みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

「言葉」の濁流。「思い」の雪崩。2022.10.2

打算的でしかない。今こうしたら後困る。先の不安定さにいつも恐怖し、"なんとかなる"とはとても思えずにいる。それはどこにも何にも寄りかかっていいのだ。これがあれば大丈夫だと思える場所がないからだろう。

言葉にしなければならないと思うのは、自分の行為が正当化され相対化されなければ自分は存在していてはいけないと思うからだ。自分の存在証明を常に求められる。自分の生き方に口実がなければ耐えられない。意味を探し、理由を求め日々を生きる。言い訳を探すために言葉にする。分かって貰えない怖さ。分かって貰えないと困る。言い訳じゃない。分かって欲しいだけなのにそれは言い訳なのだ。そのために言葉を尽くす。だけど。分かって貰わないと困る。常に共感を求める。言葉を尽くせば尽くすほど、傲慢で、醜い雑音になってしまう。好きな言葉が音が物語が、私の身勝手な叫び声の糧になってしまう。罪悪感。ごめん。と呟く暇もなく、またループする。誰にも分からない。でも、私にはそれしかない。分かって欲しいと願えば願うほど、皆が離れていく。皆はなぜ何の確証もないのに繋がりを持てているのか。常に完璧を求め、裏をかき、目の前にあることさえも信じられない。それが結局はせっかくできた繋がりをダメにしてしまう。ずっとその連続だった。「あーあまただ」そんな事を繰り返している内に、繋がりが崩れるのがどんどん怖くなった。「楽しい」「好き」そう思えたのは一瞬。関係を続ければ続けるほど、疲れてくる。この人はいつ私に愛想をつかすのだろうか。いつか消える。いやいつか私が壊すのだろう。そう思えば思うほど、気づけば繋がりに執着し相手のあいまいを許さず、言葉を求め、その末には自分で叩き壊している。全て自分が自分で立てないから、それに依存するしかないのだ。それはとてもツラい事だ。私のことだけど私の意識を離れたような。あぁ。でもそんなことを言えばまた言い訳になる。となるとやはり自分のせい。自分が自分で好きな人との心地よい距離感を壊している。そんな事が積みあがって、好きな人が分からなくなった。ホントにあなたが好きだと思う人?あなたの都合の良い依存先を探しているだけじゃないのか?結局自分のため。そんなこんな重たい何かを背負ったやつのことなど誰がかまうものか。そして、それが私をもっと重くする。気がつけば、目の前には壁。どこにも行けず、周りとは壁を通じてしか話せない。どうすればいいか分からない。

言葉を繕えば、周りからはハリボテだと暗に理解されていく。誰も触れも傷つけもしない。無味乾燥な存在。世界。

それでも、その世界の反対にいつもキラキラした夢の世界があった。その世界は、打算的で無機質な決まった事しか起こらない世界にはあり得ない、理由が意味が見つからないドッと押し寄せる、だけど柔らかくて、あたたかいなにかがあった。それは私を私たらしめる、「この感情好きだな」を何も気にせず持たせてくれた。

どれだけ私が、言葉を音を物語を利用しようとも、それに抗うように彼らは訴えかけてくれた。

なんの因果かその一筋の感情が、いくつも感情に分かれ、糸になり好きだと思える人に結ばれた。打算的で無機質なつまらない人間になっていた私が何故か、そうは見えない、いやそうならなくても良い人と出会えた。とはいえ、結局はそんな簡単じゃなく結局抗いながら壊してしまったり、壊れそうになっているのだが。

 

別に何にも挑戦せず、今を維持し、永遠に続いて終わるのだろう。なんて思ってたのに、今やそんな自分に嫌気がさし、少しでも近づきたいと思う。

「反抗期」「若気の至り」「青春の痛さ」「学生は無敵」

そのどれをも嫌悪し、無視し通り過ぎたが、今はとても羨ましく思える。

好きな事に没頭し夜を明かし、好きな人と一晩中語り合い一緒に朝焼けを見る感覚を知りたいと思う。

ずっと、ルールを逸脱し自分のしたいように無茶をしてそれを誇る人、それを肯定する世界が好きになれなかった。

「若ければ何でもできる」「真面目に生きるのはつまらない」「親の言う事なんて無視すればいい」

笑いながらそこらへんで右から左に流れていく会話に首を縦に振る事はできなかった。悪気はなくとも、「何も知らないくせに」と苛ついた。

親を踏んでも蹴っても踏み台にしても大丈夫な人はいいよなと思っていた。

あんたらの当たり前は当たり前じゃない。それを渇望し妬む人だっているんだ。妬みなどという形でしか、求められない、声にならない悲しみ、虚しさがある。

 

 

回る周る廻る、そうやって矛盾と暗に起こる慟哭を繰り返しながら、自分が失われていく。私の感情はなに?偽物?どこまでが往復し回転する前の元の自分だったか分からない。そんな自分が好きなのか嫌いなのかさえも。周りに影響され変わっていくのが人間。でも、私は、己が壊れないために固く閉ざしたが故に分裂したようなとてつもない虚無感に覆われているずっと変わらない。永久に変わる事はない、変える必要はない。変わる事はできない。まるで拘束具をつけられたように。

 

「なんとかなる」

よく皆そう言う。

「なんとかならない」

その逆は誰も言わない。

「なんとかなる」は希望になる。素敵な言葉だ。だけど、その向こう岸には確かに「なんとかならない」もある。なのに、皆「なんとかならない」は見ない振りをする。もし見えたのなら、皆が共犯になってそれを小さい箱に閉じ込めてどこかへ蹴り飛ばす。

 

「仕方ない」

皆こうも言う。

「仕方なくない」

また、この逆は誰も言わない。

「仕方ない」と言えば全てが片付く。でもホントに片付いた?

向こう岸には、「仕方なくない」もある。絶対に。

 

子供の頃、世には「なんとかなる」しか「仕方ない」しかないように見えた。世界がそう言っていたから。今になって「なんとかならない」も「仕方なくない」も見えるけど、子供の私には、それが「存在してはいけない」「欠陥品」にしか見えなかった。だから私も、それを蹴り飛ばしどこかへ追放する手助けをした。

でも、なぜか私はつらかった。

「なんとかならない」「仕方なくない」と言えなかったから。

私は「なんとかなる」と屈託もなく言える子供でいられなかった、「なんとかならない」事の前で、無力感を身に染み込ませながら、それでもそこにいるために考えた。

世界が「なんとかならない」を追放するのだから、私は「なんとかなるはずなのになんとかならないのは私のせいだ」とそう思った。全部私が悪いんだ。

今でも、どこにでも行けて、なんでもできる人を見ると結局、私はどこにも行けないしなんにもできないと思ってしまう。

 

「なんとかなる」も「仕方ない」もそう思える経験を積み重ねてきた人にしか希望にならない言葉なのかもしれない。

何でもできる全能感を持った子供たちばかりではない。「なんとかなる」「仕方ない」が絶望になっていた子供たちもいるのだと思う。その言葉は「もがいても無駄だ」と喉元に常に突き付けられていたのかも。

その行く先が打算的な生き方だった。言葉を尽くし鎧にすること、剣にすることだった。なのに、同時に妬ましく思わざるを得ない私の打算的な生き方が嫌だ。その時は命綱だったのに。いつの間にか私の体を締め付けて止まない。

 

「何をしても無駄だ」

どこかでそう思ってるから、今も幸せに手を伸ばす事が怖い。自分で作った人間関係を自分で壊してしまう、いや壊したくなるのか?知らないうちに壊れている。

昔、アスレチックに行った事があった。高いところが苦手だった。落ちないように行けばいいのに。自分から足を踏み外して落ちた。今思えばそういうことか。

「なんとかなる」ことを嫌悪し、「仕方ない」を否定する、幸せになってたまるか、自分で幸せを手放そうとする、じゃなきゃ今までのはなんだったんだと。

本当はそんなことしたくないのに。

 

明るい場所は光って見えやすい。けど暗い場所はなかったことにされがちだ。むしろ忌み嫌われる。

「ネガティブな事ばかり言うのはNG」

「重い話は嫌われるからしてはいけない」

そんな声をよく見る。

なんで皆、陰を認識しているのにそれをなかったことにしようとするのだろう。

怖いから?きっと皆持ってるのに、そこにその人がいるのに。なぜ無視するのだろう。

 

仲良しグループみたいなのがとても羨ましい。学生の内に皆んなで旅行に行ってとか。

ただただ羨ましい。ただそれが欲しいだけなのに、そう思えば思うほど"一人"の自分がどこか惨めに思えてくる。「一人」を否定したくないのに「独り」にすげ変わる。

ずっと一人で頑張って来たから、他者との距離感が分からない。自分の気持ちに正直に。そういようと思えば思うほど、別れに近づいている気がする。近づけば不安になる、幼き頃から他者と繋がって生きてきた人には必要のない、関わりの結果を求め始めその疎ましさに自滅する。それは自分が心を許せると思った人に対して特にだ。悲しい。同じ思いを持っているのに上手く紐帯をつくれない。

 

飲み会が苦手。だって行かなければレッテルを貼られる気がするから。皆んなでワイワイお酒を飲みたくない訳じゃない。だけど、私の中で"飲み会"という概念が、自分を貶めるものに見えて怖い。

 

もう、もはやあらゆる概念がねじ曲がって歪んで私の中にいる。どこまでが自分なのかも分からない。どう言葉にしていいのかも分からない。正解を探す、不正解を選ばないように。するとどんどん自分から離れていく。

 

皆んな、なにもかも、光もあれば陰もある。

「〜ない」という接尾辞は、ただただ「反対」「逆」って意味。

いつから「否定」になったんだろう。いつから「悪」になったんだろう。

日なたも日陰もただ横に存在してる。向こう岸なんかじゃない。

「なんとかなる」けど「なんとかならない」事もある。

「なんとかならない」けど「なんとかなる」事もある。

「仕方ない」けど「仕方なくない」事だってある。

「仕方なくない」けど「仕方ない」事もある。

「仲良しグループは素敵」だけど「一人で楽しめるも素敵」だけど、「仲良しグループもやっぱり羨ましい」

「ネガティブな話」「重い話」もするけど「彼は前を向いてる」「彼は素敵な人」

「飲み会は苦手」だけど「飲み会でワイワイも素敵」だけど...

