みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

ヤングケアラーの「私」の話 ③ ~私の世界は、皆の世界と違う~ 2021.9.15

皆さんこんにちは!!こんばんは!!みぞ!です!

今回も自分の事を書いていきたいと思います。前回と前々回まだ読んでいない方は読んで頂けると嬉しいです!!(長いですが何卒....何卒....)

 

mizomone7118.hatenablog.jp

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いつ、戦争が始まるか分からないから「動けない」

前回までは私が家族の問題を解決しようとして自然と身につけた「サバイバルスキル」

それが、思わぬ形で自分に牙をむいたという事をお話しました。

突然ですが...どうでしょうか。皆さんここまでブログを読んで頂いて、分かって頂けてますか?どう感じているのかな。

というのも今日、お話するのは、社会や他者との感覚の差、”違い”というものにも悩んでいるというお話だからです。

 

前回までに学生までは何もしなくても「学生であること」「勉強で良い成績をあげる事」さえあれば、それ以外は「リスク」として選択しなくても何の問題もなく過ごしていける。だけど、社会人になると、そうはいかずなし崩しに一気に辛くなってしまった。という趣旨のお話をしてきました。

ですが、これはあくまでも、「ヤバいやつ」と思われないように、「ストレス」を出来るだけ感じないように、自分を最低限「守る」ための生き方です。

そう、学生生活には「青春」というやつがあります。

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出来るだけリスクを避ける私の「サバイバルスキル」は交友関係において、「自分の本心は隠す」「自分の意見はあまり言わない」「できるだけ深い関係にならない」という方面に働きます。

そうなると、サークルに入るとか部活に入るとかそういう何かに所属する事自体、億劫になる。失敗を恐れるあまり、アルバイトも出来ず、そんな大学生活を送ることになりました。前回の記事を読んでもらうとそうなってもおかしくないことは何となく分かってもらえるでしょうか...

 

これも前回お話したかな?もう一つは、いつ「戦争」になるか分からないから、油断できないと感じていたからです。

高校時代になると「戦場」になる回数は、徐々に減ってきていました。それは父が少し断酒をしてくれたこともあったから。

(断酒したが故の反動もあり、それによる戦争もありましたが(笑))

ですが、自分の「サバイバル」本能?が、ずっと「戦場」だと思い込んでる。ずっと体が心が「緊張」している。

実際、いつそうなるか分からないという状況が家では続いていました。

その感覚が、いじめもなく穏便に過ごせる高校、大学にまで残ってしまった訳です。

何かに所属すると忙しくなる、忙しくなれば急に家で「戦争」が始まった時、私が仲裁に入れない、そしてその傷を癒す時間を用意できない。

中学の頃、テストの一日前の夜、テスト勉強の追い込みをしたかったのに「戦場」になってめちゃくちゃダメージを食らってしまったのはとてもよく覚えています。

中学の頃は特に、テスト勉強の時に「戦争」起きたら、もうテストは終わるぐらいの気持ちで、そちらの対策もせざるを得ませんでしたね...

 

そんなこんなで今の今まで、常にそんなことを考え、「何もしない」を選択せざるを得ませんでした。それが出来る環境にあったのがまだ幸いだったのかもしれませんが。

 

そんな「サバイバルスキル」の暴走に拍車をかけたのが、自分が他の人と違うという感覚。

そもそも私自身、「人の顔色を伺う」事が当たり前になっていたので、「人と違う」という事に強烈な劣等感や拒否感を持っていました。

言い換えれば、とても「普通」というものを気にする。

そのため、「サークルには入らなければならない」「バイトをしなければならない」

というような形だけの「べき」論のために、悩んだりサークルの体験会に行くなどしていました。今思えば、全然楽しくない無駄な事をと思います。(周りからも理解されないし)

私が苦しんでいるのは、自分自身の内的な面ともう一つ、それに伴ってついてきた「私は他とは違う」

そんな感覚でした。

 

生きている世界が違う 見えている景色も違う

「他の人には分かってもらえない」

まさにその感覚は中学時代からあって、私の取った「我慢する」「殻にこもる」という性質上、社会との距離は日に日に離れていきます。

そんな中、出会ったのが、好きな音楽やエンタメで繋がったTwitterのフォロワーさんなのですが、それはまた後々。

 

ここまで何回も言っている「戦場」という言葉。

家の中では防衛反応であっても、外に出れば異常行動。

それは要するに、自分(自分の家族)と社会のルール、評価軸、価値観に人より大きな差があるという事です。

私自身、つい最近までその異常なまでの防衛反応に自分でも気づいていませんでした。

ですが、その感覚は私にしかありませんでした。

ほとんどの人は、そういう経験をしていないし、私のとる行動や考えを理解できない。

だからこそ、それを話す事が出来ない。相談が出来ない。

そして、それは話してはいけない事なんだと。隠すべきものなんだと。

社会が「普通」で、自分は「異常」なんだと。

そう感じていたからこそ、疎外感や孤独感は、現実的なものになっていきました。

 

それに、前述したように私がリスク回避として経験しなかったものを、皆が共通の経験として持っている事、それが自分は苦しかった。何気ない「なにかクラブしてた?」とか「バイト何してた?」とかそういう質問に答えられない。

