの「おかげ」でしかない。

 

コメントを貰った流れで、2人のフォロワーさんに「友達になって下さい」と滑稽な事を投げかけた(投げかけてしまった)

そういう事を言葉にして言うのは違うというのも分かっているし、「所詮趣味の繋がりだ」と思っている人からすれば、困惑させ、場合によっては恐怖させる言葉かもしれない。

だけど、このタイミングで聞いておきたかった。

 

「いいですよ」

 

2人とも何の淀みも、違和感もなくそう答えてくれた。

「はぁ良かった」

そうふと息を吐いた。

だってこの言葉で、心の距離が離れてしまったらどうしようとも思っていたから。

 

私が決めていたSNS利用のルール。

そのおかげで、少しずつ少しずつ関係性を構築できた。今はそう感じる。

昔は「もっと仲良くなりたいから、ガツガツいってもいいんじゃないか?」

と思っては、「いや、それはダメだ」という葛藤の連続だった。

でも、その姿勢が、数百、数千、数万の文字の紡ぎ合いを生み出し、その文字たちが、現実と変わらない信頼を作ってくれたのだと思う。

 

今日、あるフォロワーさんのツイートを見た。

それは「仲良くしていたフォロワーさんがいつの間にかいなくなっていた」

というものだった。

繰り返すが、私にとって幾つかの繋がりは、もはや欠かせないものだ。

だが、アカウントを消せばその存在は消え、もう二度と会うことは出来ない。

死んだも同然だ。

私がわざわざ「”友達”であること」を確認し、その繋がりを可視化したがるのは、そういうSNSでの繋がりの脆さや儚さに怯えているからなのだと思う。

私には、もう二度と会えない、言葉の紡ぎ合いができないなんて耐えられない。

というか、まだ会えてないのに、会えなくなるなんて泣いてしまう。

 

そんな風に、思っているからこそ最近は「SNSの繋がりであっても、繋がりは繋がり。」「大事なのものは大事」と考えるようになったし、気心が知れる一部の方々に対しては、少し深く懐に飛び込むようにしている。

「ないよりある方がいい」

どんな形でも、一人でも自分を受け止めてくれる人がいるというのは、勇気になる、生きる活力になる、宝物になる。

だから、思い切り気を許せる人には気を許せばいい。

 

SNSで「繋がる」ことは、確かに注意が必要だ。最近でもSNSが発端となった事件があった。それ故、昔の自分が厳格にルールを決めていたように、厳格でなくても、常に警戒はすべきだと思う。

だが、一文字一文字、言葉を紡ぎ、時間をかけ、好きなものによって関係を積み重ねていくことができるのもSNSだと思う。無理に繋がりを求めないからこそ、良い関係を構築できる。「繋がりましょう」とかじゃなく、なんとなくフォローして、なんとなく良いなと思うものに反応して、そうやって少しずつ距離が詰まっていく、そんなSNSの利用ができてよかったと心底思っている。

 

さて、ここまで、思いつきで書ける私がすごいなと勝手に自画自賛してしまうが、最近は、そんなフォロワーさんとのやり取りが楽しい。「どこにお出かけしますか?」とか「明日も話せる?」とか、私以外の人からすれば当たり前なのかもしれないが、そんな”当たり前”がようやくできて嬉しくて仕方がない。

人生はまだまだこれから。

言葉で紡いできた関係を、”face to face”の関係で上乗せして、「楽しい」思い出を増やしていきたいと思った今日この頃だ。

 

【過去記事】

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「街角」2021.9.25

皆さんの住む街はどんな街だろう?

街とは少し違う、どちらかと言えば”町”という表記が腑に落ちる人もいるのかもしれない。

場所を表す言葉は沢山ある。

都会、田舎、都市、村...

じゃあ「街角」って??

 

We can do! We can go!

いつもの街角で 瞳閉じて

We can do! We can go!