 

そうやって重なり合っている。矛盾は人の心だ。

 

しんどいって思ってる人は「しんどい」って言えない。そう言えば「皆、無理しなくていい」「やらなくていい」と言ってくるから。

でも、「やりたくない訳じゃない」事まで否定される。出来ないかもしれないけど、やりたいと思っていたいのに。

だから「無理しなくていいけど、やりたいならやってみたら」と言って欲しい。

いつも何かが欠けていて、誰かに何かを「心配される」のはしんどい。自分がいつも頼る側になってしまうのも辛い。現実問題そうなのだからもっと辛い。とても頼られるような人間ではない。そんな人になりたい。

今まで、それしかなかったからそれを選んだのに。まるで自分が進んで選んだかのようにされるのはあまりにも不条理だ。あぁ、でもっそうか元々、この世の中は不条理な世の中だったか。

 

しんどいって思ってる人は「しんどい」って言えない。他にも自分よりしんどい人がいると思うから。

でも、「自分が一番しんどい」って思ってる。だから言いたいんだ。

自分よりもしんどい人がいる、そう思って自分を押し込めていると、いつのまにか「自分が一番しんどい」を凶器として振るう醜い存在になってしまう。そこには、「みんなしんどい」と思える余裕などなくなってる。

だったら、どっちもでいい。そういう世界であって欲しい。周りの人も皆んな色んなしんどさを持ってる、"けど"「私も、しんどい」って言っていいんだと皆が言えるそんな世界に自分の周りだけでも。いや、自分がまず。

 

打算でしか生きられないなんて。そんな悲しい事はない。でも現実にそれを強いられている人がいる。いつのまにかそういう生き方しかできなくなっている人がいる。私はそういう人間だと言わなければならなくなっている人がいる。別に、誰もやりたくてそんな生き方してるんじゃない。誰も私ではない私の自己紹介などしたくない。

「もっと楽に考えたらいいのに」

そう言われる事もある。だけど、それを全面肯定できるほど私は私の全てを否定する気にはなれない。何もない何も選べない全てが嘘のように見える中で、私が私でいられたのは、誰にも分かって貰えない苦しみが真ん中にあったから。

 

どうせなら打算的に、理屈で生きた結果分かった事を活かしたいと思う。

日なたも陰もどっちも愛していたい。

「だけど」も優柔不断なんかじゃなく、優しさ。

「ない」は否定じゃなくて、もう一つの考え。

 

そうやって「辛い事を経験できて良かった」と「絶対に過去の経験を正当化しない」を両立させる事が、私の最善の生き方なのだと思う。

そして「頑張れない」も「頑張れ」もどっちも正解。

 

私が言葉を投げやりに落とし、ぶつけるのは久しぶりだ。いや初めてか。正直、怖くて堪らない。何にも脚色されない、混沌として万人に受け入れられない声。でも伝える事をやめてはダメだ。壁に閉ざせばまたループが始まる。身を軽くするためには思うがままに書くのだ。そのために言葉はある。

どんな言葉があってもいい。私が持つ言葉は一つではない。まだまだ自分の事を声にして話すのは怖い。だが、言葉にするのならばまだできるのかも。

今こうやって投げやりに言葉を紡げているのは、私の声を聞いてくれた人がいたからだ。そんな人を失いたくないし、もし私であって私でないような私の行動が原因なら何とかしたいと思う。

ずっと壁を張って来て、壁の前でしか話せなかった。

自分を守るためにそうせざるを得なかった。

我慢して、周りに合わせて、何もかも自分が生きるために利用してる罪悪感を感じながらここまで来た。

そんなことしてたらいつの間にか感情が迷子になってた。

報われたいとずっと思ってきた。それは傲慢でわがままな事でもあると思う。実際そんな風に思われることも多い。

今まではそんな不条理に。行き止まりしかない十字路に、諦めを持っていた。だけど、今は少しでも前にと思う。

自分の感じた方向に、思った場所に向かっていきたい、どれだけ間違えてもどれだけ辛くても、私は今の私を話したい。どれだけそれが最悪な方向に、思いもよらない場所にたどり着くのだとしても、私は私のまま前に。

 

なんにも負い目を感じず、過去に囚われず自分として人を、モノを愛せるように。それが今の夢だ。今はまだ分からない。間違える。でも、それでも。

 

「エモい」って何?? 2022.5.28

私は「エモい」という言葉があまり好きではない。

「エモい」は若者言葉の一つからいつしか市民権を得て、この世界の共通言語になった。"emotional"に由来し「感情が動く」「感情が高まる」状態を表す言葉であるが、その様相は、今やそれだけではない気がする。私がこの言葉を好きになれない理由もそこにある。

使い捨てられる言葉たち

スマートフォンが肌身離せなくなった世界で、言葉は大きな力を得た。紙とペンがあって存在できた過去の言葉とは違い、多くの言葉が高速で縦横無尽に世界を駆け巡り、言葉はより広くより大きく人々の思いや考えを表現し共有できるようになった。

フォロワーの数、再生回数、RT数、いいねの数

だが、その反面、効率良く多くの情報を摂取するために、人々は分かりやすく、簡単に娯楽にアクセスできることを求めるようになった。その指標のほとんどが”数値”であったが、「エモい」を始めとする言葉もその役割を担う事になった。

何故、私が「エモい」が好きになれないのか。

それは、「エモい」が何かを表すために作られた言葉であったはずなのに、いつの間にかその役割を剥奪され、娯楽に簡単にアクセスするための指標として酷使されているように感じるから。

もっと言えば「エモい」は”他者と感情を共有する(させる)ための広告塔に成り下がってしまっているからだ。

最初は言葉に出来ない気持ちを誰かと共有するために生まれた表現だったはずなのに、いつの間にか「エモい」という言葉が、付ければエモくなる、まるで”アクセサリー”のような存在になってしまった。いつしか目的と手段は逆転して、共有、いや拡散を狙って「エモい」を恣意的に作り出す流れまである。私はこれにとてつもない悲しみと虚しさを覚えるのだ。

中身がすっからかんになってしまった「エモい」という言葉。だが、厳密に言えば「エモい」という言葉自体が嫌いという訳ではない。きっとこの子も被害者なのだ。だからここからは少し、この子はどんな子なのか。自分なりに考えてみる。

「エモい」って何??

「エモい」が一般的にどういう意味かは前述した通りだ。感情の高まり、感情が動く、そんな瞬間の心の状態を表す表現。意味は通るし、それを簡潔に表すことのできる点っでは、とてもいい表現だと思う。

だが、その反面、対象があまりに広い事、つまり、その心の動きや高まりは本当に皆が一律に感じている「エモい」を全部表現できているのかという点が気になる。そこをガン無視した結果が、「エモい」の酷使に繋がっているのかもしれない。

私の「エモい」に対するイメージも、主に一般的な定義にもある「感情の高まり」なのだが、その中でも「懐かしさ」という要素が特に強く想起される。

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最近、『言葉にできない、そんな夜。』という番組をたまたま観た。タイトルにあるように、言葉にできない感情を”言葉のプロ”である作詞家や小説家がスタジオでそれぞれ表現し合うという素敵な番組。その中で、"懐かしい曲を聴いたあの感じ"をどう表すかという回があった。そこで女優の橋本愛はその感情をこう表現していた。

「心臓にレモンを絞った感じ」

「懐かしさ」

先ほど私が挙げた「懐かしさ」は皆が持つ記憶の中、思い出が蘇ってくるような、デジャヴを感じるような感覚の事だ。うまく言い表すのが難しいが、具体的に言えば、「昔流行っていた曲を久々に聴いた時の感情」が一番、私の中でそれに近い。つまりこの橋本愛の表現まさにそれでもある。ちなみに私ならこう表現する。

「心の中にずっとあった宝箱がふと開いてキラキラが広がる感じ」

私の中で心が動く感じは「キラキラ」が表現として一番合点がいく。ここで思うのは、橋本愛にしろ私にしろ結局は五感に頼った表現が一番腑に落ちるという事だ。

実際に、心臓にレモンは絞れないし、それで胸がきゅっと痛くなることもないし、心の中には宝箱なんてないし、ましてやキラキラしたものなんてない、視覚で捉える事なんてできない。だが、私には「エモい」と表現されるよりずっとその心の動き、高まりに追いつけ、満たされる感じがするのだ。

 

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(「懐かしい」あの感じって、その時はなんともないのに後になって”思い出”として鮮明になる。撮った時はどう映るか分からない”フィルムカメラ”みたい)

 

「エモい」という言葉の裏には、それぞれの経験、五感に基づいた、言葉には表れないけど確かにある”雰囲気”が存在する。

夏の夜のあの感じ、冬の夜のあの感じ、

日が長くなってまだ明るい夏の夕暮れ。冷え切った空気に陽射しが差す冬の朝。

そんな景色には”匂い” ”温度” 空気感”がある。言葉には表れない。そんな”雰囲気”

