「想像の世界」ーMy Imagination ZOneー 2021.3.31
突然だが、私は「想像力」を持った優しい人でいたいとずっと思っている。
そしてそんな人と関わって生きていきたい。
でも、現実はそううまくはいかない。理由のない悪意に出会う方が多い。
そんな時に、助けてくれるのは、他の何ものでもない「想像力」であり、その副産物である。
「現実」と「妄想(想像)」
昨年、あるドラマが放映された。
お笑いコンビ「南海キャンディーズ」の山里亮太、山ちゃんの妄想が原案になったドラマ『あのコの夢を見たんです。』である。
タイトルにあるように、山里が妄想した実在する女優やアイドルが主人公の妄想物語を実際にドラマ化したという贅沢で、豪華なものになっている。
私の好きな女優、森七菜や、芳根京子など、錚々たる面々がオムニバス形式で、出演し、毎週毎週本当に楽しませてもらった。
このドラマでは、始めに決まってある台詞を仲野太賀演じる山里が呟く。
このノートに妄想を書いている間は嫌なことは一切考えない。現実逃避は最強で最高だ。逃げろ!とにかく逃げるんだ!妄想の世界へ!!
この文言を呟き、山里は妄想をノートに書き記していき、妄想が始まる。
「妄想」
一度は、皆したことがあるのではないか。
「あの子と付き合えないだろうか?」「勇者になってドラゴンを倒しに行く!」
現実から派生したものから、非現実的なものまで様々な妄想があると思う。
2021年の今、辛いことや悲しいことが多くてもどうにもならない事はそこら中に転がっているのではないだろうか。現実が苦しくて辛くて過酷で。
でも、「皆しんどいから仕方ない」と誰にも話せずにいる。でも現実は変わらず迫ってくる。そんな毎日を送る人も多いはず。
そんな時に、逃げられる場所、それが妄想、想像の世界だと思う。
私も、そんな想像の産物である音楽やドラマには、とても助けられた。
でも、何故、スポーツや釣りなどの趣味が、その避難場所にならなかったのか。
『あのコの夢を見たんです』で題材になる山里の妄想では、どれも根底に、
劣等感、嫉妬、孤独、悲しみ、苦しみなどが流れている。
「それじゃ現実と同じで辛いままじゃないか」
そんな声も聞こえてきそうだが、どの物語も、中盤では好転し終幕する。
「逃げる」という言葉だけ聞くと、普通はあまりポジティブな印象は感じられないだろう。だが、ただ現実が辛いから趣味に逃げる。ということでは無い。
「逃げるが、必ず戻る」
それが、私が趣味として音楽やドラマに魅かれた大きな理由だった。
想像の世界では、非現実的なものだけでなく、現実と瓜二つの世界にすることも容易、そして存在しない自分の望む未来も自分勝手に描ける。
現実と同じ嫌な事、辛い事、苦しい事はあっても、その先の未来にはマイナスを打ち消す人や出来事、理想の自分がいる。同じようで違う世界を作ることが出来る。
だから、現実と想像の世界を往復し、戦っていける。
他の趣味と違い、戦うための逃避を、想像の世界は可能にする。
誰かの気配 「避難場所≒居場所」
私は、幼い頃からテレビっ子で、よくドラマや音楽に触れていた。だから意識して、それらの作品が自分にどういう影響をもたらすかんて当然考えず、ただただ見ていた。
だが、今思えば、それは沢山の誰かの想像の世界に訪れては、現実に戻っての繰り返し、現実と想像を毎日のように行き来していたという事だったのだと思う。
一人の想像ではなく、テレビ局の制作陣、役者、脚本家という沢山の人がつくる想像の世界。それは、現実とは大きく違うファンタジーの世界かもしれないし、現実と瓜二つの世界かもしれない。
だが、どんな想像の世界でも、
「そこには自分以外の誰かも、自分と同じ苦しみや辛さを持ちながらも、「こうなればいいな」と世界を想像しているんだ。」という事をその世界では感じられる。
自分とは別の誰かが、同じ気持ちでいる。
自分の描く想像の世界は独りよがりの絵空事じゃないんだと思えるだけで、うんと想像の世界は、現実に近づく、明日への活力に繋がる。
そういう意味では、音楽やドラマなどのエンタメ作品は、避難場所でありながら、
居場所でもあるのだと思う。
今は、SNSが発達して、ドラマが放送されるとハッシュタグを通じて、想像の世界を共有する多くの人々が、可視化され、「一体感」を簡単に体感できるが、私が子供の頃(といっても10年程前)は、そんなものは無かった。