ここから 始まると 信じるんだ

ーーーーーーーーーーーーーー

V6『Can do! Can go!』

 

最初に聴いた時、V6の曲だと知らなかった。ジャニーズJrが歌い継ぐ姿を何回もTVで見ていた。初めて聴いた時から毎回、キラキラが見えた。サビの歌詞に魅了された。

”僕だけに出来るコト見つけたいよ”

”シュミレイションなんか 誰にもされたくないね”

”大事なモノ ホントの事に キスしたいのさ”

そんな歌詞で埋め尽くされるように、悩み、苦しみ沢山の壁にぶつかりながら、それでも前に進みたい。自分に正直でいたい。負けたくない。夢を叶えたいという思いが詰められている。

それが一番現れているのが、サビ。

強い気持ちで一歩踏み出す。その場所がいつもの「街角」

瞳を閉じて目の前に広がる「恐怖」「不安」という闇を打ち消す。「できる」と想像して、目を開ける。

そうすれば光が射す。そして街角を抜ければ、まばゆい未来が待っている。

「街角」とは心の転機。決意の場所。

 

youtu.be

この角 曲がったら

君がいるとなぜかわかった

陽射しの向こうから

ふいに近づく予感がしたよ

ーーーーーーーーーーーーーーー

AKB48希望的リフレイン

 

”好きすぎて”

そのワンフレーズが繰り返される、リフレインされる。

単純だけど、繰り返される”好き”は、思いの強さの証。

好きな気持ちが限界を超えると、君の気配が分かるようになる。

この「角」を曲がったら、好きな人に会える。

「街角」とは、ドキドキの最高潮。運命。

 

youtu.be

会いたいんだ 今すぐ その角から

飛び出してきてくれないか

夏の魔物に連れ去られ 僕のもとへ

ーーーーーーーーーーーーーーーー

back number 『高嶺の花子さん』

 

僕には届かない憧れの人。

でも、諦められない。

でもやっぱり届かない。

その「角」から彼女は出てこない。出てくる訳がない。

でも、夏の魔物に連れ去られてでも、魔法の力でも何でもいいから、

その「角」から出てきて欲しい。僕のもとに。

「街角」とは、現実と理想の狭間。無力さと向き合う場所。

 

 

歌における「街角」は色んな意味を持つ。

だが、そのどれもが、人間の感情が揺さぶられる一瞬を表している。

普段、「街角」なんか気にしないし、どんなところかも分からない。

都市開発は進み、「街角」らしい場所は少なくなっているのかもしれない。

でも、たまには「街角」を探すために街に出てみたい。

何かが変わるかもしれないから。

 

 

 

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『音楽さんへ』に込められたはつねちゃんの「想い」YOASOBI『ラブレター』YOASOBIの持つ”包容力” 2021.9.19

先日、YOASOBIの新曲、『ラブレター』のMVが公開された。

公開から1週間で465万回もの再生回数を記録しており、さすがはYOASOBIという感じである。

今回の楽曲は、「ありがとう」をテーマとした手紙を募集し、それを楽曲にするというラジオの企画で生まれたもの。

そこで選ばれた手紙が、当時小学6年生の”はつねちゃん”の『音楽さんへ』だった。

この手紙、『ラブレター』のTrailer動画で初めて読んだ(聴いた)時、心がギュッとなった。

まずは皆さんにも、読んでもらいたい。

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『音楽さんへ』

音楽さんへ

はじめまして はつねです。

急なお手紙すみません。

私はいつも音楽というものにすくわれて

支えられたりして

生きていたので

いいきかいだと思い

この手紙をかかせてもらいました。

 

私と音楽さんは

会ったことがないし

音楽さんからしたら

ただの人だと思うんですけど

まとめると

「ありがとう」を伝えにきました。

 

私は宿題をしているときや

おどっているとき、幸せなとき

ばくはつしそうなとき

ばくはつしたときなどに

音楽を聞きます。

 

音楽を聞くと

ふつうの生活に一つ花が咲くというか

みたされるというかおちつくというか

逆にあばれたりとかすごく心が動きます。

 

私は自分でものごとを決められなくて

自分が見えないんです。

でも音楽は自分の好きな曲とか

たっくさんあって

その中から選ぶのがとても楽しいです!

 

音楽は一人で聞くので、

本当に自分が好きな曲を聞けます!

ありがとうございます!

 

たくさんの音楽に対することを

言ってきたんですけど、伝わりましたか?

音楽というものがあるおかげで

私は何度も心が動きました。

 

明るい曲を聞いてかなしくなったり

くらい曲を聞いて泣いたり、

おもい曲を聞いて心が小さくなったりなど

音楽ってすげーパワーもってるなって思います!

ありがとうございます!

 

音楽がなかったら

今どうなっているのかなぁ~

と思うと大変です。

もっともっと自分を見つけて

音楽にふれていきたいと思っています。

 

でももしかしたらこれが

げんかいかもしれません!