音楽を聴いて心が動く。その時も、外で浴びる風の”匂い”を浴びたり、”空気感”を体で感じるのと同じような体験だと思うのだ。

私の感じる「キラキラ」も、どこか色褪せて朧気でくぐもった空気感の中なのに色鮮やかに輝いているような感じで、私にとって「エモい」はそういうものなのだ。

だから、「エモい」は皆違うはずで、それを一律に言えるはずがない。ニュアンスは共有できたとしても、100%自分の「エモい」が理解できるのはその人自身だけなのだ。

まぁ要するに、言葉だけではとても存在できない、個人の五感であり心の動きがあって言葉は意味を持つという事。「エモい」の一言ではとても全ての感情を表すことなどできないのだ。

言葉にできないからこそいい。

「エモい」という言葉が意味を与えられて生まれたのにも関わらず、意味を奪われ客寄せ道具になってしまったのは、前述の通りSNSの発達で、言葉が影響力を持ちすぎたからだ。

コミュニケーションの中心が”話す”から”書く(打ち込む)”になり、言語化する事に重きが置かれるようになった。あいまいな表現をすればたちまち誤解、炎上、ブロック。端的で見た目が良い言葉が注目を浴び、言葉は都合よく使用され消費されていく。

だが実際には、心で感じた感情や、頭の中にある思考と言葉の間には大きな溝があり、言葉はなんでも表せる万能なものではない。それを皆忘れてしまっている。

私はそこにこそ、言葉の面白さ、本当に「エモい」と表現すべきもの、心の動きがあるのだと思う。

心が動いた瞬間、「言葉にしたい!でも出来ない!!」そんなもどかしさ、理屈では説明できない正体不明の未知なる感情が私を襲う。でもそのもどかしさが私はすこぶる好きだ。「あー!」「えー!」とか語彙力を失っている状態がそれだ。

そして、言葉では表現できないと分かってても、それを何としてでも表現しようと、自分の中に転がっている言葉を寄せ集めて表現しようとするその情熱にも、心が魅かれる。

自分が音楽やドラマを鑑賞し、文章を書くのもそういう感覚に絆されての事だ。その言葉の足りなさを知っているからこそ、言葉や感情に対する欲望が増すものだ。

今は何もかもが鮮明に私たちの前に広がる。ライブ会場にいるかのようにイヤホンからは音楽が流れ込み、液晶からは現実とは変わらない鮮明な映像が眼前に飛び込む。そしていつでもそれらに触れられる。そういう意味で、ブラウン管の中の少しざらついた映像が「どこか違う世界」に思え、その先を欲望し思いを巡らせていた時代は、今より言葉を大事に、想像する事を大事にしていたのかもしれない。

(”あの歌”という表現、ただの指示語とは違う雰囲気を感じるから、好きだ。「エモい」と言い切るのではなく、わざと表現しない余白を残す侘び寂びを持っていたい)

 

情報が溢れ、効率や見栄えが暗に心を支配する現代だからこそ、「エモい」の先にある感情や心のときめきをじっくりと心の中で温めていたい。

何もかも言語化する必要はない。

「エモい」という言葉で、自分の感情を相対化せず、ふわふわした感情をそのまま言葉にせず独占していていて欲しい。

そんな風に思う。

 

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物語の一部になれる「舞台」という空間 2022.4.30

その日、私は初めて”舞台”というエンターテイメントに触れた。

新年度も始まり、新生活に期待と不安を持ちながら過ごす日々が続く。そんな人々の姿をよそに、私も再び息を整え走り始めた。そんな最中、私は推しの舞台を見に行くことができた。

「ここまでよく頑張ったね」

私にとっては、この舞台観劇が推しからのプレゼントのように感じられた。

私が、推しの舞台を見に行こうと思い立ったのは、今から3年前。

音楽やTVが好きだった私だが、「舞台」に対しては”高級” ”難しそう”といったなんだか漠然とした敷居の高い取っつきにくさから、距離を感じていた。だが、推しがとてつもない情熱と愛を持っている事から、私もその重い腰をあげることにしたのだった。

だが、そんな私の舞台デビューはコロナによって幻になってしまった。

半年前。推しの舞台を見に行けることになった。まさにリベンジマッチ。

「ついに!ついに!」と楽しみにしていた。チケットも確保して。「今度こそ」と意気込んでいたが、いとも簡単にまたしてもコロナがその機会を奪っていった。

そして、今回。”三度目の正直”

文字通りそんな状況で、舞台デビューを迎える私を受け入れてくれたのは、不朽の名作であるジブリアニメ『千と千尋の神隠し』の舞台化。これ以上ない舞台デビューになり、二度もチャンスを逃したのはこのためだったのかとまで思った。

www.tohostage.com

その日は、仕事が終わり仕事場から走った。もう学生じゃないのだな...と思いながら、駅まで走る。

職場から劇場まで、時間的に開演に間に合わない事は分かっていたが、出来るだけ早く着きたいと急いだ。

そして劇場周辺に着いたのは開演時間を5分ほど過ぎた頃。劇場内でせっせと汗を拭いたり、身なりを整えるのは周りの人の迷惑になると感じ、少し息と汗を整えて会場入った。映画やライブでもほとんど遅れて入ったことがなかったので、舞台デビューの緊張とは別に緊張感もあった。

ホテルのような会場の高貴さに一気に体が緊張する、良い緊張感にまだ激しかった鼓動も自然とゆっくりになる。何人もの案内人のエスコートリレーが、さらに心地よい落ち着きをくれた。

通路と階段を通り、いよいよドアの前。

ほとんど遅れて入った事がないと言ったが、映画館で一度だけ遅れて入った事はあった。だが、その時と違い、閉じられたドアの奥から、既に生き生きとした音(?)が響いてきていた。

「なんだ?これ。」

その時点で”舞台”の魅力が分かった気がした。音なんだけど、それ以上のものをドアの向こうから感じた。あえて言語化するとするならば”雰囲気”と言おうか。

ドアを開けて、腰をかがめて席を目指す。

ようやく席にたどり着いてからは、ずっとふわふわした感じだった。どう形容すべきなのだろうか。

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舞台は間に、休憩がある。そこで皆、トイレに行く。

トイレに行列が出来る感じは、さながら野球観戦時の相手チーム攻撃時のようだった。少し変かもしれないが、音楽ライブをよく知っている私としてはエンタメの中に”束の間”があるという点で、ライブより野球観戦の空気感に近かった。

だけど、そこはとてもしたたかな劇場で、野球場とは全く違う。

でも、だからといってやっぱりライブとも違った。

ライブは目の前にいるアーティストが奏でる音楽に誘われ、シャボン玉の泡の中に吸い込まれるようにその世界に浸るイメージだった。

その音楽の中で、聞き手はアーティストから奏でられる音楽という世界の中で、その世界を受容し、その世界をアーティストと共に楽しむ。

舞台も生で体感する以上、同じようなものだと思っていたが、全く違った。

ライブ以上に世界への没入度が高い。音楽と違い、小道具や舞台セットが視覚的に風景を提示し、目の前の役者は、役者ではなくその登場人物。

そういった「視覚によって物語が規定される」点では、ドラマに近いが、ただただ「生のドラマ」ではない。

 少し表現が変かもしれないが、舞台の会場の中は、もう物語の中なのだ。だから、「ライブハウスにライブを見に行っている」と同じように、「劇場に舞台を見に行っている」にはならない。

劇場に入り、幕が開いた瞬間に、私たちは、物語の台本に書かれていない、隠されたもう一人のキャスト、「傍観者」の役割を与えられる。

それは、私がドアの前で感じた”雰囲気”を演じているとも言い換えることが出来る。

よく、舞台中のマナーが取り沙汰されるが、舞台に行くとよくそれが分かる。スマホの着信音が鳴った時点で、もう傍観者ではいられない。

その人だけでなく会場の皆を「舞台を見に来た人」に戻し、出演者も「演じている人」に戻ってしまう。だから、そんなマナー違反は””舞台””というエンタメが成り立たなくなるほどの大罪なのだ。

仕方ないとはいえ、途中から席に座った私はとても申し訳ない気持ちになった。一瞬、その世界にひびを入れてしまったのだから。

「音楽→ライブ」であれば、「ドラマ/舞台」

舞台は日常を、非日常に変える異世界へのゲートだ。”舞台を観劇している”というのは、その劇場を出た後に認識できること、その場、その瞬間は「物語の一部になる」いや”組み込まれている”という行為として捉えられるのだろう。

だがあえて表現するなら、「劇場に舞台を作りに行く」という行為になるのだろう。

会場の全てが物語の演出になる、私たちも出演している、「高い」と感じるチケット代だが、それは出演料でもあるのだ。推しと同じ舞台に立てると考えれば安すぎるではないだろうか。

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会場で購入したオペラグラスの倍率の高さに気づかず、暗闇をズームで見て「見えないじゃん!!」と言っていた私が、位置を合わせて推しを見れるようになり、そのスペックに感動するなどしていたら、あっという間にラストシーン。そして終幕。

ライブであれば、この後アンコールがある。

舞台では、カーテンコールというものがあるらしい。ここでも驚かされた。

カーテンコールで、出演者と私たち観客は物語から解放され、演者と観客に戻る。というより、”成る”の方が近いかもしれない。会場に入ってからその姿で対面する事はなかったのだから。

