みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

「言葉」の濁流。「思い」の雪崩。2022.10.2

打算的でしかない。今こうしたら後困る。先の不安定さにいつも恐怖し、"なんとかなる"とはとても思えずにいる。それはどこにも何にも寄りかかっていいのだ。これがあれば大丈夫だと思える場所がないからだろう。

言葉にしなければならないと思うのは、自分の行為が正当化され相対化されなければ自分は存在していてはいけないと思うからだ。自分の存在証明を常に求められる。自分の生き方に口実がなければ耐えられない。意味を探し、理由を求め日々を生きる。言い訳を探すために言葉にする。分かって貰えない怖さ。分かって貰えないと困る。言い訳じゃない。分かって欲しいだけなのにそれは言い訳なのだ。そのために言葉を尽くす。だけど。分かって貰わないと困る。常に共感を求める。言葉を尽くせば尽くすほど、傲慢で、醜い雑音になってしまう。好きな言葉が音が物語が、私の身勝手な叫び声の糧になってしまう。罪悪感。ごめん。と呟く暇もなく、またループする。誰にも分からない。でも、私にはそれしかない。分かって欲しいと願えば願うほど、皆が離れていく。皆はなぜ何の確証もないのに繋がりを持てているのか。常に完璧を求め、裏をかき、目の前にあることさえも信じられない。それが結局はせっかくできた繋がりをダメにしてしまう。ずっとその連続だった。「あーあまただ」そんな事を繰り返している内に、繋がりが崩れるのがどんどん怖くなった。「楽しい」「好き」そう思えたのは一瞬。関係を続ければ続けるほど、疲れてくる。この人はいつ私に愛想をつかすのだろうか。いつか消える。いやいつか私が壊すのだろう。そう思えば思うほど、気づけば繋がりに執着し相手のあいまいを許さず、言葉を求め、その末には自分で叩き壊している。全て自分が自分で立てないから、それに依存するしかないのだ。それはとてもツラい事だ。私のことだけど私の意識を離れたような。あぁ。でもそんなことを言えばまた言い訳になる。となるとやはり自分のせい。自分が自分で好きな人との心地よい距離感を壊している。そんな事が積みあがって、好きな人が分からなくなった。ホントにあなたが好きだと思う人?あなたの都合の良い依存先を探しているだけじゃないのか?結局自分のため。そんなこんな重たい何かを背負ったやつのことなど誰がかまうものか。そして、それが私をもっと重くする。気がつけば、目の前には壁。どこにも行けず、周りとは壁を通じてしか話せない。どうすればいいか分からない。

言葉を繕えば、周りからはハリボテだと暗に理解されていく。誰も触れも傷つけもしない。無味乾燥な存在。世界。

それでも、その世界の反対にいつもキラキラした夢の世界があった。その世界は、打算的で無機質な決まった事しか起こらない世界にはあり得ない、理由が意味が見つからないドッと押し寄せる、だけど柔らかくて、あたたかいなにかがあった。それは私を私たらしめる、「この感情好きだな」を何も気にせず持たせてくれた。

どれだけ私が、言葉を音を物語を利用しようとも、それに抗うように彼らは訴えかけてくれた。

なんの因果かその一筋の感情が、いくつも感情に分かれ、糸になり好きだと思える人に結ばれた。打算的で無機質なつまらない人間になっていた私が何故か、そうは見えない、いやそうならなくても良い人と出会えた。とはいえ、結局はそんな簡単じゃなく結局抗いながら壊してしまったり、壊れそうになっているのだが。

 

別に何にも挑戦せず、今を維持し、永遠に続いて終わるのだろう。なんて思ってたのに、今やそんな自分に嫌気がさし、少しでも近づきたいと思う。

「反抗期」「若気の至り」「青春の痛さ」「学生は無敵」

そのどれをも嫌悪し、無視し通り過ぎたが、今はとても羨ましく思える。

好きな事に没頭し夜を明かし、好きな人と一晩中語り合い一緒に朝焼けを見る感覚を知りたいと思う。

ずっと、ルールを逸脱し自分のしたいように無茶をしてそれを誇る人、それを肯定する世界が好きになれなかった。

「若ければ何でもできる」「真面目に生きるのはつまらない」「親の言う事なんて無視すればいい」

笑いながらそこらへんで右から左に流れていく会話に首を縦に振る事はできなかった。悪気はなくとも、「何も知らないくせに」と苛ついた。

親を踏んでも蹴っても踏み台にしても大丈夫な人はいいよなと思っていた。

あんたらの当たり前は当たり前じゃない。それを渇望し妬む人だっているんだ。妬みなどという形でしか、求められない、声にならない悲しみ、虚しさがある。

 

 

