「オタク」面する「ミーハー」人間 2021.9.18
現代においてエンタメの楽しみ方は、多様化している。
特に「オタク」という応援の仕方が一般的に広がり、特定のものに熱中することが比較的、簡単になった。いつからかは分からないが、肌感ではスマホが登場して以降だろうかと思う。
ふと最近考えた。
「昔ってどう過ごしてたんだろう?」
今は基本スマホばっかり触っているけど、昔はそれが無かった。
ケータイはあったけど、スマホに比べたら使い勝手の良いものではなかったし、パソコンと同じくらいの頻度でしか使わなかったと思う。
だからその分、テレビに対する集中力とか、熱中力というものはすごかったんだと思う。今は、何気なくスマホ片手に「ながら見」してしまう。そういった「ながら見」は、「ソーシャル視聴」とも言われ、「オタク的」な楽しみ方でもあるので、悪い面ばかりではない。しかし、その分一つ一つの情報の価値が軽くなってしまった気がする。昔のドラマやバラエティの記憶がはっきりとしているのは、”思い出補正”を加味しても、一つのメディアに集中していたからなのではないか。
また、情報が手軽に手に入らない状況では、今のような「応援」「ファン活動」は、今の数倍、やる気やパワーが必要だったと思う。
今のようにすぐに情報にアクセスすることはできないだろうから、意識して「応援」の姿勢でいないと応援はできなかったはずだ。
そんな現代では「オタク」としての楽しみ方が優先されるが、その一方で、これだけ情報があるんだから、いろいろ楽しみたいという気持ちにもなる。それがまさに私だ。
私には「推し」がいるが、決してその「推し」が一人ではないし、全てのコンテンツを追う訳でもない(”追えない”とも言える)
先ほども書いたが、現代では非常に深く熱く「オタク」ができる。そして「推し」の文化も、熱すぎるほど熱されている。
その中で、自分が「推し」と呼ぶのは、たまに罪悪感を持つというか、「推しって気軽に言っていいのかな...」と思う事もある。
でも、決して愛が無い訳ではない。ただ、昔のような楽しみ方から未だに抜けられないのだ。
テレビで色んなものに触れて、その中でなんとなく「お気に入り」の歌手や番組が自然とできて...
そんないわゆる「ミーハー」な楽しみ方を子供の頃からしてきた。
それが好きなのだ。なんかバイキングに来て、列に並んでる時に「美味しそうー」って言って、好きなものを好きなように選ぶような一連のワクワク感に似てる。
まぁ、だからといって、昔の「テレビ」という情報源とは違い、インターネットの世界の情報は膨大で、冒頭話したように、一つ一つの価値を蔑ろにしてしまう恐れがあるため、「ミーハー」と「オタク」のその調整自体は工夫しなければならない。
結構、それは難しかったりする。
それに、昔と違い「応援」の距離が近すぎる事も慣れない。自分の応援している憧れの人に、簡単に自分の声が届いてしまう。いや、それは良い事なんだろうけど、近すぎると、自分の意見が、思いがその人に何か影響してしまわないか心配してしまう(どんだけネガティブなんだよ)
その一方で、毎日推しにメッセージを送り続けている人を見ると、シンプルにすごいなと思うし、私の推し界隈でも一人いるのだが、私が見ても「パワー」を貰うし、本人からそれに対する反応があったりして、簡単にできるからこそ、やる人がいないという事もある中、なんと尊いことだ...と思ったこともある。
今の時代、「オタク」をやりやすい世界にはなったが、どうも自分で情報を選んで、目的性をもって楽しむやり方に義務感を感じてしまうというか、しんどくなる事もある。
こうやって、「オタクしたい...でも...オタクしたい...でも」を繰り返してしまうのは、やはりあまりにも簡単に情報が手に入ったり、応援できるからだろうか...
というようなこともあり明確に「オタク」ではいたくないというか。
あくまでも「ミーハー」でいたい。
という気持ちがあったりする。
情報の海の中で、泳いでいる最中に「お気に入り」を見つけ「あっ!!」と興奮するような、昔にあった「ミーハー」体験を疑似的にしていたい。
だから私は、明確に言うと「オタク」というより「ミーハー」
いや...
SNSやスマホを得て「オタク」面ができるようになった「ミーハー」という存在なんだと思う。
だから「推し」とは言ってみるし、ファンの繋がりには入ってみる。
そうやって自分の「楽しみ方」のスタイルを自分で選択でき調節できる今の時代、良いなと思う。
少し話は変わるが、楽しみ方という点で、昔はできなかった楽しみ方を私はしている。そしてそれが結構、好きな楽しみ方だったりする。
それは観察者としての楽しみ方。
簡単に言うと「自分の好きなものを好きな人を見てるのが楽しい」
昔は、自分が「好き!」って思った番組とか音楽があっても、自分1人でその感覚を味わうか、学校で「面白かったよな~」って友達と話すしかできなかった。
だが、今はSNSで、無数の人々のリアクションを見ることが出来る。
自分の好きな歌手や俳優に同じように、興奮する人々...
見ているだけで楽しくなる。
それは、昔、学校で「そうだよね~いいよね~!!」って話してた感じとは違って、
心の内の興奮をそのまま覗いてるような、より共感性の高い楽しさなのだと思う。
「そうだよね...分かる...」
「推しってやっぱりすごい...人の心をこんなに動かすなんて...」
みたいな感じの嬉しい気持ちになる。
そして、もっと言えば、自分の好きな歌手や俳優のファンである必要はない。
とにかく誰かが自分の好きなものに狂っている状態を見るのが好き。
それ自体がコンテンツになっている。
SNSを用いれば、それが簡単にできる。それは現代ならではだろう。
SNSに限らず実生活でも私の好きな体験がある(あった)
”あった”としたのは、コロナ禍になってすっかり過去の経験になってしまっているから。
私はよくショッピングモールで行われるアーティストのフリーライブ(リリースイベント)を見に行っていた。
たまたまよく行くショッピングモールがあったからで、「音楽好きだし、芸能人見たい!」レベルの軽い気持ちで行っていた。
一番楽しみにしていたのが、ライブ後の握手会やサイン会。
もう、字面で追ってると「そこまでファンでもないのに握手会を観察するヤバい人」でしかないのだが、ここが好きだった。
ライブ終わり、握手会の会場が設営されてる間に、ライブの余韻に浸る人達。
祭りの後の高揚感の残り香が、なんとも趣深い。
そして、皆握手会なりサイン会の列に並ぶのだが、今から握手できるんだというワクワク感と緊張から来るドキドキ感が、ライブの残り香が消えそうなところに上乗せされていい感じの雰囲気が生成されていく。
そして握手の後の多幸感あるリアクション。
体がふにゃふにゃになる人、口を抑えて目が見開いてる人、涙して嗚咽してる人、友達同士でワッキャしてる人、推しに興奮してる彼女の話を微笑ましく聞く彼氏、
そして極めつけは、母親に連れられやってきた小さい子供。憧れの人に会えて喜んでいる姿がまぶしかった。
なんだろう。それぞれの幸せが溢れていた。アーティストも会場スタッフも皆、嬉しそうで、あれこそ世界平和だと思った瞬間だった。
とこれは、現代だからできる楽しみ方ではないのだが、とにかく私はこういう、俯瞰でエンタメを楽しむことも多い。
エンタメが中心にある空間を見ているのが好き。
そんなことも含め、「ミーハー」な人間だと思うのだ。
コロナ禍が明け、また、そんな素敵な経験が出来たらいいと思う。