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「エモい」って何?? 2022.5.28

私は「エモい」という言葉があまり好きではない。

「エモい」は若者言葉の一つからいつしか市民権を得て、この世界の共通言語になった。"emotional"に由来し「感情が動く」「感情が高まる」状態を表す言葉であるが、その様相は、今やそれだけではない気がする。私がこの言葉を好きになれない理由もそこにある。

使い捨てられる言葉たち

スマートフォンが肌身離せなくなった世界で、言葉は大きな力を得た。紙とペンがあって存在できた過去の言葉とは違い、多くの言葉が高速で縦横無尽に世界を駆け巡り、言葉はより広くより大きく人々の思いや考えを表現し共有できるようになった。

フォロワーの数、再生回数、RT数、いいねの数

だが、その反面、効率良く多くの情報を摂取するために、人々は分かりやすく、簡単に娯楽にアクセスできることを求めるようになった。その指標のほとんどが”数値”であったが、「エモい」を始めとする言葉もその役割を担う事になった。

何故、私が「エモい」が好きになれないのか。

それは、「エモい」が何かを表すために作られた言葉であったはずなのに、いつの間にかその役割を剥奪され、娯楽に簡単にアクセスするための指標として酷使されているように感じるから。

もっと言えば「エモい」は”他者と感情を共有する(させる)ための広告塔に成り下がってしまっているからだ。

最初は言葉に出来ない気持ちを誰かと共有するために生まれた表現だったはずなのに、いつの間にか「エモい」という言葉が、付ければエモくなる、まるで”アクセサリー”のような存在になってしまった。いつしか目的と手段は逆転して、共有、いや拡散を狙って「エモい」を恣意的に作り出す流れまである。私はこれにとてつもない悲しみと虚しさを覚えるのだ。

中身がすっからかんになってしまった「エモい」という言葉。だが、厳密に言えば「エモい」という言葉自体が嫌いという訳ではない。きっとこの子も被害者なのだ。だからここからは少し、この子はどんな子なのか。自分なりに考えてみる。

「エモい」って何??

「エモい」が一般的にどういう意味かは前述した通りだ。感情の高まり、感情が動く、そんな瞬間の心の状態を表す表現。意味は通るし、それを簡潔に表すことのできる点っでは、とてもいい表現だと思う。

だが、その反面、対象があまりに広い事、つまり、その心の動きや高まりは本当に皆が一律に感じている「エモい」を全部表現できているのかという点が気になる。そこをガン無視した結果が、「エモい」の酷使に繋がっているのかもしれない。

私の「エモい」に対するイメージも、主に一般的な定義にもある「感情の高まり」なのだが、その中でも「懐かしさ」という要素が特に強く想起される。

www.nhk.jp

最近、『言葉にできない、そんな夜。』という番組をたまたま観た。タイトルにあるように、言葉にできない感情を”言葉のプロ”である作詞家や小説家がスタジオでそれぞれ表現し合うという素敵な番組。その中で、"懐かしい曲を聴いたあの感じ"をどう表すかという回があった。そこで女優の橋本愛はその感情をこう表現していた。

「心臓にレモンを絞った感じ」

「懐かしさ」

先ほど私が挙げた「懐かしさ」は皆が持つ記憶の中、思い出が蘇ってくるような、デジャヴを感じるような感覚の事だ。うまく言い表すのが難しいが、具体的に言えば、「昔流行っていた曲を久々に聴いた時の感情」が一番、私の中でそれに近い。つまりこの橋本愛の表現まさにそれでもある。ちなみに私ならこう表現する。

「心の中にずっとあった宝箱がふと開いてキラキラが広がる感じ」

私の中で心が動く感じは「キラキラ」が表現として一番合点がいく。ここで思うのは、橋本愛にしろ私にしろ結局は五感に頼った表現が一番腑に落ちるという事だ。

実際に、心臓にレモンは絞れないし、それで胸がきゅっと痛くなることもないし、心の中には宝箱なんてないし、ましてやキラキラしたものなんてない、視覚で捉える事なんてできない。だが、私には「エモい」と表現されるよりずっとその心の動き、高まりに追いつけ、満たされる感じがするのだ。

