みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

SNSが紡ぐ緩やかで温かい「繋がり」2021.10.2

このブログを読んでくれている方から、「もっと気軽に」と言われたこともあり、思いつきで今書き始めた。

自分のブログは、下書きをしたり、大体の構成が決まらないと書けないものが多い。それ故、体力消費がすごい。だから、更新頻度が遅い。だから、なかなか書く気にならない。完璧主義もいい加減コントロールしないとならないなとつくづく思う。

 

さて、本当に何も用意していない。

さっき感じたことを書いてみる。

ヤングケアラーの記事を先日、5回に渡って更新した。ありがたいことに多くのアクセスを頂き、さらに多くの温かいコメントも頂き、本当に嬉しかったし、自分の中で、一歩...いや二歩も三歩も進めた気がしている。

まぁまた、いつか「私」の話は続きを書こうと思っている。「みぞ!さんの文章を読んで救われた」というコメントを貰った時に、そう思った。

 

そんな記事の中で、Twitterで仲良くして下さっているフォロワーさんにとても感謝していると書いた。実際、こうしてブログを書いて、見てくれる人は大抵がそんなフォロワーさんたちだと思う。

私は8年ほどTwitterをしている。その中で一番長い付き合いをしている人たちは5年の付き合いだ。

Twitterを始めた当初は、色々ルールを決めていた。

「〇年以上絡んでいる人じゃないと信用しない」

とか、他にもSNSに対する危機意識から、自分で決めたルールに基づいて、Twitterを利用していた。

まぁそこまで頑ななのは、私が「真面目」だからなのもあるが、親がSNSに対して良いイメージを持っていなかったからというのが大きい。

といっても、Twitterを利用する中で、私のつぶやきに反応してくれたり、好きなもので繋がれたりで、どんどんと私の中でその存在が大きくなっていったのも事実で、徐々に考え方も変わっていった。

 

私の親はいわゆる”face to face”のやり取りを絶対とする人だ。私も最終的にはそうだとは思う。

だが、私はその直接的なコミュニケーションが困難だった人間の一人だった。それは一連の記事を見てもらえれば分かって貰えると思う。

だからこそ、私にとってフォロワーさんは唯一の繋がりだった。心許せる存在だった。

 

それなのに少し前までは、親の考えや世間の風潮から、「SNSでの繋がりは良い繋がりじゃない」「SNSでの繋がりは、不健全で不完全なもの」という思いが私の中では多くを占めていて、「好きだけど、この人たちは”友達”ではないんだよな。」と失望したり、そのやり取りに依存している自分に罪悪感を持つこともあった。

しかし、ヤングケアラーの記事を更新し、自分自身に向き合い始めた最近。その考えが完全に払拭された。

色々な方からの温かいコメントを読むたびに「私が今ここにいるのはこの人のおかげだ」と感じたからだ。

周りがどう言おうと私にとって私にそんな言葉をかけてくれる人は”友達”以外の何物であるというのか。

確かに、一般的なそれとは違うかもしれない。繋がりの強さも、劣るかもしれない。

それでも、0だった私がマイナスにならず、1.2.3...と大事な人の数を数えられる自分でいられるのは、その人たちの「おかげ」でしかない。

 

コメントを貰った流れで、2人のフォロワーさんに「友達になって下さい」と滑稽な事を投げかけた(投げかけてしまった)

そういう事を言葉にして言うのは違うというのも分かっているし、「所詮趣味の繋がりだ」と思っている人からすれば、困惑させ、場合によっては恐怖させる言葉かもしれない。

だけど、このタイミングで聞いておきたかった。

 

「いいですよ」

 

2人とも何の淀みも、違和感もなくそう答えてくれた。

「はぁ良かった」

そうふと息を吐いた。

だってこの言葉で、心の距離が離れてしまったらどうしようとも思っていたから。

 

私が決めていたSNS利用のルール。

そのおかげで、少しずつ少しずつ関係性を構築できた。今はそう感じる。

昔は「もっと仲良くなりたいから、ガツガツいってもいいんじゃないか?」

と思っては、「いや、それはダメだ」という葛藤の連続だった。

でも、その姿勢が、数百、数千、数万の文字の紡ぎ合いを生み出し、その文字たちが、現実と変わらない信頼を作ってくれたのだと思う。

 

今日、あるフォロワーさんのツイートを見た。

それは「仲良くしていたフォロワーさんがいつの間にかいなくなっていた」

というものだった。

繰り返すが、私にとって幾つかの繋がりは、もはや欠かせないものだ。

だが、アカウントを消せばその存在は消え、もう二度と会うことは出来ない。

死んだも同然だ。

私がわざわざ「”友達”であること」を確認し、その繋がりを可視化したがるのは、そういうSNSでの繋がりの脆さや儚さに怯えているからなのだと思う。

私には、もう二度と会えない、言葉の紡ぎ合いができないなんて耐えられない。

というか、まだ会えてないのに、会えなくなるなんて泣いてしまう。

 

そんな風に、思っているからこそ最近は「SNSの繋がりであっても、繋がりは繋がり。」「大事なのものは大事」と考えるようになったし、気心が知れる一部の方々に対しては、少し深く懐に飛び込むようにしている。

「ないよりある方がいい」

どんな形でも、一人でも自分を受け止めてくれる人がいるというのは、勇気になる、生きる活力になる、宝物になる。

だから、思い切り気を許せる人には気を許せばいい。

 

SNSで「繋がる」ことは、確かに注意が必要だ。最近でもSNSが発端となった事件があった。それ故、昔の自分が厳格にルールを決めていたように、厳格でなくても、常に警戒はすべきだと思う。

だが、一文字一文字、言葉を紡ぎ、時間をかけ、好きなものによって関係を積み重ねていくことができるのもSNSだと思う。無理に繋がりを求めないからこそ、良い関係を構築できる。「繋がりましょう」とかじゃなく、なんとなくフォローして、なんとなく良いなと思うものに反応して、そうやって少しずつ距離が詰まっていく、そんなSNSの利用ができてよかったと心底思っている。

 

さて、ここまで、思いつきで書ける私がすごいなと勝手に自画自賛してしまうが、最近は、そんなフォロワーさんとのやり取りが楽しい。「どこにお出かけしますか?」とか「明日も話せる?」とか、私以外の人からすれば当たり前なのかもしれないが、そんな”当たり前”がようやくできて嬉しくて仕方がない。

人生はまだまだこれから。

言葉で紡いできた関係を、”face to face”の関係で上乗せして、「楽しい」思い出を増やしていきたいと思った今日この頃だ。

 

【過去記事】

mizomone7118.hatenablog.jp

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