出演者が続々と登場するが、とても楽しそうなのだ。推しもキラキラしていた。

そして拍手の度に、出てきてくれる。はしゃいでじゃれ合っている。

とても楽しそう。

舞台の魅力はなんなんだろうかと分からずにいたが、この瞬間に「皆で作品を作り上げた」という”達成感”に近いものがその正体なのだと確信した。舞台上の彼女たちの喜びも”達成感”という言葉が一番似合う。

カーテンコールはまるで「お疲れ様~~」と打ち上げをしているようだった。

今回、私は初めて舞台を見た。そしてまた一つ、好きなものが増えた。

「舞台が好きだ」と語っていた推しの気持ちも分かった。

それは、””舞台””が芸能人とファンという立場をなくして、同じエンタメを愛する者、同じ世界を作るものとして心を分かち合えるエンタメだから。

さらに推しの事も好きになれた。良い桜の季節になった。

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モネと花枝...OPや衣装に見た「色」...ラブコメパロ!?『ファイトソング』レビュー後編 2022.3.29

ドラマ『ファイトソング』について書いていたら、長くなってしまったので、前後編に急遽分けた。だが、今回は後編というより、オマケのようなものだ。前編の記事を読んでいない方がいれば、まずは前編を読んで欲しい。

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毎週楽しかったドラマ内の小さな演出

このドラマ、もちろん本筋のお話が、丁寧かつポップな仕上がりで素敵なのだが、その他の小さな演出にも「ニヤッ」とさせられるものが多かった。まずは、花枝(清原果耶)たちの親代わりの直美(稲森いずみ)が話す「ラブコメあるある」だ。

各話、必ずといってもいいくらいに直美、迫(戸次重幸)、そして凛(藤原さくら)、慎吾(菊池風磨)、花枝の井戸端会議のシーンがあった。そこでは、前編で紹介したような「心が動く」にまつわるあの言葉など深い話もあるのだが、その中には、TBSの火曜ドラマを観てる人にとってメタ的でパロディな面白い話もあった。

第3話では直美が花枝と芦田の、恋の「取り組み」に対して、「ラブコメっぽい」と言っていたり、第5話に至っては、今後の展開を具体的な「ラブコメっぽい」エピソードで予想していた。

やっぱ最後は武道館。芦田さんのライブ。花枝は客席にいない。本当の恋じゃない訳だから。曲が出来た時点で役目は終わってる。その時、花枝は慎吾と一緒にいる。そこで慎吾は「ずっと好きだったんだ。俺じゃダメか」って本気で告白する。花枝もほだされて「これもありか」と一瞬思うけど、振り切って芦田さんのもとに行く。

また、第10話では久しぶりに再会した芦田(間宮祥太朗)と花枝が慎吾と共にエレベーターに閉じ込められたという話を聞き、

「男と女がエレベーターに閉じ込められれてるってあるっちゃある。ラブコメでね、まぁあるかなって感じなんだけど普通二人だよね。最初は喧嘩してるんだけどだんだん...皆が外で心配してる中ドアが開いたら中の2人はチューしていました。」

と、とっっっても嬉しそうに話して(語って)いた。これに脚本家の深い意図があるかどうかは分からないが、いつもの「ラブコメとは違うぞ」という気概の表れにも取れるし、花枝や凛、慎吾のように複雑で特殊な人間関係を持っている人でも恋はできる、ラブコメの形は一つじゃないと象徴している言葉とも考えられたりして、面白い演出だった。(実際、私は「エレベーターで閉じ込めは最終回でやることじゃないだろ!!(笑)」と一人で盛り上がっていた。直美と気が合うようだ)

(「エレベーターに2人が閉じ込められる」ってシチュエーションで思い浮かぶのは、花男第4話のつくしと道明寺。あれは王道。)

次に、ワクワクした演出といえば、OPだろう。OPで流れる劇伴(BGMやサントラのこと)が「ファイトソング」だと最終回で判明したのだが、あの曲のバックで徒競走をする花枝、芦田、慎吾の様子がOPで少しずつ流れ、とても可愛かった。またOPの徒競走のレーン兼譜面の色が第6話以降は、オレンジから水色に変わっていた。そう、このドラマにおいて「色」はまた一つこだわりポイントだと思うのだ。

ファイトソング -3・3・7-

ファイトソング -3・3・7-

  • provided courtesy of iTunes

その「色」が特に印象的だったのは、花枝の着ている服だ。花枝が着ている私服は、原色に近い服が多かった。初デートの中華街の時は、オレンジのコートで「花枝ちゃん...マジか...!!」と度肝を抜かれたものだ...

OPと同じように、第1話~第5話では暖色(オレンジ,ピンク,赤)、第6話~最終話までは寒色(水色,緑)と着ている服の色系統が大きく変わっている。

これも、花枝の「明るい」「強い」が前面に出ていた前半を暖色で、自分の辛さを打ち明けて花枝の内面に迫っていく後半を寒色で表しているのかな...とか妄想していたのだが、どうやらスタイリストのアイデアだったようだ。

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(考えすぎではあったが、スタイリストの方の意図に気づけたのは嬉しい。スタイリストのプロ意識に感服するインタビューなので是非。ちなみに、最終話、凛が慎吾に告白するシーンで、凛のスカートが慎吾のカラー黄色だったのは偶然?)

他には細かいところだが、毎話「いいところ」で終わって、次週「いいところ」で始まる構成も個人的には斬新だった。

「斬新?そうか?」と言われそう...

確かに「いいところ」で終わるのは、ドラマの常とう手段だが、このドラマでは次の週、先週のダイジェスト(振り返り)を挟まず、いきなり続きを展開していた。

近年のドラマは少しでもどこからでも見てもらえるよう「1話完結」「2話完結」「振り返りをしっかりする」といったドラマが多い印象だったが、その流れを断ち切るかのように、毎週視聴して欲しいという気概を感じて、観ている方も物語に入り込みやすかった。

(同クールドラマでは『ミステリと言う勿かれ』も縦軸(週をまたいで話が続く)重視であった。私は個人的にこういうドラマが好きだ。観るモチベーションが高まる)

個人的名シーン

次に関しては完全におまけだ。私が選ぶ個人的に好きだったシーンをいくつか挙げる。(3つに絞ろうとしたが、無理だったので話数が若い順に!!(笑))

・第2話 凛が慎吾の顔剃りをするシーン

凛が慎吾への恋心を隠しながら雑に扱う、凛いわく...慎吾に対する態度は逆だから...「優しく顔剃りしてあげる」シーンで、最終回のあの展開を見てからだと余計に尊い...

・第4話 横浜デートでムササビの喋るぬいぐるみを買って貰った花枝が家で「花枝ちゃん?」と復唱させて「かーわいいな~」ってするところ。&ムササビを購入する時の芦田の「すみません。このムササビをください。」

どっちもかわいい。花枝らしい喜び方で、体育会系なのに意外とぬいぐるみが好きというギャップに魅かれた。芦田は芦田らしさが一番出てたシュールな一言だったと思う。

・第5話 別れの前最後の『スタートライン』

花枝の「最後に約束果たしてもらいます」からの流れ全部がこう言ってしまえばあれだが「このドラマ一番のシーン」私的ベストシーン。”約束をすぐに思い出せない芦田”と”前回のバラードverを「なんか違った」と笑いながら言う花枝”、それぞれを「割とそういうとこあるよね」と言い合うシーンは完全にLOVE。

その後、屋上で『スタートライン』を弾き語る芦田。そしてそれに合わせてはしゃぐ花枝の様子は、往年のトレンディドラマを思わせるノスタルジーを感じた。ここの『スタートライン』は泣いた。

(私にはロンバケのキムタクと山口智子に見えた...いや間違いなく令和のロンバケ...) 

・第6話 芦田が一人でジェットコースターに乗っているのを、ベンチに座って見ながら、音だけで一緒に乗ってるのを想像する花枝

花枝にとって一つの節目になる第6話。耳鳴りが酷くなって一緒に乗れなかった虚しさよりも、今、聞こえている「音」を大事にしようとしている花枝が素敵だった。

・第7話 鍋パーティの後、一緒に線路沿いを歩く花枝と芦田。

地味にMVPシーン。「好き同士ならただ歩いてるだけで幸せ」というのが、ダイレクトに伝わる名シーン。二人の雰囲気を伝えるためか劇伴オフの映画のような描写になっているのもgood。どこか「最後の幸せ」感を漂わせているのも味。

・最終話 凛が慎吾に思いを告げるシーン

泣いた。正直、花枝と芦田ベストシーンは最終話よりも第5話の『スタートライン』、それ故に最終回で泣かされたのは凛と慎吾のこのシーンだった。藤原さくら主演のドラマだったかと錯覚するほどあまりにも美しいシーンだった。

あまり語るとまた長くなるので控えめにしたいが、作中で”萩原凛”というキャラはとても魅力的なキャラクターだと思っている。

花枝の良き相談相手であり、慎吾の良き相談相手でもあったが、同時に凛自身も慎吾や花枝と同じ苦しみを持っていた。誰が強いとかそんな話はすべきじゃないが、あえて言うならば凛が物語最後まで一人で踏ん張っていた人だったのかなと思う。それ故にようやく慎吾に受け止めて貰えて、感動もひとしおだった。

「世界一はお前だよ。私が慎吾にずっと恋してる事に全く気づかないからだよ」

「”えっ”じゃねえよ。バーカ。私の”バーカ”は大好きって意味なんだよ。バーカ」

「悪いけど決めたから私。私に恋させてやる。分かったか!」

花枝と芦田の恋の「取り組み」がなければ実らなかった恋かもしれない。凛の心も知らず知らず動かしていたと考えるとさらに深みが増す...これを”ツンデレ”と表してしまうのはもったいない気もするが、バーカが大好きって何だそりゃ!!(ごちそうさまです