 

音楽大好きです!

 

人間がほろびるまでつづきますように!

本当にありがとうございます!

 

音楽聞いてきます!

 

はつねより

YOASOBI「ラブレター」Trailer Movie - YouTube より引用

 

「音楽さん」という視点

私は、『ラブレター』を聴いた後に、Trailer動画に気づき、このはつねちゃんのお手紙を読んだのだが、読む前と読んだ後では曲の聞こえ方が、全く違った。

最初に聞いた時も素敵な曲だと思ったが、手紙を読んだ後は、より心から心に思いが来るというか思いが溢れてくるような不思議な感覚になったのだ。

まず、この手紙。私には書けないと切実に感じた。

”私には書けない”というのは、はつねちゃんと同じ小学6年生の自分にも、そして今現在の自分にも書けないという意味だ。

 

「ありがとう」をテーマにした手紙。

普通なら誰か、具体的な人物を思い浮かべ、その思いを綴るだろう。

しかし、彼女は”音楽”を選んだ。

私が、小学6年生の時はとても、音楽を擬人化する...いや音楽に”さん”を付けるなどという考えには絶対に至らなかった。そして今は、容易にそのような想像はできても、「音楽さんへ」なんて、恥ずかしくて口にしなかっただろう。

だからまさにはつねちゃんにしか書けない手紙なのだと思う。

 

そんな”音楽さん”に対して、「会ったことがないし」と表現している点も、とても面白い。私の頭なんかでは、「いつも聴いてるんだから会ってるでしょ?」と思うのだが、はつねちゃんからすれば、聴いているのは一方的な事で、会って話すのはこれが初めてということなのだろう。

私なら、「音楽を聞くことで音楽と対話している」なんて、抽象的な事を考えてしまうが、この視点は、”音楽さん”と擬人化しているからこそのもの。

私が「え?」と違和感を持って考えてしまうところに何だか面白さ、趣がある。

 

少し、今考えて見たが、好きな芸能人と初めて対面するときの感覚に近いのかもしれない。自分からすれば毎日見ているから慣れ親しんでいる。だから会っている気がするが、実際に会うと「はじめまして」と言う。そういう感覚なんだろうか?

そう考えれば「音楽さんからしたら ただの人だと思うんですけど」と書いている点

も非常に納得がいく。ファンは推しに対して「私なんて〇〇さんからしたらただのファンだと思うんですけど...」という気持ちでいるからだ...(笑)

その対象が「音楽さん」だから、「ただの人」と言うと、「人類の分際ですけど」的なSFっぽい意味にも聞こえまた面白い。

 

ラブレター

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  • YOASOBI
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

小学6年生だからこそ書ける等身大の文章

この手紙が、とても素敵に聞こえるのは、これが「作品」ではなく、小学6年生の女の子が書いた何の変哲もない「手紙」だからであろう。

先ほども少し触れたが、大人は何かと難しい言葉や、概念的な言葉を使いがちだ。それには意味が要約され容易に使用できるという意味や、カッコよく見せたいなど色々な理由があるだろう。

だが、幼い頃には、そんな言葉をまず知らないし、とにかく自分の知っている言葉で表そうとする。

それが結果として、大人には真似できない「純粋」な思いを表す高度な表現になっている。

 

「音楽をどんな時に聴くか?」と言う部分では、「おどっているとき」「ばくはつしそうなとき」と書いている。具体的な場合と、抽象的な場合が並列に並んでいるところ、大人が書くものなら「並列でならべちゃダメだろ」となるが、小学6年生だと、「とにかく色んな時に聞くんだろうなぁ」と、その文章の凹凸に逆に思いを馳せられる。

その後の部分でも、「というか」が連発されているのだが、普通なら「まとまりのないなぁ」となるところ、彼女自身のそのままの思いを聴いているという説得力に繋がる。

 

だから、「純粋な思い」を表現するという点において、子供の自然な言葉以上に優れた表現はないのかもしれない。

大人がどれほど高度な言葉選びを、表現技法をしようとも、子供の口から何気なしに飛び出す言葉には、それそのものが「ナチュラル」を帯びているから無敵なのだ。

 

また、これは私の肌感だが、小学6年生の子が書いたという事で、手紙の多くは平仮名で書かれている。

大人の目線では、漢字の方が読みやすいし、良いのではないかという見方になってしまうが、今回久しぶりに、平仮名の文章に触れてみると、とにかく”柔らかい”という印象があった。書き手が小学生という情報があるからだろうが、何となく柔らかい印象をもたらしてくれる。

”平仮名”とここまで表記してきたが、”ひらがな”の方が柔らかく感じるのではないか?

