「好き」のいろいろ。「言葉」のいろいろ。2021.10.11
書きたいネタはあるのに、なかなか書けない。そう言って何も書かないのもあれなので、今日も今日とて思いつきでつらつらと。
先日、私が応援している女優、上白石萌音の初エッセイ『いろいろ』が発売された。
芸能人のエッセイなど買ったことがなかった私だが、これを機に芸能人エッセイデビューをした。
本の質感にもこだわっている本書。
紙の質感がとても良く、思わず本をなでなで。それで満足してしまい、そのまま放置している。
え??
それはさすがに冗談だ。と言いたいが、放置しているのは事実だ。
「好きな芸能人のエッセイなら、早く読みたくて仕方ないんじゃないのか?」と大多数からそう言われると思う。
確かにそういう思いもあるが、「しっかり読みたいから」と放置している節もある。
だが、放置している一番の理由は、また別にあるのだ。
私が誰かのファンになるポイントは大抵が、外見ではなく内面だ。
もちろん外見で好きになる事もあるが、何年もずっと好きが続くのには、内面の部分で”好き”があるのが絶対条件な気がする。
そして、外見であろうが内面だろうが、”好き”にはグラデーションがあるだろう。(私はよく”ニュアンス”とも言うが)
特に内面においては、主に二つの評価軸が存在し、それは「共感」と「憧れ」だと思う。
「共感」を縦軸に、「憧れ」を横軸にすると、我々がいつか学んだ一次関数のグラフのようになり、そのどこに点を書くか。それが”好き”のグラデーションだろう。
まぁそんな事で、「同じ内面が好き」でも、人によれば「共感」が強いかもしれないし、人によれば「憧れ」が強いかもしれないという事だ。
ちょっと脱線してしまったので、最初に話を戻すが、「何故、私が推しの著書をすぐ読めないのか?」
それは「共感と憧れのバランスがとれなくなって、自分自身も壊れそうになることがあるから」だ。
自分はまぁ”いろいろ”あって、すこぶる自己肯定感が低い。
それ故に、推しに対して感じる”好き”は主に「同じ気持ちでいる」という”共感”の面が高い。
「私と同じように思っている人がいるんだ」「私の考えはこれでいいんだ」という点で、自己肯定感も保たれるからだ。
そして、それと共に生まれるのは「この人は、自分と同じ考えだけど、こんなにキラキラしているんだ」「自分もこんな人になりたい」という”憧れ”でもある。
だが、その「憧れ」は同時に「同じなようで私とは違う。私にはなれない。あんなキラキラしてていいなぁ」という”羨望”や”妬み”といった気持ちとしても噴出するのだ。
それは、同時に他者の考えを受ける事で、自分自身の存在価値が揺るがされる事でもある。
そのため、自己肯定感が上がるのだが下がるというカオスな状況にハマってしまうのだ。
まぁここまで読んで、自分でも「めんどくせえやつ」と思ったが、私の推しに対する感情はそういったカオスの渦の中にあり、他者の考え(特にエッセイのようなもの)に触れるのは、適度な気合と覚悟がいるのだ。
だからこそ、読めない。
読むと自分が惨めになる。自分が壊れそうになる。それが怖い。
それに、妬みとかいう感情を推しに向けてしまいそうになってしまうから嫌なのだ。
「憧れは理解から最も遠い感情だよ」
小学生の頃、ハマっていた少年漫画『BLEACH』
その登場人物である”藍染惣右介”という人物は作中で、主人公の最凶の敵として立ちはだかり、ただ単に強いだけでなく多くの名言を残したことからもカリスマ的な人気を現在でも誇っている。
そんな藍染の名言の一つがふと思い出された。
憧れは、羨望であり妬みでもある。そしてそれは、「自分とあなたは違うんだ」という事を明確にすることでもある。それはある種、相手からしても同じだ。
だからこそ「憧れ」と「理解」の距離は、遠い。
私は読み手だけでなく、今この瞬間も、文字を紡いでるように書き手でもある。
それ故、書き手としてもそれを実感する事がある。
このブログ、有難いことに”いろいろ”な方に、褒めてもらう。
「私が思ってくれていたことを代弁してくれた」
「とても共感する考えばかりだった」