それ故「一体感」が「トレンド入り!」などの見える形で感じることはできなかった。
だが、ドラマをリアタイしていても音楽を聴いていても、
「どこかの誰かも同じように観ている(聴いている)んだろうな....」
となんとなく感じていた。
そして何だかそれが、まるで確かなような気もしていた。
そして何よりも、それが心地よかった。
現代のように見える形で「一体感」が感じられるのも確かに悪くはない。
だが、エンタメ作品という想像の世界が、避難場所として、ひいては居場所として強く作用するのは、現実として、存在としてではない、「なんとなくそこに同じ思いを持った人がいる気がする...確かにいる」という想像の世界を共有する人の気配を感じさせるからなのではないかと思うのだ。
現実では、いつも確かなことが求められる。だから理想は口にできないし、形を持ったあらゆる要因に悩まされる。
気配というのはとても心地よい絶妙な距離感なのだ。
実際、現実で「1万人がそのドラマについて呟いていた」と言われるより、
感覚で「どこかの誰かもこのシーンを見て「こんな風に思っているんだろうな」と思う方が、その作品を通じて誰かと繋がっている気がしないだろうか。
SNSの発達で、繋がりが可視化されるのが当たり前になった。
だが、どこかで繋がっている、どこかに同じ思いを持っている人がいる。
そんな気配をいつまでも感じていたいと思う。
そして、その気配をもっと感じたいと思った時に、SNSを利用すればいいだろう。
「なんとなく」を許容してくれる世界
想像の世界は何でもありだ。と言ったが、それは他者の想像の世界の中で生きようとするときも同じである。あくまで作品は世界のイメージ。それ以上は何をしても構わない。それはドラマ以上に、歌に当てはまることだと思う。
その想像の世界が持つ、それを創造した作詞者、作曲者がつくったものはメロディと詞だけで、ビジュアルの情報がないのがドラマとの違いだ。
それ故、限られた世界観の枠組みに、自分で色を付けていく必要がある。
だが、それは他者に伝える必要がなければ必ずしも言語化されるものではないし、むしろ言語化できない感覚である場合が多い。
「なんか良いな、、」「この間がいいんだよな、、」
といったような「なんか」という感覚。
これこそ、想像の世界に魅かれるもう一つの理由だ。
現代では、インターネットの発達で、前述した繋がりという面だけではなく、情報という面でも少々窮屈だと感じる。
確かに、情報が簡単にかつ大量に手に入ることは良いことだ。
だが、その分、「こうでなければならない」「これはこういうものだ」という確かな情報への過度な依存、情報第一主義に陥りやすい。
これも、また私の10年程前の話になるのだが、昔は、歌だけでなくドラマも枠組みだけが提供される、いわゆるクールメディア(それそのものの情報は薄く、受容者が情報を補完するメディア)だった。
それ故に、自分の感じたものが、ダイレクトにその作品に対する思いだったし、そういう意味で、他の他者の意見なんて関係なく「なんか好き」と言えていた。思えていた。
だが、現代では、レビュー記事や、考察サイトといった、他者の意見が情報として大量に流れ込んでくるホットメディア(そのものに関する情報が大量で、受容者が補完する必要が少ないメディア)の状態になっている。
そうした状況の中では、自分の内なる感情を言葉として表現する事が強制されるようになっている気がする。
また、インターネットの普及で自分の検索傾向や視聴傾向から自動的にレコメンドされる「おすすめ」機能も同じように「なんか良い」と思える環境とは真逆だ。
「私がその曲を「良い」と思ったのは、条件的傾向によるものではなく「なんとなく」だ。」
年々、そういうエンタメ摂取が難しくなってきている印象がある。
もちろん語彙力を持って表現することはコミュニケーションの上では大事であるし、「おすすめ」の機能も、新たな世界との出会いを助ける便利な機能ではあると思う。
だが、「なんか良いなぁ」と思えること、「たまたま」作品に出会うこと、そんな不確定なエンタメとの邂逅の感動も忘れてはならない。
思い出を保存するエンタメモリー
「なんか良い」というような言葉にならない感じは、言葉にするよりその想像の世界を思い出として残してくれるのだと思う。
