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『音楽さんへ』に込められたはつねちゃんの「想い」YOASOBI『ラブレター』YOASOBIの持つ”包容力” 2021.9.19

先日、YOASOBIの新曲、『ラブレター』のMVが公開された。

公開から1週間で465万回もの再生回数を記録しており、さすがはYOASOBIという感じである。

今回の楽曲は、「ありがとう」をテーマとした手紙を募集し、それを楽曲にするというラジオの企画で生まれたもの。

そこで選ばれた手紙が、当時小学6年生の”はつねちゃん”の『音楽さんへ』だった。

この手紙、『ラブレター』のTrailer動画で初めて読んだ(聴いた)時、心がギュッとなった。

まずは皆さんにも、読んでもらいたい。

youtu.be

『音楽さんへ』

音楽さんへ

はじめまして はつねです。

急なお手紙すみません。

私はいつも音楽というものにすくわれて

支えられたりして

生きていたので

いいきかいだと思い

この手紙をかかせてもらいました。

 

私と音楽さんは

会ったことがないし

音楽さんからしたら

ただの人だと思うんですけど

まとめると

「ありがとう」を伝えにきました。

 

私は宿題をしているときや

おどっているとき、幸せなとき

ばくはつしそうなとき

ばくはつしたときなどに

音楽を聞きます。

 

音楽を聞くと

ふつうの生活に一つ花が咲くというか

みたされるというかおちつくというか

逆にあばれたりとかすごく心が動きます。

 

私は自分でものごとを決められなくて

自分が見えないんです。

でも音楽は自分の好きな曲とか

たっくさんあって

その中から選ぶのがとても楽しいです!

 

音楽は一人で聞くので、

本当に自分が好きな曲を聞けます!

ありがとうございます!

 

たくさんの音楽に対することを

言ってきたんですけど、伝わりましたか?

音楽というものがあるおかげで

私は何度も心が動きました。

 

明るい曲を聞いてかなしくなったり

くらい曲を聞いて泣いたり、

おもい曲を聞いて心が小さくなったりなど

音楽ってすげーパワーもってるなって思います!

ありがとうございます!

 

音楽がなかったら

今どうなっているのかなぁ~

と思うと大変です。

もっともっと自分を見つけて

音楽にふれていきたいと思っています。

 

でももしかしたらこれが

げんかいかもしれません!

 

音楽大好きです!

 

人間がほろびるまでつづきますように!

本当にありがとうございます!

 

音楽聞いてきます!

 

はつねより

YOASOBI「ラブレター」Trailer Movie - YouTube より引用

 

「音楽さん」という視点

私は、『ラブレター』を聴いた後に、Trailer動画に気づき、このはつねちゃんのお手紙を読んだのだが、読む前と読んだ後では曲の聞こえ方が、全く違った。

最初に聞いた時も素敵な曲だと思ったが、手紙を読んだ後は、より心から心に思いが来るというか思いが溢れてくるような不思議な感覚になったのだ。

まず、この手紙。私には書けないと切実に感じた。

”私には書けない”というのは、はつねちゃんと同じ小学6年生の自分にも、そして今現在の自分にも書けないという意味だ。

 

「ありがとう」をテーマにした手紙。

普通なら誰か、具体的な人物を思い浮かべ、その思いを綴るだろう。

しかし、彼女は”音楽”を選んだ。

私が、小学6年生の時はとても、音楽を擬人化する...いや音楽に”さん”を付けるなどという考えには絶対に至らなかった。そして今は、容易にそのような想像はできても、「音楽さんへ」なんて、恥ずかしくて口にしなかっただろう。

だからまさにはつねちゃんにしか書けない手紙なのだと思う。

 

そんな”音楽さん”に対して、「会ったことがないし」と表現している点も、とても面白い。私の頭なんかでは、「いつも聴いてるんだから会ってるでしょ?」と思うのだが、はつねちゃんからすれば、聴いているのは一方的な事で、会って話すのはこれが初めてということなのだろう。

私なら、「音楽を聞くことで音楽と対話している」なんて、抽象的な事を考えてしまうが、この視点は、”音楽さん”と擬人化しているからこそのもの。

私が「え?」と違和感を持って考えてしまうところに何だか面白さ、趣がある。

 

少し、今考えて見たが、好きな芸能人と初めて対面するときの感覚に近いのかもしれない。自分からすれば毎日見ているから慣れ親しんでいる。だから会っている気がするが、実際に会うと「はじめまして」と言う。そういう感覚なんだろうか?