「みぞさんの凄さを感じた」
「みぞさんの言葉に救われた」
そんな恐れ多い言葉を貰ってきた。
毎回とてもとても嬉しいのだが、その言葉からは「尊敬」に近いものを感じ、どちらかというと「憧れ」のような態度からくる言葉だ。失礼でおこがましい事かもしれないが「共感」という視点では、「誰も私を本当は分かってくれてないんだ」という気持ちになって、真っすぐに言葉を受け取れない事もある。
という事で「尊敬」や「憧れ」という形で私に接してくれる人に違和感を感じてしまうことがあるのも事実だ。
まぁそれは前述した自己肯定感の低さと、もう一つ、自分の言葉が評価される一方で、社会においては落ちこぼれだという認識が私の中で支配的なせいだと思うのだが、それには他の要因もあると思う。
言葉にすること、それは自分の考えに形をもたせ確かなものとして整理でき、相手に伝える事ができるという点で、とても有用だ。
だが、言葉にした瞬間に、それは自分自身の中にあるそれそのものとは違うものになってしまう。
無数にある言葉からそれに合うような近いものを選んで作る。
いわば”加工食品”みたいなものだ。
それ故、他者から見れば、その言葉は、文章は、その人そのものに見えても、”私”からすれば、どこか足りない”私”に似せた模造品なのだ。
それが、私が書き手として感じる「憧れ」や「尊敬」に対する違和感であり、「理解されていない」と思ってしまう原因かもしれない。
だから、その文章に対する評価に疑念を持つのはある意味、自然な事なのだ。
だが、一方で発話が伴うコミュニケーションの中では、模造品が作られることはない。
確かに、言葉を用いている事に変わりはないが、その一つ一つがその空間において自分から意図せず出る言葉だ。
それがどれだけ不格好で、意味がめちゃくちゃでも、書かれる言葉よりも新鮮でダイレクトな言葉であることには間違いない。
そして、ブログや本などの文章が、一方的に語りかけるのに対し、会話は互いに言葉のキャッチボールができる。そういう「投げればそれに対して投げ返される」という状況は、「憧れ」のような大きな上下関係を生まず、対等な発話者としての言葉が交わせるのだ。
前回の記事で、SNSでの繋がりに助けられたという事を書いたが、同時に”face to face"の関係を上乗せる必要があるとも述べた。
今回の話はまさにそうだ。
加工ができる書き言葉の世界では、一方的な関係に留まったり、不完全な(incompleteではなくpartialに近い)自分でしか対話できない。
自然な話し言葉の世界のやり取りを完全に再現することは出来ないのだ。
ということで、最近の例に倣って、何も考えずに書いたばっかりにめちゃくちゃになったが、つべこべ言わず、早く推しの著書を読もうと思う。
それが自分にとって恐怖を伴う事であったとしても、カオスの渦の中で考え続けなければならない。そして、羨望や妬みも全部受け入れて、好きな人の考えに向き合わなければならない。
そこから吸収できることも必ずある。そして、それを吸収できる人間でなければならない。
そして、つべこべ言わず、褒め言葉は貰っておけ!!!
この間、あるフォロワーさんに言われた言葉だが、褒め言葉それ自体を否定する事はそう思ってくれている人に失礼極まりない。
それに藍染の言葉は、一つ間違っていると思う。
確かに「憧れ」は「理解」とは相容れないかもしれない。
だが、「憧れ」を持てば、「理解したい」と思う。だから、「自分とは違う」と分かれば、その距離はどんどん近づくはずだ。
それに「共感」することだってできる。
そうやって互いに歩み寄れるように自分も褒め言葉を真っすぐ受け止められるようにならなければと思った。
「好き」には”いろいろ”あるけれど、良い事には違いないんだから。
ということで、これからも遠慮せず褒めて下さい。
「理解されてねえな」とか言ってるのは無視です。記憶から消してください(じゃあ書くな)
という事で、徐々に『いろいろ』読もう!!
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