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(歌手としての藤原さくらも好きな私としてはやはり今回の凛。素敵だった。第5話で告白をためらう慎吾に言った「あるもん壊さないと先になんか進めない」「だけどとかいらん!死ぬ気で行け!骨は拾ってやる」がお気に入りの台詞)

『おかえりモネ』と『ファイトソング』と清原果耶

最後に話しておかなければいけないのが、このドラマと『おかえりモネ』の類似性についてだ。前編の書き出しで、『おかえりモネ』の名前は出していたのだが、ここで少しだけ話したい。

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(朝ドラ『おかえりモネ』について知らない人はこちらをチェック。もれなく筆者の狂った”おかモネ”愛を垣間見ることができる)

このドラマを観ようと思ったのは、前編冒頭でも話した通り『おかえりモネ』という作品に至極共感し、感動した(というより救われた)からだ。そして作品と同期して清原果耶という俳優にも惚れた。

だからこそ、最初は制作陣の方に失礼なのだが『おかえりモネ』の延長としてこのブログを書こうと思っていたのだが、それはこの作品に関わった全ての方々の熱意。この作品のことだけでこんなにも「心が動いた」

だから、『おかえりモネ』と『ファイトソング』比較して見なくても2つとも素敵な作品であることは間違いないのだが、最後に与太話として語らせて欲しい。

(当初はこんな感じだったのに...ちゃんと『ファイトソング』として好きになれたのは嬉しかった)

まず、この物語も『おかえりモネ』(以下”モネ”)と同じく”痛み”を抱えた女性が主人公で、それがこの作品のテーマの一つでもあった。痛みであり「不条理」、作中ではほとんど名言されなかったが、「家族の喪失」「聴覚障害を患う」という二つの出来事に必死に向き合い、勝とうとする花枝の姿が印象的だった。

モネとは”痛み”の種類も、主人公のキャラクター像も正反対だったが、2人ともどこか一人でその痛みを抱え、モネなら「役に立つ」花枝なら「勝つ」という生きる事に対して何か”意味”を見出そうとしていた、人生における意味に拘っていたという点で、最終回を終え、なんだか似ている部分があると感じた。

そして、その”意味”からの解放。モネ作中の言葉を借りるなら、「人は傷つく必要なんてない。どんな人もいるだけでいい。そこにいるだけで」という考えに自分自身で至った点でも、同じような道筋を感じた。

また、その道筋の途中にパートナーがいた点も重なって見えた。菅波という、芦田という寄り添ってくれ、一歩踏み込んできてくれる人物との出会い。

第7話で芦田含めて、鍋パーティーをした時に、凛や慎吾もいる場で、芦田が「なんかいいですね。何でも言い合える関係って」と言っていたが、これは幼馴染と相対した時の菅波だった(菅波に見えた)

花枝が目を背けていた自分の本音、モネが自分自身で縛り付けていたありのままの自分を、見つけてほどいてくれた人物が芦田であり、菅波なのだ。

「”ここが痛い”って口に出させてあげる事は本人の心を軽くします」

かつて菅波がモネに伝えたこの言葉が放送中、頭によぎった。

それは、耳の事を「それを言えば壊れてしまう」と言い出せない花枝に対して、「分かった。でも話したくなったらいつでも話していいよ」と声をかけた葉子(石田ひかり)のように、「話す」事、「聞く」事の大切さを描いていた点においてだ。

「話す」事、「聞く」事という意味では、今作はモネとは違う”深い”視点からの話もあったかもしれない。実際に「耳が聴こえなくなった」花枝がどうそれを実践するのか。

その結果として「負けた。会いたい。会いたい。甘えたい。泣きたい。会いたい。待ってる。大好き。じゃあ」というように、「ありのままに思いを伝える」尊さが際立っており、「話す」「伝える」というのは何も「音声」や「複雑な言葉」が必要な訳じゃないという点まで、表されていた。

要素的な面で言えば、「音楽」も共通していた点だろう。モネも花枝も心の拠り所に音楽をもっていた。そういう意味で音楽はやはり、その人の”心の鏡”のようなものとして私たちの心にあるのだと改めて感じた。

と、ここまで『おかえりモネ』との共通点を話してきたが、それでも『ファイトソング』という別の物語として層をもって世界観が紡がれたのは、間違いなく清原果耶の演技力だった。それを象徴したのが、”涙”だ。

第1話で芦田が演奏した『スタートライン』に花枝が涙するところがあったが、あれはモネの涙とは違った。モネは心から自然と滴るような涙だったが、花枝は、せき止めていた思いが氾濫して一時的に洪水を起こしたようなそんな涙だった。

この涙という点で、似たようなテーマを持つ物語に明確な違いを出したのは「さすが」の一言だ。

また、抱擁された時の目の演技。あれはモネの時からだが、”最強”だと思う。

「自分の心を開放してもいいのか?」「自分の気持ちに正直になってもいいのか?」

という心の動きを見事に表現していて心打たれる演技だった。

同じく火曜ドラマの『プロミスシンデレラ』の二階堂ふみ、そして日テレ水曜ドラマ『恋です』の杉咲花もだが、”ラブコメに縁がなかった実力派女優”がラブコメに出るという深み、爆発力はすごいなとも感じた。

(モネの「お目目パチパチ」キョトン顔も好きだったが、花枝の「は??」「うん??」という強めのキレ顔も悪くなかった...) 

 

という事で、つい長くなってしまったが、これで『ファイトソング』のレビューは終わり。また素晴らしいドラマに出会えて本当に良かった。

TBS系火曜ドラマは、”キュン”という点から、様々な点に線を伸ばして多様な世界を描いてくれるが、次はどんな世界に出会えるのか。楽しみだ。

 

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「恋」とは「心が動く」事、そして”ありのまま”でいる事『ファイトソング』レビュー前編 2022.3.28

先日、ドラマ『ファイトソング』が最終回を迎え完結した。ラブコメ作品が定番になっているTBS系火曜ドラマの2022年一作目となった今作。

私は今作を観る事、そしてブログを書く事を発表されたタイミングで決めていた。それは主演があの『おかえりモネ』の"モネ"、清原果耶だからだ。

私にとって『おかえりモネ』は今も心の中にある”お守り”のような特別なドラマである。それ故に、そんなモネの熱が冷めないまま、シームレスに始まった今作には放送前から期待値が上がっていた。放送を終えた今、期待通り、いや"期待以上"の作品だったと思う。

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この物語は、児童養護施設で育った花枝(清原果耶)と”一発屋”ミュージシャンの芦田(間宮祥太朗)の二人の恋愛が中心に描かれる。その中で、花枝と同じ養護施設で育った慎吾(菊池風磨)、凛(藤原さくら)、そして芦田がかつて組んでいたバンドのメンバーである薫(東啓介)、そのマネージャーである弓子(栗山千明)らを巻き込みながら話は進んでいく。

今作もラブコメの例に漏れず、一応突飛なテーマ付けはある。花枝と芦田は互いに”恋愛経験ゼロ”

それ故に、恋の「取り組み」と称し、恋愛を学んでいくといういかにも”ラブコメ”な設定である。

だが、『おかえりモネ』など数々の硬派なドラマを通って来た清原果耶だからなのか、ラブコメでありながらある意味で硬派な人間ドラマの側面もあったと思う。

不条理に立ち止まった彼女がすがったのは「恋」

恋の「取り組み」をする

それだけであれば何の変哲もない王道ラブコメだ。だが、今作はそこに留まらない。その魅力は、花枝が、恋の「取り組み」をする理由に隠されていた。

芦田は『スタートライン』という楽曲で大ヒットしてから次の楽曲がなかなか売れず大ピンチ。そんな時マネージャーの弓子に冗談で言われた「恋でもしてみたら?」という提案を実行に移したのが「取り組み」の始まり。

そんな時にたまたま出会った『スタートライン』を大事そうに聞く花枝に何かを感じ、「付き合ってください」と伝え、花枝が恋の「取り組み」と名付け本格的にスタート。

花枝にとって『スタートライン』はとても大事な楽曲だった。母親が好きだった曲。そして、家族がみんな笑っていた頃の思い出。花枝が養護施設に来たのは、母が亡くなり父が家を出て行ったから。それから花枝は、家族の思い出である『スタートライン』を胸に、「強くなる」事を目指した。

家族を失っても、強くなること、その体現である「空手」に打ち込むことで不条理な世界に勝とうとした。それは弱い自分が、不条理に負けないため。「強くなってこの世界と戦うため」だった。

そんな花枝が恋の「取り組み」をしようと思ったのはそれでも「世界に負けそうになったから」だった。ある日の空手の試合終わりに、事故に遭ってしまう。幸い、怪我は軽かったが、「耳が聴こえなくなる」恐れを孕んだ腫瘍が脳に残ってしまった。

「進めないんだよどこにも」「何したらいいか分からないんだよ」

一度は不条理な現実を乗り越えたのに、また挫かれた。今度はもっと辛い現実。もうどうすればいいか分からない...