そう考えれば「音楽さんからしたら ただの人だと思うんですけど」と書いている点

も非常に納得がいく。ファンは推しに対して「私なんて〇〇さんからしたらただのファンだと思うんですけど...」という気持ちでいるからだ...(笑)

その対象が「音楽さん」だから、「ただの人」と言うと、「人類の分際ですけど」的なSFっぽい意味にも聞こえまた面白い。

 

ラブレター

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  • YOASOBI
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

小学6年生だからこそ書ける等身大の文章

この手紙が、とても素敵に聞こえるのは、これが「作品」ではなく、小学6年生の女の子が書いた何の変哲もない「手紙」だからであろう。

先ほども少し触れたが、大人は何かと難しい言葉や、概念的な言葉を使いがちだ。それには意味が要約され容易に使用できるという意味や、カッコよく見せたいなど色々な理由があるだろう。

だが、幼い頃には、そんな言葉をまず知らないし、とにかく自分の知っている言葉で表そうとする。

それが結果として、大人には真似できない「純粋」な思いを表す高度な表現になっている。

 

「音楽をどんな時に聴くか?」と言う部分では、「おどっているとき」「ばくはつしそうなとき」と書いている。具体的な場合と、抽象的な場合が並列に並んでいるところ、大人が書くものなら「並列でならべちゃダメだろ」となるが、小学6年生だと、「とにかく色んな時に聞くんだろうなぁ」と、その文章の凹凸に逆に思いを馳せられる。

その後の部分でも、「というか」が連発されているのだが、普通なら「まとまりのないなぁ」となるところ、彼女自身のそのままの思いを聴いているという説得力に繋がる。

 

だから、「純粋な思い」を表現するという点において、子供の自然な言葉以上に優れた表現はないのかもしれない。

大人がどれほど高度な言葉選びを、表現技法をしようとも、子供の口から何気なしに飛び出す言葉には、それそのものが「ナチュラル」を帯びているから無敵なのだ。

 

また、これは私の肌感だが、小学6年生の子が書いたという事で、手紙の多くは平仮名で書かれている。

大人の目線では、漢字の方が読みやすいし、良いのではないかという見方になってしまうが、今回久しぶりに、平仮名の文章に触れてみると、とにかく”柔らかい”という印象があった。書き手が小学生という情報があるからだろうが、何となく柔らかい印象をもたらしてくれる。

”平仮名”とここまで表記してきたが、”ひらがな”の方が柔らかく感じるのではないか?

 

そして、「読むのに時間がかかる」

これはデメリットのようにも感じられるが、メリットの面もある。

以前、ある新聞の記事で、”ひらがな”に関する事が書かれていた。

そこでは、短歌や歌集が例に挙げられており、それらの表記にひらがなが多く用いられている理由について「感じが多くなると、無意識に読みが早くなり、意味だけを追うようになってしまい、その言葉の厚みやイメージが無視されてしまう。だから、読みを遅くするための苦肉の策としてひらがなを用いている」と記述されていた。

人間、表記を容易にすればするほど、その一文字、一単語に対して、流し読みで対応してしまう。だが、その一語一語には余白があり背景がある。それを感じさせるためにひらがなを使うという訳だ。確かに、平仮名であれば、どこで一単語なのかを確認しながら立ち止まって読まざるを得ない。

 

そして、その評論にはこうもあった「文学は意味を遠ざける傾向がある」

この手紙が、作品として読めてしまうのは、ひらがなをただの”知識の不足”ではなく”言葉への滞在時間を延ばしている表現技法”と私が捉えているからだろう。

もちろん、当の本人にとっては”知識の不足”ゆえの表現なのだろうが、”作品”としての視座を得る事で、ひらがなが力を持って私たちに作用している気がする。

手紙に接続語が少なく、どこかぶつ切りのように言葉が羅列されていくのも、文章的には”欠如”なのかもしれないが、それがどこか詞的に感じられたり、「思いがそのまま言葉になっている」と言う感じがして、良い方向に作用している。

 

という訳で、今回この手紙が曲という作品の一部になることで、私たち大人が、劣っている、欠如している、稚拙だとする表現も、高度な表現として感じられてくる訳だ。

とても面白いし、ワクワクする。

 

はつねちゃんの「ありがとう」

はつねちゃんがどのような女の子かは分からないが、小学6年生なりの、いやそれ以上の悩みや苦しみを経験してきたのではないかと勝手にだが、想像させられた。

自分でどうにもできない、どうにもならない。

自分のありのままでいられない。

そんな気持ちがあったのだと思う。

「ばくはつしそう」といった少々強めの表現が垣間見える点でも、

自分の気持ちを押し殺しているような印象を受ける。

そんな彼女を助けたのが、「音楽さん」だった。

 

手紙の中で、彼女は「音楽のおかげで心が動いた」と何回も口にしている。

彼女は「自分で自分が見えない」「自分で決められない」と言う。

でもそんな彼女が、音楽の中では「好きな曲がたっくさんあって、選ぶのが楽しい」

と口にしている。

”自分”のことは分からないし、何も決められないけど、”自分”の好きな曲は分かるし、選べる(決められる)、しかもそれが楽しい。

そして、「ばくはつしそうなとき」に「あばれたり」できる。

”自分”の気持ちに、我慢せず正直でいられる。

そういう意味で彼女の言う「心が動く」は、”感動”とかそんな平凡な事じゃなく、「色々な自分を知る事ができる」、「ありのままの姿でいられる」ということなのかもしれない。

 

「音楽は一人で聞くので、本当に自分が好きな曲を聞けます!」

この文言を聞くと、やっぱり彼女は、普段から自分の本当の「好き」を隠して、周りの「好き」に合わせているのかもしれない。そうやって自分を抑えているのかもしれない。そんな風に感じられる。