 

そして、「読むのに時間がかかる」

これはデメリットのようにも感じられるが、メリットの面もある。

以前、ある新聞の記事で、”ひらがな”に関する事が書かれていた。

そこでは、短歌や歌集が例に挙げられており、それらの表記にひらがなが多く用いられている理由について「感じが多くなると、無意識に読みが早くなり、意味だけを追うようになってしまい、その言葉の厚みやイメージが無視されてしまう。だから、読みを遅くするための苦肉の策としてひらがなを用いている」と記述されていた。

人間、表記を容易にすればするほど、その一文字、一単語に対して、流し読みで対応してしまう。だが、その一語一語には余白があり背景がある。それを感じさせるためにひらがなを使うという訳だ。確かに、平仮名であれば、どこで一単語なのかを確認しながら立ち止まって読まざるを得ない。

 

そして、その評論にはこうもあった「文学は意味を遠ざける傾向がある」

この手紙が、作品として読めてしまうのは、ひらがなをただの”知識の不足”ではなく”言葉への滞在時間を延ばしている表現技法”と私が捉えているからだろう。

もちろん、当の本人にとっては”知識の不足”ゆえの表現なのだろうが、”作品”としての視座を得る事で、ひらがなが力を持って私たちに作用している気がする。

手紙に接続語が少なく、どこかぶつ切りのように言葉が羅列されていくのも、文章的には”欠如”なのかもしれないが、それがどこか詞的に感じられたり、「思いがそのまま言葉になっている」と言う感じがして、良い方向に作用している。

 

という訳で、今回この手紙が曲という作品の一部になることで、私たち大人が、劣っている、欠如している、稚拙だとする表現も、高度な表現として感じられてくる訳だ。

とても面白いし、ワクワクする。

 

はつねちゃんの「ありがとう」

はつねちゃんがどのような女の子かは分からないが、小学6年生なりの、いやそれ以上の悩みや苦しみを経験してきたのではないかと勝手にだが、想像させられた。

自分でどうにもできない、どうにもならない。

自分のありのままでいられない。

そんな気持ちがあったのだと思う。

「ばくはつしそう」といった少々強めの表現が垣間見える点でも、

自分の気持ちを押し殺しているような印象を受ける。

そんな彼女を助けたのが、「音楽さん」だった。

 

手紙の中で、彼女は「音楽のおかげで心が動いた」と何回も口にしている。

彼女は「自分で自分が見えない」「自分で決められない」と言う。

でもそんな彼女が、音楽の中では「好きな曲がたっくさんあって、選ぶのが楽しい」

と口にしている。

”自分”のことは分からないし、何も決められないけど、”自分”の好きな曲は分かるし、選べる(決められる)、しかもそれが楽しい。

そして、「ばくはつしそうなとき」に「あばれたり」できる。

”自分”の気持ちに、我慢せず正直でいられる。

そういう意味で彼女の言う「心が動く」は、”感動”とかそんな平凡な事じゃなく、「色々な自分を知る事ができる」、「ありのままの姿でいられる」ということなのかもしれない。

 

「音楽は一人で聞くので、本当に自分が好きな曲を聞けます!」

この文言を聞くと、やっぱり彼女は、普段から自分の本当の「好き」を隠して、周りの「好き」に合わせているのかもしれない。そうやって自分を抑えているのかもしれない。そんな風に感じられる。

 

音楽の持つ力に関して、明るい曲を聞いて悲しくなったり、暗い曲を聞いて泣いたり、重い曲を聞いて心が小さくなったりする事をあげている点、最初は「相当ネガティブなんだな」と思っていたが、どれも「悪いもの」と抑え込んでしまう感情と真正面から向き合う事ができるという意味なのかもしれない。

はつねちゃんにとって、「音楽さん」は居場所であり、友達であり、自分自身を写す鏡みたいな存在なのだと感じた。

「音楽さん」すごい。

 

www.yoasobi-music.jp

 