この作品がただのラブコメに留まらないのは、「家族を失くす」「耳が聴こえなくなる」という2つの不条理がバックグラウンドにあるから、さらに、それに「勝つため」に花枝にとってある意味”不条理”な意味の分からない「恋」をしてみるという”ヒューマンラブコメディ”だからだ。

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”恋は矛盾だらけ” でも、だから前に進む力をくれる

「いやいや...何したらいいか分からないから恋って...」

そう思う人もいるだろう。だが、この作品はそんなハチャメチャを丁寧に描写する事でなんだが腑に落ちる、なにか新しい心地にしてくれた。

序盤は、恋愛経験ゼロの花枝と芦田の二人の恋の「取り組み」が中心に描かれる。二人でネットで”恋とは?”を調べてホワイトボードに書いてみて、2人で食事に行ってみたり、遊園地に行ってみたり色んな事に取り組んだ。

その度に、2人は「なんか違う?」と戸惑いながら迷いながら「取り組み」をしていた。だがそのどれもがとにかく楽しそうだった。

第3話で食事に行った時は、ししおどしの鳴る「取り組み」的には不正解の場所に関わらず、それがおかしくて二人の会話は盛り上がった。花枝が一人で弾丸トークを繰り出したり、女の子扱いされて喜んでいた様子も微笑ましかった。(花枝の「うれしい」の言い方がとても好きだった)

筆者である私はこの段階で、「え?もうこれが恋じゃないの?」と感じていた。突然だが、筆者である私も恋愛経験ゼロだ。それ故に実は、これだけフィクションとしての”恋”を見ていながら、それが何なのか分かっていない。

第3話ラストから第4話冒頭にかけて、横浜デートを終えた時、芦田が花枝に無許可キスをしようとして正拳突きでぶっ倒されるシーンがあった。ここで花枝はこう言い放つ。

「ちょっとがっかりしました。なんか強引というか。そういう風にしたら女の子ちょっとキュンとするだろとか思ってんだとしたら、少なくとも私はしないです。ドラマとかで見るのはいいんですけど自分にされるとなんかバカにされてる気がして。とにかく決めつけられるのホント嫌いなんですよね。付き合うってこういうことだろとか。女なんだからこうしろとか。」

「なんか彼氏なんだから、男なんだからこうしろっていう決めつけ?それもしたくないと思ってて、女らしさ要求されるの嫌だから相手に男らしさ求めるのもやめようと思って」

花枝のこの言葉に序盤とても共感した。私も「付き合う」ってなんだろう?と考えた時に、”付き合ってるからこうしなきゃいけない”みたいな考え方が嫌で、それこそ花枝の言う通りだと思っていた。

でもだったら「付き合う」ってなんだ?(堂々巡り)となる。そうなると「彼女にはこうして欲しい」みたいなわがまま?みたいなのも言っちゃダメなのか...とも思ったり。

だが、そんな花枝の理論はどんどん崩れていく。終盤に進みにつれ、花枝の言った「取り組み」からは外れた、ある意味”カップルとはこういうものだ”という行動を自然に取るようになっていく。「キスしたいなら”したいけどいいか?”って聞いてもらわないと」って言っていたくらいだった彼女はキスを割と気軽にするようなる。

その極めつけは、第8話。ファミレスでの”呼び出しボタンピンポンチュー”だ。大学に通っている時は「バカップルかよ」「最低」って思っていた、ファミレスでのキスを、一緒にいて楽しかったら「そうなるんだよな~」と言いながら、店員の前でやってのけるのだ。あらまあ...

「おかしいおかしい!花枝そんなので喜ぶ人じゃなかったじゃん!」

と思わず言ってしまったが、あまりにスムーズに違和感なく「取り組み」が「恋」になったからかどこか納得してしまう節もあった。恋とはそういうものだと言われているようで少し腑に落ちてしまったのだ。

「恋はきっと矛盾だらけなんじゃないかな」

意気揚々と「恋の取り組みとはこういうものだ!」と宣言した直後、芦田にムササビのぬいぐるみをプレゼントされて喜んでしまい、自分自身でその論理を早々に破綻させてしまった花枝。そんな花枝に芦田はこう言った。

芦田もそうだ。第4話で薫に「あの子にそばにいて欲しいんじゃないの?」と聞かれ、芦田は「そういうのじゃないから。だからそばにいてくれとか逸脱した事を頼める関係では」と答えた。だが「そばにいたい」と思っていたし、結局そうした。

そんな風に、恋は矛盾だらけ。花枝が思い描いた「取り組み」の理屈通りになんかいかないものだった。

そう、この物語における「恋」はそんな矛盾。理屈を超えた「心が動く」を表す、いやそれそのものだった。そして、だからこそ花枝にとって、芦田にとって力をくれるものだったのだ。

”心が動く”は”未来が変わる”

「心が動く」

この言葉はこのドラマの中で、特に印象的に聞こえてきた。この言葉が初めて出たのは、物語序盤の第2話。「泣かない」と決めていた花枝が芦田の『スタートライン』の生演奏に思わず涙したと聞いた直美(稲森いずみ)から出た一言だった。

「あんたが大泣きしたって聞いて嬉しかった。心が大きく動いたんだから、未来も動くよきっと。いい風にね。あなたたちはさ、色んなものを奪われてここに来た。だから、これからは良いことたくさん起こるんだよ。」

”心が動く”とはどういう事なのか?なぜ、心が動けば未来が変わるのか?

ここで、少し木皿花枝という人物を振り返りたい。彼女は空手をやっていることから、いわゆる”体育会系”女子だ。個人的には第4話でかつて所属していた大学の空手部員とたまたま遭遇した時のリアクションがそれを物語っていた。

まぁ、そんな事言わなくとも、芦田が無許可キスを繰り出そうとした時も正拳突き×10を食らわせるし、芦田自身も「自分の思ってる5倍は怖いから。自分の思ってる10倍は怖いから」と言っているくらいだから、花枝は体育会系で負けず嫌いでちょっと...怖い...”気の強い”女の子だ。

だが、その反面一人で「耳が聴こえなくなる」かもしれない現実を抱え込み怯えている描写も要所要所で描かれていた。

花枝は家族を失くした時、「泣かない」と決めた。そして「強くなる」と決めた。

「いつだって自分の意思がしっかりあって。曲げないし負けない。その強さは美しい」

芦田がそう表したように、花枝のその思いは「強さ」として花枝自身の芯として彼女を作っていった。だが、これは「そうしなければ負けてしまう」「でも本当は泣きたい」という花枝自身の本音を無理やり抑え込んでいるようにも思える。

もしハツラツとした一面だけが彼女なら「悩んでるだけ無駄!とにかく前に進むだけ!!」というようにどんな悩みも気合で乗り切るはず。だが実際はそうはいかず、ずっと一人で抱え込み立ち止まっていた。

「空手の場合だけど、相手がね、多分こう来るだろうなって楽なの想定してたら負ける。絶対負ける。絶対そんなの来ないでしょってのに備えないと負ける。だから、嫌な事が起きる前提で戦うスタンス」

第8話でこぼした花枝の空手へのスタンス。一見「強い人」の考え方に見えるが、ここからも花枝の本音が読み取れる。

家族を失くしショックを受けた経験から、常に「何かが起きる」と構えている。そして、それに対する備えを怠らない。

「こういうトレーニングをしたらこの筋肉が鍛えられるみたいなの考えるのが好きで」

作中のところどころで、そんな花枝の慎重でかつどこか「理屈っぽい」一面は垣間見えた。「気合で乗り切る」とは真逆で、彼女はとても慎重で、堅実なのだ。そしてそれは自信がなく怖がり、いつも不安と付き合っているということでもある。

それは、不条理が起きる事に怯え、それに苦しめられないようにしようとするが故に、自分が強くいる事で、一人で抱え込んで苦しむ事にどこか慣れてしまっているからではないだろうか。

そんな、花枝の本音に苦しみに気づいたのが芦田だった。

花枝は強いというか”頑な”なんだなと思いました。自分の決めた事を絶対に変えない。何があっても。それは強さでもあるけど、そこから動けない、それしかできない弱さでもあるんじゃないかな。

慎吾に花枝が隠している事を知りたくないのか?と聞かれても、「彼女の意思を尊重する」と踏み込まずにいた芦田が”踏み込んで”花枝にこの言葉をぶつけたのはある意味衝撃的だった。視点を変えれば、花枝の心に一番近づけた芦田だから言えた言葉でもある。

そして、これは花枝が”一人で戦わなければならない”という状況からの解放であり、花枝の心の壁を壊す一言でもあった。

そんな芦田の言葉を受けて、花枝は最終話でこう自分の気持ちを語っている。

「私は確かに”頑な”なところがあると思う。でも、それしか生き方を知らなくて。自分に厳しくしてないとどうなっちゃうか分からないくらい自分に自信なんかないし、弱いし、ダメだし。弱いところばっかり相手に見せて、甘えて、なんかそういう自分が想像できなくて怖いんです。耳が聞こえなくなってやっぱり大変で。自分がバラバラになっちゃうんじゃないかって思うくらいきつくて。でも弱気になったら戦えないから。」

芦田の言葉が花枝のありのままを引き出した。そして花枝が前に進めたのは、やはり芦田との「恋」だった。

自分で壁を作って鎧を背負って抱え込む事で、戦おうとしていた花枝に必要だったのは、隣で寄り添ってくれる存在、そして「こうすればこうなる」という打算を覆すパワーを持ち、花枝が奥に封印していた”ありのまま”を受け入れてくれる「恋」だったのだ。そしてそれこそが「心が動く」という事でもあった。

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自分の心を誰かに話す大切さ

花枝がいろんな心の鎧を脱ぎ捨ててありのままになれるまで、寄り添ってくれていた人は他にも沢山いた。

その中でも特に印象的だった人が一人いる。花枝がハウスクリーニングの仕事で出会った葉子(石田ひかり)だ。彼女と花枝は仕事を依頼する顧客とそれを受ける業者の関係から、物語が進むにつれ”親友”と言っても過言ではない特別な関係になっていった。