よく夕方に過去のドラマが放送していたりしたのだが、そこで見たドラマには色々思い入れがある。学校から急いで帰ってきて、ブラウン管のテレビの前で観たあの感じ。
「あのドラマやってた時、夏休みの宿題に追われてたな、、」
「あのドラマの後は、あのバラエティ見てたなぁ」
「あのドラマ楽しみすぎて火曜日はハッピーだったな」
「あのドラマは何回も観たな」
など、ドラマの内容以外の情報が、そのドラマの情報として補完され、そのドラマの思い出として残る。また、逆にその頃の思い出を保存して、いつでも再生してくれる。
最近では、テレビでなくてもドラマが見れるようになったり、音楽もわざわざCDを買いに行かなくても聴けるようになり、作品以外の情景が作品に補完されることが少なくなっている気がする。
その一例として、挙げられるのがほとんどのドラマ・バラエティなどのテレビ番組を見逃し配信という形で配信する民放公式テレビポータル「Tver」
ここでは、CMがカット(あるが、自局番組の番宣CMのみ)されて番組が配信されているのだが、私にとってはドラマの合間のCMもそんな情景の一つだった。
最近では、CM中にスマホを触ったりしているので、同じだと言われればそうなのだが、あのCMの間に「次にどんな展開するのか」などを考え物思いにふけていた。
だから意外にも、なにも思い入れのないCMも時が経つと、ドラマの一部であるかのような気がしてくる。
作品を観たり聴いたりした時の「あの感じ」や「なんか良い」、そして作品に触れた時の情景が、思い出という情報として追加されることで、
他者の作った想像の世界は、自分の想像の世界へとリメイクされる。
だから、その世界は他者の作り出したものでありながら、自分のものになるのだ。
音楽やドラマはそうやって受容する人の感性が加わって初めて完成されるのだと思う。
だから、自分に寄り添った避難場所になるし、居場所にもなるのだろう。
作品はどんな形にも変化できる。それぞれの心の形にフィットしていく。
私自身は、朝ドラ、昼ドラ、夕方(再放送)ドラマ、夜のドラマ、深夜ドラマと、時間帯ごとに思い出があった。だからドラマ枠の消滅で一喜一憂したりもする。それとともにその頃の思い出が遠くなるようで。
そのドラマ、その音楽を聴けば、様々な事が思い出される。何気ないなんでもない日常もいつかかけがえのない思い出になるのだと、記憶装置の役割を果たす想像の世界が気づかせてくれる。
代弁者としてのエンタメ
ここまでは私の持論をつらつらと書いただけだったので、ここでは少し私以外の言葉も紹介したいと思う。
『逃げるは恥だが役に立つ』『アンナチュラル』『MIU404』など話題作を数多く手掛ける脚本家野木亜紀子。彼女が雑誌のインタビューでこんな発言をしていた。
序盤で、制作者側が「こうなればいいな」と想像の世界を作っていると分かれば、なんだか頑張れるといった記述をしたが、実際、作り手側も、近年、よりそういった「現実の延長上の」想像の世界を生み出すことで、現実に対してアプローチをかけている。
『逃げるは恥だが役に立つ』では、契約結婚、家事の有償労働、「好きの搾取」などという観点から、労働問題やジェンダー問題に、ユーモアかつポップな作風で真正面からぶつかっており、野木のドラマには社会問題を背景にコミカルさを挟みながら人間模様を繊細に描く「社会派ドラマ」が多い。
なぜ、野木の描くドラマは「社会派ドラマ」が多いのか。別のインタビューでこうも語っている。
ニュースやドキュメンタリーは観ないけどドラマや映画は観るという人はたくさんいます。エンターテインメントの形にすることで世の中に伝える、知ってもらうのは意義のあることであり、必要なことです。
逃げ恥脚本家語る「エンタメ共感競争」への異論 | 映画界のキーパーソンに直撃 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 より
想像の世界は時に、現実に生きる私たちの抱える内なる声を大きく増幅させ響かせる。
「歌」の語源は「うったえる(訴える)」だという話もあるように、想像の世界は、現実では目を背けられること、気にも留められないこと、押さえつけられてしまうことを、作品というクッションによって「伝える」「考えさせる」ことができる。
私たちの代わりに。声を上げてくれる。最大の味方なのだ。
想像力の源泉
想像の世界は、現実にある何かを「伝える」「考えさせる」代弁者であるのだが、それは同時に作品の受容者の「想像力」にも繋がる。