『音楽さんへ』を『ラブレター』として再表現するYOASOBIのすごさ

少し、感情移入しすぎてしまったが、そんな彼女の『音楽さんへ』を見事、『ラブレター』という音楽にしたYOASOBIについて、そして『ラブレター』についても、少しお話しようと思う。

 

YOASOBIは「小説を音楽にする」というコンセプトで活動をしている。

だが今回は、”手紙”だ。

小説は、フィクションであり、作者はいても、その者自身が100%反映される訳ではない。その点、小説→音楽の流れは、比較的スムーズというか、そのものの姿、”作品”という枠組みは変化しない。

だが、”手紙”は、そもそも作品ではない。そして非常に主観性を持った、この作品においては、はつねちゃんそのものだ。

それを”作品”として再構成するというのは、YOASOBIらしいが、らしくないような不思議な気持ちになる。私としてはこの点で既にワクワクしてしまう。

 

というのも、YOASOBIという存在自体、『夜に駆ける』でブレイクしたその時には、非常に”無機的な”存在であった。それ故、具体的な存在が歌っているという感覚がなく、ボーカルikuraの声はどこかその物語の”ストーリテラー”のようで、それが物語の非現実性や没入感を生み出していた。それがYOASOBIの持ち味であり代表的な魅力の一つだと思う。

 

だが、今回は、それが別の作用を起こしていたのだ。

私は、少し前から、YOASOBIのラジオを聴いている。そこでは、YOASOBIの二人の、個性豊かなやり取りに触れられる。そう、人間としてのYOASOBIが存在するからこそ、音楽が無機質にならない。

ラジオを聴く前は何となく、距離が遠く感じたのだが、二人の人間性を知れば知るほど、曲に愛着もわいた。

そういった、当初の「謎の音楽集団」という側面から、親しみやすさを持ってもらいたいという彼らの活動があったからこそ、”無機的”な存在だったストーリーテラーという存在が、はつねちゃんの代弁者としての役割を果たし、はつねちゃんの思いが”手紙”と同様に私たちのもとに届いたのだ。

まるではつねちゃんが歌っているかのように。

近頃は、顔を出さないシンガーが多いが、最初は顔を見せず、世界観を構築し、後々、姿を現すことで愛着を加えるYOASOBIという存在は、やはりすごい。

物語性と主観性を併存させるYOASOBIだからこそ、『ラブレター』を生み出せたのだと思う。

 

「音楽さん」は無限に続いていく...

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さて、ここまで何故か気づいたら小学6年生の手紙のレビューをしてしまったが、『ラブレター』は本当に素敵な曲だ。

「YOASOBIは同じような曲ばっか」

という声もあるが、一つとして同じ曲はないし、『音楽さんへ』を読んでから聴くと、とてもそんな風に思えない。どれも一人一人にとってかけがえのない一曲だ。

MVの映像も、繊細に書き込まれていて夢のようなファンタジックな世界が「音楽さん」の無限に広がっていく世界観を見事に表している。

MVの途中で髪の毛の色が皆カラフルな女の子たちが4人出てくるが、個人的にこの子たちが「音楽さん」なのかとも感じた。

大阪桐蔭高校吹奏楽部の織りなす重層感ある音たちも加わり、はつねちゃんの思いをそれそのもの、いやそれ以上に引き出している。

ikuraとayaseに関しては、もう言うことがない、いつも最強だ。

 

 

はつねちゃんの手紙で気になるところが一つあった。それは最後の辺り。

「でももしかしたらこれがげんかいかもしれません」

どういう意味か分からないけど、『音楽さん』の力があっても、もう無理かもということかもしれない。

だが、そうだとしても、その限界は、YOASOBIが壊してくれたと思う。

彼女の「音楽さん」への思いは、また新しい「音楽さん」になった。彼女自身が「音楽さん」になったのだ。

そして、その思いは、また誰かを癒す。誰かの「心を動かす」

「音楽さん」は無限に続いていくからだ。

 

