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繋ぐ「音楽」巡る「音楽」出会う「音楽」2021.7.5

繋ぐ「音楽」

先日は、女優としても活躍している上白石萌音のライブへ。

とてもとても良かった。”良かった”という言葉ではとても言い表せない程。

彼女のライブ自体に関する感想は、Twitterを覗いて欲しい。

今回は、久々に「ライブ」に行って感じたことをちょこっとだが綴っておきたいと思う。

 

私がコロナ以前、最後にライブに行ったのは2019年の11月。

今回のライブはおよそ1年半ぶりであった。

 

 

私がライブに初めて行ったのは、10年程前。母が好きなアーティストのライブに付き添いで訪れたのが最初だ。

初めてのライブはライブハウスだった。母も私もライブハウスが初めての経験だった。

当時、「暗い」「危ない」「お酒の場」というネガティブなイメージをライブハウスに持っていた母と私だったが、そのイメージは瞬く間に払拭された。

ライブハウス、コンサートホールという空間の不思議な力に魅了されたからだ。

不思議な力。具体的には、その”一体感”だ。

 

先日のライブでは、4年前に行った彼女のライブとは打って変わって女性、特に高校生や主婦世代がメインファン層になっていた。

筆者は20代男性である。女子高生とも主婦の方とも同じ空間を共にする機会はめったにない。普段は交わらない人々だ。

だが、ライブ会場ではそこにいる全員が「上白石萌音の音楽を聴きに来ている」という共通点を付与される。

つまり、ライブ会場においては「そこにいる」という事自体が、世代や、立場などの違いを飛び越えるのだ。

普段、関わる事のない、自分とは”違う”と距離を置いていた人々が、一気に近くなる、

ライブ後の余韻が残る帰路のあの皆”同じ”という感じ。

そういうライブの一体感を、久々に身を以て感じた。

異なる世代、立場の人が、一瞬で一つになれる空間。

そんな空間、ライブ会場以外にはなかなか存在しないのではないか。

 

日常では、様々な”違い”からいろんな苦しみ悩みが生まれる。

そんな”違い”を包摂してくれる、多様性の許容を疑似的に教えてくれる理想の空間がライブ会場なのだ。

うまく言葉に出来ないが、声も出せない中、手拍子とペンライトを暗黙の了解で、合わせる会場の空気感に感動し、ブログに綴ろうと思った。

音楽がこれからも多くの人の世代や立場という隔たりを超えて、人を繋げる存在であって欲しいと願い、コロナが収束し、よりライブが一体感を増す空間になることを願うばかりだ。

 

巡る「音楽」

先日、日本テレビで8時間にも渡る音楽特番が放送された。

夏になると各局、音楽特番を放送するのはいつの間にか毎年恒例の流れになっている。(以前は年末だけだった気がする)

今年は、コロナ禍ということもあり、正直なところ、収録パートやVTRのコーナーが多く、少し満足できないところもあったが、”音楽は止まらない”というキャッチコピーにふさわしい素敵な番組であった。

その中では、有名人や歌手の思い入れの曲を本人に紹介してもらうコーナーがあった。

その中には、今をときめくシンガーソングライター、あいみょんも。

あいみょんと言えば、曲のストックがとてつもなく多いことで有名(私の中では)

若者にも、場合によっては若者音楽に難色を示すお父さんお母さん世代にも、定評のあるミュージシャンの一人ではないだろうか。

そんな彼女が、挙げた曲は、小沢健二吉田拓郎の楽曲だ。

皆さんは”小沢健二” "吉田拓郎”を知っているだろうか。

 

あいみょんが若者だけではなく、広い世代に愛される所以の一つは、その音楽性のルーツが、小沢健二吉田拓郎など、親世代の馴染みのあるアーティストにあることだ。

どんな有名ミュージシャンでも、昔好きだった音楽はあるだろうし、聴いていた音楽はあるはず。そうでないと音楽家を目指そうとは思わない。

となると、その人の作る音楽には、そういう昔聴いていた人の音楽のエッセンスが大なり小なり染みついている。

そして、それを聴いた人が、音楽を始める...

というように、いわば音楽は巡っているのだ。

 

「えー吉田拓郎って誰??」「えー小沢健二って誰??」と言っていた若者が「あいみょんの音楽のルーツだって!!聴いてみたらめっちゃいいんだけど!!」という流れになる、その流れ、私は大好きだ。

なぜなら音楽が巡っている事を実感するからだ。

 

現代では、”最新”の楽曲、”再生回数”の多い楽曲が消費されやすい構造が、サブスクリプションサービスなどで出来上がっている。

だが、曲はその程度の指標では測りきれない。

そういう指標では巡り合えない、楽曲がまだまだある。

それ故に、音楽性の連関の中で、”口伝え”のように、音楽を知っていくそのプロセスはとても大事で、素敵なものだと感じる。

指標によらない、感性からの出会い。そういう音楽体験を失いたくないなと思う。

 

また、そういう過去のものへの関心は、過去を生きた人々、つまり自分より上の世代への関心でもある。

無関心は、無責任で理由のない悪意、否定のもとだ。

そういう意味で、過去の音楽は、世代を超えたコミュニケーションをも可能にする。

そんな可能性にも期待していたい。

 

いずれは私たちが聴いている音楽が、誰かにとってのルーツになる。

そんな未来の音楽も楽しみだ。

音楽は人と共に巡ってゆく。

 

出会う「音楽」

このブログでは、筆者自身が音楽に救われている経験から、音楽には様々な力があると語ってきた。

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

音楽には色々な作用があって生きる上で、自分を助けてくれるものだという、過去に記事で述べた意見は変わっていないのだが、ふと思う事があった。

「誰もが音楽に出会うことが出来るのか?」

「誰もが音楽にライフスキルとしての価値を見出せるのか?」

という疑問だ。

前述した上白石萌音のライブで感じたことの一つにこんなことがあった。

 ライブのチケット代は大体、会場やアーティストによっても様々だが、3000円から9000円ぐらいが一般的だろうか。

筆者含め、ライブに行ったことのある人からすれば、「妥当だ」という感覚だが、よくよく考えれば、まぁ安い値段ではない。

その値段で、音楽を聴こうと思えることは案外、普通の事ではないのかもしれない。

そう、今回のライブ終わりに思った。

筆者含め、音楽に親しみがある人は、何気なしに音楽と出会っているが、そのきっかけがない人だっているかもしれない。

音楽には生きる上で助けてくれる拠り所になる存在だと、過去のブログでも述べたのだが、それも、文化的資本が十分でなかったり、心理的側面でその余裕すらない人には無力、というよりその力が及ばない。音楽を聴くことすらできない。

 

そのように思うと、音楽が身近に聴けること、出会えることはとても幸せなことなのだと実感する。そして、その反面で、音楽に出会えない人もいる、音楽がライフスキルとして作用しない人もいるのだと思うのだ。

 

また、音楽は身近にあるのに、日々流れ続ける情報の海のしぶきの一つとして消費してしまう人、そんな一曲一曲に込められた思いに気づかない、思いを巡らせることが出来ない人もいるのではないか。

 

コロナ禍の今、音楽どころではない、そんな声もある。そんな人もいる。

辛い時に音楽を享受できるという状況が当たり前ではない。

それを実感して、音楽に出会えて、音楽に思いを馳せられる自分は幸せ者だという事を改めて感じさせられた。