この記事、とても面白い(こんな私の文章より格段に)のでぜひ、全文読んで欲しいのだが、ここではこの記事にあるドラマ研究者、岡室美奈子のある言葉を紹介したい。
例えばドラマを観ていると、「自分だったら絶対こうするのに!」とか、「何でこの登場人物はこうするんだろう?」とか、頭のなかでいろいろ考えてしまいますよね。つまりわたしたちは、想像力を駆使しながら作品と対峙しているわけです。このように、想像力に何かを訴えかけてくるのがフィクションの力であり、作品と向き合うことは想像力を鍛える作業です。それを高めていくことで作品自体を豊かに受容できるようになるし、実生活でも想像力を駆使できるようになるんじゃないかと思っています。
「想像力」
本文中でも岡室は現代でも頻繁に取り沙汰される「想像力の欠如」の問題に触れているが、想像の世界の根底に「想像力」があるのは、自明のことだと思う。
想像の世界であるドラマや音楽に触れると、そこで描かれている人物や、場面に自分も対峙することになる。つまり「想像力」を用いるということ。
すると自然と、現実では、目を背けてしまう、穿った見方をしてしまう、そもそも気にも留めない人やモノに対し、想像の世界に目を向けることになる。
また、岡室はこうも語っている。
現実世界の二分法からこぼれ落ちてしまうグレーゾーンにこそ豊かさがある。それはフィクションを通じて触れられるもの。合理的な思考では割り切れないものを描くのが、芸術の仕事だと思います。
岡室が教鞭をとる「オカルト芸術論」という授業の話題になった際、幽霊がいるかいないかの二分法から脱却し、「いるかもしれないし、いないかもしれない」というグレーゾーンを肯定することを目標としているとしている。
これは、私が前述した「なんか」や「なんとなく」の話の延長にある考え方だ。
この世の中のものは、理屈で全て表しきれるかというとそうではない。
岡室の言う「二分法の脱却」や「グレーゾーンの肯定」は何事に対しても寛容でいて、ニュアンスをもって接することに繋がる。
見えないものに気づく、「どちらでもよい」を認める、「ただそこにある」を受容する
想像の世界は、そういった他者と社会と関わるうえで大事な「想像力」をプレゼントしてくれる。
いつか、どこかの私の理想の場所
何事も確かな言葉で語らなければならないような雰囲気の今、そういう感覚が、「想像力」が一層大事になってくる。
そういう意味でも、想像の世界は現実を、現代を生きる上でのライフハックとも言える。人々の繋がりがカジュアルに、言い換えれば希薄にもなっている現代、個々人に寄り添う柔軟性を持つ歌やドラマがより人々を助けていくと思う。
近年、性的マイノリティを扱うドラマや、オタクを題材にしたドラマ、そんなドラマが多く作られている。また特段、マイノリティとしてカテゴライズされない(まぁカテゴライズされることが必ずしも良いことではない)人の、生きづらさをも肯定するドラマも増えている。
例えば、桜井日奈子主演の『ふろガール!』では、一人で大好きなお風呂を楽しむ様子を楽しく描いたり、上白石萌音主演の『ホクサイと飯さえあれば』では、相棒のぬいぐるみ「ホクサイ」と共に、料理を楽しむ様子が描かれている。
そのどちらでも共通するのは、「一人」であるということだ。
現代において、「孤独」は社会問題にもなっている。
だが、孤独といっても色々な形があると思う。
他者との関係を保持していたとしても、本当の自分を抑え込んでいては、それもある意味では、孤独だ。
見かけだけの孤独よりも、より見えにくく当事者の心は、強風に晒されているだろう。
この二つのドラマでは、他者との関係に苦手意識を持ち、他者との関わりから離れ「一人」で己の好きな事(風呂や料理)に没頭する主人公が描かれている。
現実でもそんな風に生きている人は少なくないと思う。
「人付き合いが苦手」だから、仕方なく「一人」を選んでいる。
そう決めつけられて辛い思いをする事も多い。
確かに、二つの作品の主人公たちは、作中で好きなものにひたすら没頭する。
ただ、彼女たちは「一人」ではあるが、他者の目を気にせず、ひたすらに自分のありのままを楽しんでいる。そして、実は彼女たちは完全に一人ではない。