さて、長々と書いてしまったが、とにかくはつねさんに感謝だ。こんな素敵なお手紙を書いてくれて。

そして、改めてYOASOBIの魅力に触れることができた。

「物語を音楽に」というコンセプトの先には「思いを音楽に」があると思う。

今回の”手紙”だってそうだった。

思いを音楽と言う形にするというのは一見、初歩的な考え方な気がするが、他者の思いをくみ取り、それを曲にするというアーティストはあまりいない。

誰かの思いに寄り添うことはそう簡単なことじゃないからだ。

だが、はつねちゃんの思いに真正面から向き合いそれを表現したYOASOBI

令和になり、取っつきにくそうな音楽ユニットが出てきたと敬遠している人に伝えたい。

「YOASOBIほど優しさに溢れた包容力のある音楽ユニットないよ...」と。

「YOASOBIほど音楽に真剣に向き合っている人たちいないよ...」と。

ストーリテラーとしての匿名性を持ちながら、人々の思いを受け止め寄り添うことのできるYOASOBIの今後の活躍に期待したい。

最後は、『ラブレター』のサビの歌詞でお別れしましょう。

いつまでも「音楽」が鳴り続きますように。

皆が自分らしく生きられますように。

 

笑ってたいよ どんな時も

でも辛い暗い痛い日もある

けどね

あなたに触れるだけで気付けば

この世界が色鮮やかになる

花が咲くように

笑って泣いてどんな時だって

選んでいいんだ いつでも自由に

今日はどんなあなたに出会えるかな

この世界が終わるその日まで

鳴り続けていて ah-ah

 

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「オタク」面する「ミーハー」人間 2021.9.18

現代においてエンタメの楽しみ方は、多様化している。

特に「オタク」という応援の仕方が一般的に広がり、特定のものに熱中することが比較的、簡単になった。いつからかは分からないが、肌感ではスマホが登場して以降だろうかと思う。

 

ふと最近考えた。

「昔ってどう過ごしてたんだろう?」

 

今は基本スマホばっかり触っているけど、昔はそれが無かった。

ケータイはあったけど、スマホに比べたら使い勝手の良いものではなかったし、パソコンと同じくらいの頻度でしか使わなかったと思う。

 

だからその分、テレビに対する集中力とか、熱中力というものはすごかったんだと思う。今は、何気なくスマホ片手に「ながら見」してしまう。そういった「ながら見」は、「ソーシャル視聴」とも言われ、「オタク的」な楽しみ方でもあるので、悪い面ばかりではない。しかし、その分一つ一つの情報の価値が軽くなってしまった気がする。昔のドラマやバラエティの記憶がはっきりとしているのは、”思い出補正”を加味しても、一つのメディアに集中していたからなのではないか。

 

また、情報が手軽に手に入らない状況では、今のような「応援」「ファン活動」は、今の数倍、やる気やパワーが必要だったと思う。

今のようにすぐに情報にアクセスすることはできないだろうから、意識して「応援」の姿勢でいないと応援はできなかったはずだ。

 

そんな現代では「オタク」としての楽しみ方が優先されるが、その一方で、これだけ情報があるんだから、いろいろ楽しみたいという気持ちにもなる。それがまさに私だ。

私には「推し」がいるが、決してその「推し」が一人ではないし、全てのコンテンツを追う訳でもない(”追えない”とも言える)

先ほども書いたが、現代では非常に深く熱く「オタク」ができる。そして「推し」の文化も、熱すぎるほど熱されている。

その中で、自分が「推し」と呼ぶのは、たまに罪悪感を持つというか、「推しって気軽に言っていいのかな...」と思う事もある。

でも、決して愛が無い訳ではない。ただ、昔のような楽しみ方から未だに抜けられないのだ。

 

テレビで色んなものに触れて、その中でなんとなく「お気に入り」の歌手や番組が自然とできて...

そんないわゆる「ミーハー」な楽しみ方を子供の頃からしてきた。

それが好きなのだ。なんかバイキングに来て、列に並んでる時に「美味しそうー」って言って、好きなものを好きなように選ぶような一連のワクワク感に似てる。

 

まぁ、だからといって、昔の「テレビ」という情報源とは違い、インターネットの世界の情報は膨大で、冒頭話したように、一つ一つの価値を蔑ろにしてしまう恐れがあるため、「ミーハー」と「オタク」のその調整自体は工夫しなければならない。

結構、それは難しかったりする。

 

それに、昔と違い「応援」の距離が近すぎる事も慣れない。自分の応援している憧れの人に、簡単に自分の声が届いてしまう。いや、それは良い事なんだろうけど、近すぎると、自分の意見が、思いがその人に何か影響してしまわないか心配してしまう(どんだけネガティブなんだよ)

 

その一方で、毎日推しにメッセージを送り続けている人を見ると、シンプルにすごいなと思うし、私の推し界隈でも一人いるのだが、私が見ても「パワー」を貰うし、本人からそれに対する反応があったりして、簡単にできるからこそ、やる人がいないという事もある中、なんと尊いことだ...と思ったこともある。

 

今の時代、「オタク」をやりやすい世界にはなったが、どうも自分で情報を選んで、目的性をもって楽しむやり方に義務感を感じてしまうというか、しんどくなる事もある。

こうやって、「オタクしたい...でも...オタクしたい...でも」を繰り返してしまうのは、やはりあまりにも簡単に情報が手に入ったり、応援できるからだろうか...