そこから話が進められない。

そういう共通経験がないことも私と社会を遠ざける大きな要因だったと思います。

皆の当たり前が怖かった。

 

また、言い出せなかったのは自分自身が「社会に都合の良い存在を演じる」のが皮肉にも上手かったからというのもあります。

後に、社会に出ると一気にガタが来ますが、前述の通り、学生時代は「勉強のできる真面目な子」「几帳面でしっかりしている子」と同級生にはもれなく皆から思われていました。

もちろんそれ自体が全て嘘という訳ではありませんが、その全てが自分の本心が反映されたものかと言われるとそれも少し違います。

そのイメージのおかげで、というかそれを維持するために、自分の弱みを見せられない。

「しっかりしている」

その言葉が自分を苦しめ、その型にハマるように向かわせ、誰にもその悩みを相談できないといった状況を生みました。

 

また、私は「短所は?」と聞かれた自己紹介の際は、「人見知り」なところ

といつも言っていました。周りもそれにたいてい同意します。そして自分自身「コミュ障」だとも思っていました。

ですが、それは自分のありのままの弱点ではありませんでした。それすらも社会に合わせたものだったんですよね。

だって皆「人見知りです!」って言いますよね。でも自分が悩んでるのはそういう漠然としたものじゃない。ちゃんとした明確な経験の積み重ねが生んだトラウマのようなものです。

ですが実際、社会に出ればその経験自体を喋るわけにはいきませんから、結局、形式的な「人見知り」と形容するしかありませんでした。

 

 

そして、もう一つ辛い事、やはりここまで説明しても「結局、甘えてるだけじゃん」「自分で何もしようとしてない」と言われてしまう事です。

そもそもここまで説明すること自体、文字ならまだしも口頭では無理です。しかもこの類の話をすれば批判か、過度な慰めか、スルーかのどれかの反応しかありません。どれも苦しい。だから話さず、「人見知り」と形容する。

 

ここまで話してきて分かったと思いますが友達はめっちゃ少ないです(笑)

空気が重かったので、軽い感じで言いましたが、まぁここまで社会との差を感じ、実際、社会に対して相談するどころか自分を隠すのだから、当然深い友人関係はなかなか生成されません。

 

腹を割って話せないためため仲良くなれないし、仲良くなりすぎるのが怖い。

だから一人になっていくという訳です。

人間って難しいですよね~

 

 自分が選択している感じがしない。強制された「苦労」

 社会と自分との間に大きな溝があって、一人になってしまう。

それが私の辛さの外的な面です。

ですが、私は「一人」が好きですし、むしろ大人数は苦手です(それは本心で)

だから孤独は耐えられますし、それ自体は何も嫌な気はしない(と思います)

じゃあなんだよ?ってなりますよね。

それが自分の選択ではない。選択肢を奪われた上での結果であることが悩ましい。

何をするにしても「家庭環境」の事が足かせになる。気がかりだ。

だから自分で選べない...いや選んでいる感じがしないという感覚がずっとありました。

 

「若い時の苦労は買ってでもせよ」

なんてよく言いますが、私のように環境に強いられるような苦労。つまり自分で選べない押し付けられた苦労、そんなものはしないに越したことありません。

多くの事ができず、心にも大きな傷を残したこの何十年間、正当化しないとやってられない。

だから「こういう経験があったからこそ、思う事が考えられることがある」

と今まで思ってきましたが、それは間違いです。

もちろん、その節もありますが、それをそんな風に口実にしてはいけないと思います。

だって不条理で選択のできない状況はを”苦労”なんて言葉では表せないから。

 

それに社会も、私が「ずっとそんな境遇で生き抜いてきたからその自負はある!」と思っていても、それを「苦労」として評価しない。

それどころか、たとえ家庭環境が原因で苦労してきて、私のように他者に対しての振舞い方につまづきを感じたとしても、周りからは「陰気な奴」「能力がない奴」「怠惰な奴」という評価しかされません。

前回話したように、私がしてきたことは社会の評価軸では論外、無意味、むしろ最低評価に繋がってしまう。

社会は、自分で選択して立ち向かい何かを得るための「苦労」しか美徳としません。

就活時も、「学生時代に頑張った事は何ですか?」という定型の定型の定型の疑問を投げかけられますが、それも自分が「苦労」した経験の中で、何を得たか見るもので、それは大抵、自分自身が選択したものである事が前提である気がします。

そして、ネガティブなものは忌避したがる。

「強いられた苦労でも学んできたことはある!」とそれを相手に話せたとしても、「ネガティブ」な要素として判定される。だから、それは無かったことにするしかない訳です。(福祉系のお仕事は別化もしれませんが)

だから就活時はとても「苦労」しました...(笑)

 

と!今日はここまでにしましょうか!!

今日は、主に社会と自分自身の間にある溝、壁が私をしんどさの一つであるという事。他者に分かってもらえない、他者と話が合わない、それどころか社会から否定されてしまう。だから、自分を偽る。だけど社会と他者との差は埋まらない。そんな辛さ。

そして、とにかく何をするにも何を考えるのも父親の事が頭にある、そして何をするにもその出来事が足を引っ張る。選択肢を強制する。その苦しさについてもお話させていただきました。

ここまで読んで下さりありがとうございました!!!次回も是非。

(多くのアクセスありがとうございます...!!ホントにありがとうございます。)