回る周る廻る、そうやって矛盾と暗に起こる慟哭を繰り返しながら、自分が失われていく。私の感情はなに?偽物?どこまでが往復し回転する前の元の自分だったか分からない。そんな自分が好きなのか嫌いなのかさえも。周りに影響され変わっていくのが人間。でも、私は、己が壊れないために固く閉ざしたが故に分裂したようなとてつもない虚無感に覆われているずっと変わらない。永久に変わる事はない、変える必要はない。変わる事はできない。まるで拘束具をつけられたように。

 

「なんとかなる」

よく皆そう言う。

「なんとかならない」

その逆は誰も言わない。

「なんとかなる」は希望になる。素敵な言葉だ。だけど、その向こう岸には確かに「なんとかならない」もある。なのに、皆「なんとかならない」は見ない振りをする。もし見えたのなら、皆が共犯になってそれを小さい箱に閉じ込めてどこかへ蹴り飛ばす。

 

「仕方ない」

皆こうも言う。

「仕方なくない」

また、この逆は誰も言わない。

「仕方ない」と言えば全てが片付く。でもホントに片付いた?

向こう岸には、「仕方なくない」もある。絶対に。

 

子供の頃、世には「なんとかなる」しか「仕方ない」しかないように見えた。世界がそう言っていたから。今になって「なんとかならない」も「仕方なくない」も見えるけど、子供の私には、それが「存在してはいけない」「欠陥品」にしか見えなかった。だから私も、それを蹴り飛ばしどこかへ追放する手助けをした。

でも、なぜか私はつらかった。

「なんとかならない」「仕方なくない」と言えなかったから。

私は「なんとかなる」と屈託もなく言える子供でいられなかった、「なんとかならない」事の前で、無力感を身に染み込ませながら、それでもそこにいるために考えた。

世界が「なんとかならない」を追放するのだから、私は「なんとかなるはずなのになんとかならないのは私のせいだ」とそう思った。全部私が悪いんだ。

今でも、どこにでも行けて、なんでもできる人を見ると結局、私はどこにも行けないしなんにもできないと思ってしまう。

 

「なんとかなる」も「仕方ない」もそう思える経験を積み重ねてきた人にしか希望にならない言葉なのかもしれない。

何でもできる全能感を持った子供たちばかりではない。「なんとかなる」「仕方ない」が絶望になっていた子供たちもいるのだと思う。その言葉は「もがいても無駄だ」と喉元に常に突き付けられていたのかも。

その行く先が打算的な生き方だった。言葉を尽くし鎧にすること、剣にすることだった。なのに、同時に妬ましく思わざるを得ない私の打算的な生き方が嫌だ。その時は命綱だったのに。いつの間にか私の体を締め付けて止まない。

 

「何をしても無駄だ」

どこかでそう思ってるから、今も幸せに手を伸ばす事が怖い。自分で作った人間関係を自分で壊してしまう、いや壊したくなるのか?知らないうちに壊れている。

昔、アスレチックに行った事があった。高いところが苦手だった。落ちないように行けばいいのに。自分から足を踏み外して落ちた。今思えばそういうことか。

「なんとかなる」ことを嫌悪し、「仕方ない」を否定する、幸せになってたまるか、自分で幸せを手放そうとする、じゃなきゃ今までのはなんだったんだと。

本当はそんなことしたくないのに。

 

明るい場所は光って見えやすい。けど暗い場所はなかったことにされがちだ。むしろ忌み嫌われる。

「ネガティブな事ばかり言うのはNG」

「重い話は嫌われるからしてはいけない」

そんな声をよく見る。

なんで皆、陰を認識しているのにそれをなかったことにしようとするのだろう。

怖いから?きっと皆持ってるのに、そこにその人がいるのに。なぜ無視するのだろう。

 

仲良しグループみたいなのがとても羨ましい。学生の内に皆んなで旅行に行ってとか。

ただただ羨ましい。ただそれが欲しいだけなのに、そう思えば思うほど"一人"の自分がどこか惨めに思えてくる。「一人」を否定したくないのに「独り」にすげ変わる。

ずっと一人で頑張って来たから、他者との距離感が分からない。自分の気持ちに正直に。そういようと思えば思うほど、別れに近づいている気がする。近づけば不安になる、幼き頃から他者と繋がって生きてきた人には必要のない、関わりの結果を求め始めその疎ましさに自滅する。それは自分が心を許せると思った人に対して特にだ。悲しい。同じ思いを持っているのに上手く紐帯をつくれない。

 

飲み会が苦手。だって行かなければレッテルを貼られる気がするから。皆んなでワイワイお酒を飲みたくない訳じゃない。だけど、私の中で"飲み会"という概念が、自分を貶めるものに見えて怖い。

 

もう、もはやあらゆる概念がねじ曲がって歪んで私の中にいる。どこまでが自分なのかも分からない。どう言葉にしていいのかも分からない。正解を探す、不正解を選ばないように。するとどんどん自分から離れていく。

 

皆んな、なにもかも、光もあれば陰もある。

「〜ない」という接尾辞は、ただただ「反対」「逆」って意味。

いつから「否定」になったんだろう。いつから「悪」になったんだろう。

日なたも日陰もただ横に存在してる。向こう岸なんかじゃない。

「なんとかなる」けど「なんとかならない」事もある。

「なんとかならない」けど「なんとかなる」事もある。

「仕方ない」けど「仕方なくない」事だってある。

「仕方なくない」けど「仕方ない」事もある。

「仲良しグループは素敵」だけど「一人で楽しめるも素敵」だけど、「仲良しグループもやっぱり羨ましい」

「ネガティブな話」「重い話」もするけど「彼は前を向いてる」「彼は素敵な人」

「飲み会は苦手」だけど「飲み会でワイワイも素敵」だけど...