『ふろがーる!』においては、主人公早夜子が一人で様々な風呂を楽しもうとするが、そこで必ず、愛乃という大学の後輩が電話をかけてくる。そして、物語後半では、興味の無かった風呂に興味を示し、早夜子と仲を深めていく。
また、『ホクサイと飯さえあれば』では、主人公ブンは、ホクサイと二人っきりで料理を楽しむが、話が進むにつれ、料理を通じ、多様な人々と仲を深め、繋がりの温かさに気づいていく。
この二つのドラマから分かるのは、想像の世界は、他者の目を気にして「一人でいること」に後ろめたく感じなくていいのだよ。と私たちを肯定しながら、今は「一人でも」、いつかどこかで自分らしくいながら、誰かと繋がりを持てるよ。と希望を示してくれるということだ。
想像の世界は、「こうなればいいな」という理想の結集だと言ったが、理想という大きなものであると共に、日々を生きる私たちの道標、希望の光なのだ。
エンタメは必要不可欠
さて、ここまで「想像力」の副産物である、想像の世界に関して述べてきた。
作品は、時に形あるもの、どんな人よりも自分の心に近く、いつまでもどこにいてもそばにいてくれる。横にいてくれる。待っていてくれる。許してくれる。肩を押してくれる。声をかけてくれる。包んでくれる。
作品に触れた途端、あの頃の思い出は鮮明に蘇り、あの頃の自分との対話を可能にする。
あの頃、思い描いていた理想や夢、「まだ子供だから仕方ないよね」と大人に揶揄された思いや感情を思い出させてくれる。
そして、そんな綺麗事をずっと思い続ける事を良しとしてくれる。
どんな暗がりにいても、一筋の光が広がって、「君と一緒だよ。一人じゃないよ」って誰かの存在を教えてくれる。繋いでくれる。
逃げたい。でも諦めたくない。その二つを両立させる世界。
自分で自分が分からなくなった時に、自分を写す鏡になってくれる。
ありのままの感情を思いを、そのまま受け止める大切さを教えてくれる。
白黒つけなくていい、同じでなくていい、違っていてもいい、言葉にならなくていい。
ただそこに、それがあること。君がいること。私がいること。
それでいい。自分にも他者にもそんな風にいて。と優しく伝えてくれる存在。
簡単に要約するとこんな感じだろうか。
想像の、表現の世界は、不可侵な世界だ。自分が信じている限りそれは本当で、最強だ。これは、『あのコの夢を見たんです』の最初で呟かれる言葉でもあった。
なりたい自分になるには、自分を信じる、ひいては自分の理想像を信じ抜く必要がある。そんな時に、「最強の世界」は自分を最強にしてくれるだろう。
理想を信じていれば、いつか本当になる。
キラキラ ワクワク ドキドキ。そんな世界に出会えて、私は本当に良かった。
さて、そろそろ私も幸せになる想像をしよう。そして実現させよう。
想像の世界と共に。
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(あとがき)
長い文章にまたまたなってしまいましたが、ここまで読んで下さりありがとうございました!!今回のブログは、前回更新したブログの後編というような感じで書いてみました。前回は自分のなりたい、そして好きな人。今回はそんな風に思ったきっかけをくれた存在であり、理想の自分に近づき、好きな人と出会うためにどうすればいいかを教えてくれた音楽やドラマに代表されるエンタメ作品について書かせてもらいました。
おそらく今、私の中にある思いと考えの全てです。
私事ですが、長い長い学生生活がついに終わります。
正直、満足に学生生活を楽しむことはできなかったし後悔もあります。
だけど、その代わり沢山の作品で、沢山の感情に触れ、沢山の人に出会いました。
人生の中でも特に感性が鋭いこの学生時代に、それが出来たのは本当に良かったし、好きになれて良かったと思います。
だからこそ、これからの人生、自分らしく想像の世界で得たものをもって、より良くしていきたいと。そう思います。
これからはブログ、しばらく更新できないかもしれません。ですが、文章を書くこと、言葉を綴ることは続けたい。そして、誰かの心に少しでも寄り添える存在になりたい。今はどうなればいいか分からないけれど、いつかそんな存在になれたらと思います。
ということで!!!この記事を読んで、少しでも何かを感じてくれたら、今の私には十分存在価値がある。そう思えます。
とか言いながら、Twitterの方には今まで通りいると思うので変わらず贔屓にしてくださいね(笑)
では!!したっけー!!