葉子は、花枝と同じで人生の途中で聴力を失った一人で、彼女の存在は「耳が聴こえなくなる」という孤独の中に1人いた花枝を大きく救った一人だった。劇中でも花枝が迷ったり悩んだりしている時には必ず、葉子とのシーンが描かれていた。

第5話で彼女が花枝に「何か秘密、心配事があるんじゃないか」と聞いた際、「誰かに言った方が楽になるってのも分かるんですけど、でも言わずに抱えてる方が楽だっていうのもあって。誰か一人にでも言ったら壊れてしまうんじゃないかって」と漏らした花枝に対して

「うん。分かった。そういう事もあると思うよ。でも、”頑な”にはならない事。私に話したくなったらいつでも来る事。遠慮はしない事。」

と、花枝の”頑な”なところを指摘しながらも寄り添ってくれていた。耳の聞こえない葉子と花枝のやり取りからは、”聞こえない”からこその「伝える」事の大切さがあった。

葉子は花枝と2人でフレンチトーストを作っていた時は「たのしい」「うれしい」と言い合っていたし、耳が聴こえなくても好きな人に「大好きだよ~」と電話をするとも楽しそうに花枝に語っていた。

第3話で直美も「まあ言いたいの。誰かに”疲れた”って。良いもんだ誰かに言えるってのは」と言っていた。

聞こえなくとも、伝えたいと思ったら伝える。どんな拙いどんな短い言葉でも、伝える事が大事なんだ。

そしてそれは、聞こえている人も同じ。

自分の気持ちをありのままに伝える事の大切さを大事にしていた葉子がいたから、花枝が自分らしく「心が動く」ままに芦田に思いを伝えられたのではないか。

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聴こえなくても、家族がいなくても「恋」していい

このドラマでは、花枝と芦田の恋愛が中心に描かれるが、もう一人忘れてはならない人物がいた。それは凛とともに花枝と幼少期を過ごした慎吾だ。

慎吾はずっと花枝に恋していた。だが、芦田との恋の「取り組み」が始まって、半ば一人苦しい片思いを募らせることになる。

第5話では、花枝に自分の「好き」を伝えようと慎吾は花枝をキャンプに誘う。それまで、そこで、花枝に思いを真っすぐに伝えられずにいた慎吾が、凛にこぼしたのは、花枝への恋心に対する思いだった。

「男とか女とか恋とか、そんな事よりも深い出会いをしてしまってる訳だからさ。兄弟とか家族とかより強い絆を持ってしまってるから」

この物語において花枝、凛、慎吾は児童養護施設で育ったという他とは違う経験をしている。凛は父親が急逝、花枝は母親が急逝し父親は失踪、慎吾も母親が男を作って蒸発したという経験をして、3人は他の誰にでも共有できない痛みを分かち合える特別な間柄になった。

でも、それは同時にその関係にある彼ら同士では恋愛をする関係にはなれないという難しい状態を生むことにもなっていた。あえて言うなら”恋愛なんてそんなものじゃない”それ以上の関係になっているから、慎吾はその尊さを知っていて、それを崩したくなくて花枝への恋心をごまかしてきたのだろう。

だが、「そんな事ない」とこのドラマは慎吾を通じて伝えたのだ。

第9話で慎吾はついに花枝に告白する。

「俺はずっと好きだ」「女の子として好きだ」「大好きだ」「ずっと花枝に恋してる」

関係が壊れるのが怖くて”チャラくして”ごまかしていた慎吾。だが、その思いを伝えた。

結果的に花枝からの答えは「私たちは家族とか兄弟とか超えた私たちにしか分からない関係」と慎吾の思っていた通りだった。

一時は気まずい関係になるも、最終回では「花枝が幸せになるってことは俺もその幸せの中にいる」とどこかスッキリした表情だった。

「恋愛以上の関係だから恋人にはなれない」ではなく「思いを伝えたけど、他に想い人がいた」

慎吾は何も考えず思いを伝えて「恋」を終わらせることができた。そして、その「恋愛以上の関係」だった凛と結ばれているところにも、彼らにも普通の「恋」はあったんだと思えた。

また「耳が聴こえなくなった」花枝も、それが理由で「恋」を諦める事はなかった。

第6話で葉子は、こう花枝に伝える。

「世界は必ずしも悪い方向にばっか進んでない」

花枝と同じ経験をし、その先を生きる彼女の言葉は、花枝の未来を照らす光になった。

「私みたいな人でも便利な世の中になってる」

耳が聴こえなくとも、”バイブレーション付き”の目覚まし時計、スマホの翻訳ソフトというツールがある。そして、照明を点滅させる事で合図をしたり、口を読みやすいようにゆっくり話してくれる周りの人たちがいる。

どんな不条理に世界を変えられても、当たり前の幸せを手に入れる事はできるのだ。

『スタートライン』これからもずっと続いていく...

今回の物語では、『スタートライン』という曲がキーとなっていた。第1話で生演奏を聞いた時に、涙したあの時からこの曲は花枝の「ありのまま」を受け止めてくれる存在でもあった。そして、芦田との出会いであり、その「取り組み」の思い出がその曲に注がれていった。

「怖かったし辛かった。だから音を聴いて思い出を作った」

「覚えてるんだと思う頭の中で」

花枝が、恋の「取り組み」を始めたのは、「不条理に勝つため」ともう一つ、「思い出をつくるため」でもあった。

遊園地デートをした時、花枝は芦田に名前を呼んでもらいたいとお願いした。それを聞いた花枝は噛み締めるように聞き、嬉しそうだった。

「慎吾が馬鹿な事言って、凛ちゃんがバシッとツッコんで、直美さんがちょっと良い事言って、最後に迫さんが微妙な事言って、良いよね。好き。覚えとこ。」

皆の声が、あの雰囲気が、「好き」な感じは心が覚えている。思い出として。

花枝の耳が聴こえなくなっても、あの瞬間ごとの思い出がずっと彼女の心には残っている。そしてその思い出はいつまでも、あの声、あの思いをリフレインし続けるのだ。

『スタートライン』という音楽も、その一つだろう。「家族の幸せ」という思い出に、芦田との思い出が重なってどんどん大きな存在へとなっていった。

「恋ってなんだ?」

私も正直今でもよく分からない。でも何となく分かったのは、恋って紡いでいくものなんだという事。だから紡がないと分からない。経験しないと分からないのだろう。

恋って矛盾だらけで意味の分からないものだ。「嫌いなところもあるのに、それすら好き」ってなんだそれと思う。だけど、人間とは本来そういうものなのかもしれない。理屈通りにはいかないし、弱さもあって当然。誰かにわがままになったり、正しくない事もするかもしれない。でもそれでいい。それがなければ機械人間だ。苦しいに決まってる。

だからこそ、不躾で間違っていても誰かの心に踏み込んだり、ただそばにいたいと行動してもいい、理屈から逸脱してもいい。

その「心の動き」その一つ一つが「恋」へと向かっていく。それが重なって紡がれて2人の幸せが出来上がっていくのかもしれない。

「恋」は、そんな人間の面白さ、不思議さ、そして「心が動く」事、「ありのまま」でいる事の素晴らしさを証明してくれている気がする。

「恋ってしなきゃいけないものではなくて。でもやっぱり人が人を好きになるのは素敵な事だと思う。誰かが自分の事を好きになってくれるってそれはとても最高な事で。自分が好きな人が自分を好きになってくれるなんて、それはもう奇跡みたいなもので。」

最終回の芦田の言葉は本当にそうだ。恋って奇跡なのだ。人が誰かを好きになって、相手も好きだ、なんて奇跡だ。だから輝くのだろう。

そして、理屈では説明できない、決まった形などない”ときめき”や”虚しさ”そんな感情こそ、私の「ありのまま」。それを受け止めていくことで自分は紡がれていくのだろう。

なーーんて、言ってるこの話も無理やり恋を説明しようとしてるだけなのかもしれない。

「あっ」「えっ」

そんな一言でも伝わる。

「負けた。会いたい。会いたい。甘えたい。泣きたい。会いたい。待ってる。大好き。じゃあ」

投げやりに放った「会いたい」「大好き」そんな一言なのに、なんだかとても嬉しい。

「ドン。ドン。ドンドン。」

音は聞こえなくても、アンプから伝わる振動だけで『ファイトソング』は感じられる。

複雑な言葉がなくとも、伝えようとすれば伝わる。花枝が「押忍」でコミュニケーションできるというように。

恋ってそういう単純で、でも複雑で。なのに理屈では説明できなくて、とても大きな感情だけが居座るもの。でもだから楽しい。

このドラマからは、そんな「恋」を教えてもらった。そして、そうやって「心が動く」事の大切さを気づかせてくれた。

「心が動けば、未来が変わる」

劇中で花枝は「なんなん?」と度々口にしていたが、これも「心が動く」瞬間の声だったのかもしれない。

明るい未来のために、ありのままの心でいたいものだ。

 

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30分で書く『劇場版ポケットモンスターココ』2022.3.11

さて今回は、タイトルにあるように”30分”でブログを書いてみたいと思う。私のブログの弱点、文章の弱点は簡潔に手軽に書けないこと。

それをこれから先は、手軽に、簡潔に、それでいて読みごたえのある文を書きたい!!という事で、なんとなく始めてみる。どうなるか分からないまま。ここで既に2分。縛りプレイはなかなか辛い。だが面白い(意味深) いつもと少し違う文章になりそうだが、どうか見ていって欲しい。