 

mizomone7118.hatenablog.jp

(「懐かしい」あの感じって、その時はなんともないのに後になって”思い出”として鮮明になる。撮った時はどう映るか分からない”フィルムカメラ”みたい)

 

「エモい」という言葉の裏には、それぞれの経験、五感に基づいた、言葉には表れないけど確かにある”雰囲気”が存在する。

夏の夜のあの感じ、冬の夜のあの感じ、

日が長くなってまだ明るい夏の夕暮れ。冷え切った空気に陽射しが差す冬の朝。

そんな景色には”匂い” ”温度” 空気感”がある。言葉には表れない。そんな”雰囲気”

音楽を聴いて心が動く。その時も、外で浴びる風の”匂い”を浴びたり、”空気感”を体で感じるのと同じような体験だと思うのだ。

私の感じる「キラキラ」も、どこか色褪せて朧気でくぐもった空気感の中なのに色鮮やかに輝いているような感じで、私にとって「エモい」はそういうものなのだ。

だから、「エモい」は皆違うはずで、それを一律に言えるはずがない。ニュアンスは共有できたとしても、100%自分の「エモい」が理解できるのはその人自身だけなのだ。

まぁ要するに、言葉だけではとても存在できない、個人の五感であり心の動きがあって言葉は意味を持つという事。「エモい」の一言ではとても全ての感情を表すことなどできないのだ。

言葉にできないからこそいい。

「エモい」という言葉が意味を与えられて生まれたのにも関わらず、意味を奪われ客寄せ道具になってしまったのは、前述の通りSNSの発達で、言葉が影響力を持ちすぎたからだ。

コミュニケーションの中心が”話す”から”書く(打ち込む)”になり、言語化する事に重きが置かれるようになった。あいまいな表現をすればたちまち誤解、炎上、ブロック。端的で見た目が良い言葉が注目を浴び、言葉は都合よく使用され消費されていく。

だが実際には、心で感じた感情や、頭の中にある思考と言葉の間には大きな溝があり、言葉はなんでも表せる万能なものではない。それを皆忘れてしまっている。

私はそこにこそ、言葉の面白さ、本当に「エモい」と表現すべきもの、心の動きがあるのだと思う。

心が動いた瞬間、「言葉にしたい!でも出来ない!!」そんなもどかしさ、理屈では説明できない正体不明の未知なる感情が私を襲う。でもそのもどかしさが私はすこぶる好きだ。「あー!」「えー!」とか語彙力を失っている状態がそれだ。

そして、言葉では表現できないと分かってても、それを何としてでも表現しようと、自分の中に転がっている言葉を寄せ集めて表現しようとするその情熱にも、心が魅かれる。

自分が音楽やドラマを鑑賞し、文章を書くのもそういう感覚に絆されての事だ。その言葉の足りなさを知っているからこそ、言葉や感情に対する欲望が増すものだ。

今は何もかもが鮮明に私たちの前に広がる。ライブ会場にいるかのようにイヤホンからは音楽が流れ込み、液晶からは現実とは変わらない鮮明な映像が眼前に飛び込む。そしていつでもそれらに触れられる。そういう意味で、ブラウン管の中の少しざらついた映像が「どこか違う世界」に思え、その先を欲望し思いを巡らせていた時代は、今より言葉を大事に、想像する事を大事にしていたのかもしれない。

(”あの歌”という表現、ただの指示語とは違う雰囲気を感じるから、好きだ。「エモい」と言い切るのではなく、わざと表現しない余白を残す侘び寂びを持っていたい)

 

情報が溢れ、効率や見栄えが暗に心を支配する現代だからこそ、「エモい」の先にある感情や心のときめきをじっくりと心の中で温めていたい。

何もかも言語化する必要はない。

「エモい」という言葉で、自分の感情を相対化せず、ふわふわした感情をそのまま言葉にせず独占していていて欲しい。

そんな風に思う。

 

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