 

そうやって重なり合っている。矛盾は人の心だ。

 

しんどいって思ってる人は「しんどい」って言えない。そう言えば「皆、無理しなくていい」「やらなくていい」と言ってくるから。

でも、「やりたくない訳じゃない」事まで否定される。出来ないかもしれないけど、やりたいと思っていたいのに。

だから「無理しなくていいけど、やりたいならやってみたら」と言って欲しい。

いつも何かが欠けていて、誰かに何かを「心配される」のはしんどい。自分がいつも頼る側になってしまうのも辛い。現実問題そうなのだからもっと辛い。とても頼られるような人間ではない。そんな人になりたい。

今まで、それしかなかったからそれを選んだのに。まるで自分が進んで選んだかのようにされるのはあまりにも不条理だ。あぁ、でもっそうか元々、この世の中は不条理な世の中だったか。

 

しんどいって思ってる人は「しんどい」って言えない。他にも自分よりしんどい人がいると思うから。

でも、「自分が一番しんどい」って思ってる。だから言いたいんだ。

自分よりもしんどい人がいる、そう思って自分を押し込めていると、いつのまにか「自分が一番しんどい」を凶器として振るう醜い存在になってしまう。そこには、「みんなしんどい」と思える余裕などなくなってる。

だったら、どっちもでいい。そういう世界であって欲しい。周りの人も皆んな色んなしんどさを持ってる、"けど"「私も、しんどい」って言っていいんだと皆が言えるそんな世界に自分の周りだけでも。いや、自分がまず。

 

打算でしか生きられないなんて。そんな悲しい事はない。でも現実にそれを強いられている人がいる。いつのまにかそういう生き方しかできなくなっている人がいる。私はそういう人間だと言わなければならなくなっている人がいる。別に、誰もやりたくてそんな生き方してるんじゃない。誰も私ではない私の自己紹介などしたくない。

「もっと楽に考えたらいいのに」

そう言われる事もある。だけど、それを全面肯定できるほど私は私の全てを否定する気にはなれない。何もない何も選べない全てが嘘のように見える中で、私が私でいられたのは、誰にも分かって貰えない苦しみが真ん中にあったから。

 

どうせなら打算的に、理屈で生きた結果分かった事を活かしたいと思う。

日なたも陰もどっちも愛していたい。

「だけど」も優柔不断なんかじゃなく、優しさ。

「ない」は否定じゃなくて、もう一つの考え。

 

そうやって「辛い事を経験できて良かった」と「絶対に過去の経験を正当化しない」を両立させる事が、私の最善の生き方なのだと思う。

そして「頑張れない」も「頑張れ」もどっちも正解。

 

私が言葉を投げやりに落とし、ぶつけるのは久しぶりだ。いや初めてか。正直、怖くて堪らない。何にも脚色されない、混沌として万人に受け入れられない声。でも伝える事をやめてはダメだ。壁に閉ざせばまたループが始まる。身を軽くするためには思うがままに書くのだ。そのために言葉はある。

どんな言葉があってもいい。私が持つ言葉は一つではない。まだまだ自分の事を声にして話すのは怖い。だが、言葉にするのならばまだできるのかも。

今こうやって投げやりに言葉を紡げているのは、私の声を聞いてくれた人がいたからだ。そんな人を失いたくないし、もし私であって私でないような私の行動が原因なら何とかしたいと思う。

ずっと壁を張って来て、壁の前でしか話せなかった。

自分を守るためにそうせざるを得なかった。

我慢して、周りに合わせて、何もかも自分が生きるために利用してる罪悪感を感じながらここまで来た。

そんなことしてたらいつの間にか感情が迷子になってた。

報われたいとずっと思ってきた。それは傲慢でわがままな事でもあると思う。実際そんな風に思われることも多い。

今まではそんな不条理に。行き止まりしかない十字路に、諦めを持っていた。だけど、今は少しでも前にと思う。

自分の感じた方向に、思った場所に向かっていきたい、どれだけ間違えてもどれだけ辛くても、私は今の私を話したい。どれだけそれが最悪な方向に、思いもよらない場所にたどり着くのだとしても、私は私のまま前に。

 

なんにも負い目を感じず、過去に囚われず自分として人を、モノを愛せるように。それが今の夢だ。今はまだ分からない。間違える。でも、それでも。