(ちなみに文章の中身自体を30分で書くという意味であって。細かい訂正は後でやります(笑))www.amazon.co.jp

www.pokemon-movie.jp

つい先ほど、映画『劇場版 ポケットモンスターココ』をアマプラで視聴した。推しの一人である上白石萌歌が声優を務めた作品だ。

ポケモン映画なんて、随分久しぶりに見た。だが、早いところ感想を言うと、とても素敵な作品だった。

まずは、今作の主人公ポジションであるココ。顔立ちが可愛いので、森に半裸でいても変に野生児感が溢れすぎていないのが良かった。推しの声は非常に少年に合う。女の子が男の声を演じるというのは私の大好物でもある。また、カタコトで話すところはそれを録っている推しを想像して少しにやけてしまった。

ココはザルードというごついポケモンに育てられたという設定。その中で、”ポケモン”と”人間”という種族の違う生き物の共生について描かれるのは、幼い頃から「そういうもの」と、ポケモンと人間がともに生きる世界を見てきた私にとってはとても斬新で、挑戦的に感じた。

ザルードに"ポケモン"として育てられたココが、サトシとピカチュウと出会い、自分は「人間」なのだと認識する展開は、「自分は何者なのか」という哲学的テーマ、いわゆる”アイデンティティ”にまつわるお話に近い内容でもあるのだと「ふむふむ」と観ていた。

 

そんなココの”とうちゃん”であるザルードは、群れで暮らしていて、なんだかすごい治癒力のある木を中心とした泉エリアを住処としていた。

彼は"人間"であるココを育てるため、そして「ここにはザルード以外は入れてはならない」という群れのルールに背かないため、群れから抜けてココと共同生活をしてきた訳だが、ここもなんだか面白かった。子供の頃は「そういうもの」としか思わなかった、キャラクターとしての「ポケモン」にもそれぞれルールがある。そして、彼らなりの仲間意識が存在する。皆”生きている”のだ。

また、そういう意味ではザルード以外のポケモンたちも一枚岩というわけではなく、敵意識が強い(助けてあげたのに、敵として認識される描写があったり)のも、ポケモン世界の多様性を感じた。

少し散らかってきたが、この作品でとても考えさせられたのは、「種族」や「人種」の違いなどをどうしても大きな壁として気にしてしまうが、気にするほどの事ではないという事。もちろん違いや衝突はあるが。それでもそう考えられたらいいなというような願望でもある。

ザルードたちは最後に「自分たちだけで生きられている訳ではない」と気づき、癒しの木を全てのポケモン(おそらく人間も)に開放する。

悪い博士の一件で森を守るためにポケモンたちは一致団結した。ココも「人間」と「ポケモン」という二つの種族で揺れる存在で、前半は心配しながら見ていたが、結果的に「どっちも受け入れる」という選択をした。

 

この手の話はとても30分でブログに書く問題ではなかったなと今後悔しているが、そのような「違いはあるけど絶対に交わらないものなんかじゃない」というなんとなくの実感を持たせてくれるだけでも十分だと思った。これを見た子供たちが「ザルードもココもサトシもポケモンも人間も皆、仲良くできるんだね」という事を感じるのだとしたら、なんだかとても意義深い気がする。

そして、それが簡単に描かれるのではなく、しっかりとザルード、ココ、ポケモンたち、サトシとピカチュウ、調査隊(人間)それぞれの対立も確かにあると描くことで陳腐なものになっていないところにも感動した。

今、あと2分しかないので焦っているが、脇で悪事を働こうするけど結局良い事をしてしまうロケット団、無慈悲にピカチュウを2回飲み込むウッウ(そして10万ボルトを2回も打たれるウッウ)、とにかく動きがうるさくて目がキラキラでかわいいホシガリスなど、見どころ満載。

文明と自然の対比(調査車とやったら”硬い”ロボットと、森の対比構造)なども書きたかったが、どうやら時間みたい。

 

エンドロールで主題歌が流れながら、子供たちの絵が紹介されるあの感じは、とてもノスタルジックに感じた...

時間が、、あと最後に!!!!

 

「いくぞ、黄色いの!」とピカチュウに言ったのが個人的にツボだった。

 

30minutes...

 

 

 

今の私を作っていた「教科書」2022.2.28

最近、部屋の整理をすることがあった。最近といっても一年前だ。というのも私はこの文章を下書きにして一年も放置していたからだ。一年越しに完成させてみる。

私自身、綺麗好きな方なので、掃除は嫌いではないが、やり始めると、なかなか止め時が分からなくて大変だ。

主に整理していたのは、学生時代の教科書。小学生、中学生、高校生の時に使っていた教科書など「もうとっくに捨てたわ!」そんな人もおそらく多いと思う。だが、私はどうも物が捨てられない人間で、ずっと取っておいていた。

まぁさすがに、そろそろ捨てなきゃと整理をしていると、何の変哲もない国語の教科書に気を引かれた。

掃除や整理する時に困るのは、止め時が分からないのともう一つ、気づいたら本を読んだりして脱線してしまう事だ。整理するときに陥るド定番だろう。そんなド定番に漏れる事なくハマり、私は、国語の教科書に足を止めて読み始めてしまった。

最初は「どんな文章が書いてあったっけ?」と確認程度で読み始めたのだが、次第に「え!こんな文章もあるんだ!面白そう!」などと本の世界、いや教科書の世界に飲み込まれてしまっていた。

まぁ、そんな教科書を引っ張り出して来て、その世界にのめり込むなんて、正直私以外にいるのかという感じであるが、教科書に載っている文章は、なかなかに私好みの哲学的なものが多い。「哲学?」となっている人に分かりやすく説明すると、”自己”に関する事だったり、”コミュニケーション”に関する事だったり、、そんなところだ。

 

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学生時代の国語の問題集の1ページ。教科書もそうだが、書き込み魔だった。問題を解く前に、段落に番号を振り、問題文に線を引く、そして文章を読みながら内容をまとめて空白に書いていく。これが私の現代文必勝法だった。

「相手を自己の立場の原点としてのみ考える拡散型自我構造を持つ日本人には最も異質なものである」

そんな一文で終わるのは鈴木孝夫氏の『相手依存の自己規定』

この文章では近頃の若者が「自分のありのままを打ち明けられる、相談できる相手が誰もいない事」に悩んでいるという話題から始まり、鈴木氏が担当していた大学の講義でそれを生徒に伝えると笑いが起きたという一節で幕を開ける。

どうも読み進めると、アメリカでは「個人が、本当に個人である部分は、他人に言えない部分」であって、それを打ち明けるなど、個人としての自分を危険に晒すようなものだと考えるらしい。そのためアメリカ人からすれば、日本の若者の悩みはむしろ「それでいいのに。何を悩んでいるんだ」と感じ、笑いが起きた理由がそこで明らかになる。

私も、共感を求める、分かって欲しいと思う、そしてそれが充足されない事に悩むタイプなので生粋の日本人だなと思った。

というように案外、教科書には、大人になってから読んでも「お~~!!」という事が書いていたりする。

 

「中学生くらいになると、まず家族や周りの人間に対して批判的になる傾向がみられる」

こちらは竹田青嗣氏の『「批評」の言葉をためる』の一節。この文章では「批判」と「批評」の違いが語られ、「批評」こそが大事な能力なのだと述べられている。

「あの歌いいよね」「分かる~」「昨日のドラマ見た?あの展開はないよね。」「あれはないわ。」

好きか嫌いかでやり取りされるこんな会話は、「批判」でしかなく、そこから「あの歌、~~って歌詞が素敵だから良いよね」とか理由が入ってくると、「批評」に近づいていく。そして「批評」は竹田いわく「自分なりの価値基準の根拠を明確にして、物事を評価すること」だという。それが出来るようになると、「趣味が同じ」「好きなものが同じ」人だけでなく、趣味が違う人、”好き”が違う人とも仲良くなれるのだと。なぜなら互いの「自己ルール」、価値基準を交換し合い調整し合えるようになるから。

そんな「自己ルール」は自分では確認できない。相手とのコミュニケーションの中で、自分がどういう理由で何を好きだと判断しているのかを知るというのだ。

そして、「自己ルール」つまり自分自身を理解するには、「批評」が必要であり、「批評」を行うには、自分の価値基準を表現するための言葉が自分の中にたまっている必要がある。という結論で締めくくられる。

私のブログはもうすぐ3周年。ありがたい事に記事を褒めてもらう事も度々だ。自分でも「文章を書くのは得意なんだ」と自信を持って言えるようになってきた。だが、私は物書きに多い「読書好き」という要素を持っていない。じゃあどこで培われたのだろう?

そう思った時、今回の記事のオチが決まった。そうだ。「国語の授業が好きだったから」だ。そこで私は、批評に必要な言葉を蓄積した。だから、ドラマや音楽から多くの事を感じ取れ、それを言葉で表現できる、そしてそこに自己を内在させられるのかもしれない。そして生きられている。

ブログを書くようになって、たまたま見つけた学生時代の教科書。そして、今、文章を書いているから、昔「教科書」と向き合ったからこそ、今この瞬間、「教科書」の豊かさに重要さに気づいた。なんだかとても逆説的な体験をした気がする。

こうやって、色んなエンタメを楽しめているのもあの頃の「教科書」があったからなのかもしれない。

「学校で習う勉強なんて役に立たない」

なんだか今はそんな定型文をしっかりと否定できる気がする。その真意に気づけているのは、あの頃の勉強が役に立っている証拠そのものだから。

 

あれ。ところで整理は??

まぁいっか。

 

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