 

というようなこともあり明確に「オタク」ではいたくないというか。

あくまでも「ミーハー」でいたい。

という気持ちがあったりする。

 

情報の海の中で、泳いでいる最中に「お気に入り」を見つけ「あっ!!」と興奮するような、昔にあった「ミーハー」体験を疑似的にしていたい。

だから私は、明確に言うと「オタク」というより「ミーハー」

いや...

SNSスマホを得て「オタク」面ができるようになった「ミーハー」という存在なんだと思う。

だから「推し」とは言ってみるし、ファンの繋がりには入ってみる。

そうやって自分の「楽しみ方」のスタイルを自分で選択でき調節できる今の時代、良いなと思う。

 

 

少し話は変わるが、楽しみ方という点で、昔はできなかった楽しみ方を私はしている。そしてそれが結構、好きな楽しみ方だったりする。

それは観察者としての楽しみ方。

簡単に言うと「自分の好きなものを好きな人を見てるのが楽しい」

 

昔は、自分が「好き!」って思った番組とか音楽があっても、自分1人でその感覚を味わうか、学校で「面白かったよな~」って友達と話すしかできなかった。

だが、今はSNSで、無数の人々のリアクションを見ることが出来る。

自分の好きな歌手や俳優に同じように、興奮する人々...

見ているだけで楽しくなる。

それは、昔、学校で「そうだよね~いいよね~!!」って話してた感じとは違って、

心の内の興奮をそのまま覗いてるような、より共感性の高い楽しさなのだと思う。

「そうだよね...分かる...」

「推しってやっぱりすごい...人の心をこんなに動かすなんて...」

みたいな感じの嬉しい気持ちになる。

 

そして、もっと言えば、自分の好きな歌手や俳優のファンである必要はない。

とにかく誰かが自分の好きなものに狂っている状態を見るのが好き。

それ自体がコンテンツになっている。

SNSを用いれば、それが簡単にできる。それは現代ならではだろう。

 

SNSに限らず実生活でも私の好きな体験がある(あった)

”あった”としたのは、コロナ禍になってすっかり過去の経験になってしまっているから。

私はよくショッピングモールで行われるアーティストのフリーライブ(リリースイベント)を見に行っていた。

たまたまよく行くショッピングモールがあったからで、「音楽好きだし、芸能人見たい!」レベルの軽い気持ちで行っていた。

 

一番楽しみにしていたのが、ライブ後の握手会やサイン会。

もう、字面で追ってると「そこまでファンでもないのに握手会を観察するヤバい人」でしかないのだが、ここが好きだった。

 

ライブ終わり、握手会の会場が設営されてる間に、ライブの余韻に浸る人達。

祭りの後の高揚感の残り香が、なんとも趣深い。

そして、皆握手会なりサイン会の列に並ぶのだが、今から握手できるんだというワクワク感と緊張から来るドキドキ感が、ライブの残り香が消えそうなところに上乗せされていい感じの雰囲気が生成されていく。

 

そして握手の後の多幸感あるリアクション。

体がふにゃふにゃになる人、口を抑えて目が見開いてる人、涙して嗚咽してる人、友達同士でワッキャしてる人、推しに興奮してる彼女の話を微笑ましく聞く彼氏、

そして極めつけは、母親に連れられやってきた小さい子供。憧れの人に会えて喜んでいる姿がまぶしかった。

なんだろう。それぞれの幸せが溢れていた。アーティストも会場スタッフも皆、嬉しそうで、あれこそ世界平和だと思った瞬間だった。

 

とこれは、現代だからできる楽しみ方ではないのだが、とにかく私はこういう、俯瞰でエンタメを楽しむことも多い。

エンタメが中心にある空間を見ているのが好き。

 

そんなことも含め、「ミーハー」な人間だと思うのだ。

コロナ禍が明け、また、そんな素敵な経験が出来たらいいと思う。