 

音楽の持つ力に関して、明るい曲を聞いて悲しくなったり、暗い曲を聞いて泣いたり、重い曲を聞いて心が小さくなったりする事をあげている点、最初は「相当ネガティブなんだな」と思っていたが、どれも「悪いもの」と抑え込んでしまう感情と真正面から向き合う事ができるという意味なのかもしれない。

はつねちゃんにとって、「音楽さん」は居場所であり、友達であり、自分自身を写す鏡みたいな存在なのだと感じた。

「音楽さん」すごい。

 

www.yoasobi-music.jp

 

『音楽さんへ』を『ラブレター』として再表現するYOASOBIのすごさ

少し、感情移入しすぎてしまったが、そんな彼女の『音楽さんへ』を見事、『ラブレター』という音楽にしたYOASOBIについて、そして『ラブレター』についても、少しお話しようと思う。

 

YOASOBIは「小説を音楽にする」というコンセプトで活動をしている。

だが今回は、”手紙”だ。

小説は、フィクションであり、作者はいても、その者自身が100%反映される訳ではない。その点、小説→音楽の流れは、比較的スムーズというか、そのものの姿、”作品”という枠組みは変化しない。

だが、”手紙”は、そもそも作品ではない。そして非常に主観性を持った、この作品においては、はつねちゃんそのものだ。

それを”作品”として再構成するというのは、YOASOBIらしいが、らしくないような不思議な気持ちになる。私としてはこの点で既にワクワクしてしまう。

 

というのも、YOASOBIという存在自体、『夜に駆ける』でブレイクしたその時には、非常に”無機的な”存在であった。それ故、具体的な存在が歌っているという感覚がなく、ボーカルikuraの声はどこかその物語の”ストーリテラー”のようで、それが物語の非現実性や没入感を生み出していた。それがYOASOBIの持ち味であり代表的な魅力の一つだと思う。

 

だが、今回は、それが別の作用を起こしていたのだ。

私は、少し前から、YOASOBIのラジオを聴いている。そこでは、YOASOBIの二人の、個性豊かなやり取りに触れられる。そう、人間としてのYOASOBIが存在するからこそ、音楽が無機質にならない。

ラジオを聴く前は何となく、距離が遠く感じたのだが、二人の人間性を知れば知るほど、曲に愛着もわいた。

そういった、当初の「謎の音楽集団」という側面から、親しみやすさを持ってもらいたいという彼らの活動があったからこそ、”無機的”な存在だったストーリーテラーという存在が、はつねちゃんの代弁者としての役割を果たし、はつねちゃんの思いが”手紙”と同様に私たちのもとに届いたのだ。

まるではつねちゃんが歌っているかのように。

近頃は、顔を出さないシンガーが多いが、最初は顔を見せず、世界観を構築し、後々、姿を現すことで愛着を加えるYOASOBIという存在は、やはりすごい。

物語性と主観性を併存させるYOASOBIだからこそ、『ラブレター』を生み出せたのだと思う。

 

「音楽さん」は無限に続いていく...

youtu.be

さて、ここまで何故か気づいたら小学6年生の手紙のレビューをしてしまったが、『ラブレター』は本当に素敵な曲だ。

「YOASOBIは同じような曲ばっか」

という声もあるが、一つとして同じ曲はないし、『音楽さんへ』を読んでから聴くと、とてもそんな風に思えない。どれも一人一人にとってかけがえのない一曲だ。

MVの映像も、繊細に書き込まれていて夢のようなファンタジックな世界が「音楽さん」の無限に広がっていく世界観を見事に表している。

MVの途中で髪の毛の色が皆カラフルな女の子たちが4人出てくるが、個人的にこの子たちが「音楽さん」なのかとも感じた。

大阪桐蔭高校吹奏楽部の織りなす重層感ある音たちも加わり、はつねちゃんの思いをそれそのもの、いやそれ以上に引き出している。

ikuraとayaseに関しては、もう言うことがない、いつも最強だ。

 

 

はつねちゃんの手紙で気になるところが一つあった。それは最後の辺り。

「でももしかしたらこれがげんかいかもしれません」

どういう意味か分からないけど、『音楽さん』の力があっても、もう無理かもということかもしれない。

だが、そうだとしても、その限界は、YOASOBIが壊してくれたと思う。

彼女の「音楽さん」への思いは、また新しい「音楽さん」になった。彼女自身が「音楽さん」になったのだ。

そして、その思いは、また誰かを癒す。誰かの「心を動かす」

「音楽さん」は無限に続いていくからだ。

 

さて、長々と書いてしまったが、とにかくはつねさんに感謝だ。こんな素敵なお手紙を書いてくれて。

そして、改めてYOASOBIの魅力に触れることができた。

「物語を音楽に」というコンセプトの先には「思いを音楽に」があると思う。

今回の”手紙”だってそうだった。

思いを音楽と言う形にするというのは一見、初歩的な考え方な気がするが、他者の思いをくみ取り、それを曲にするというアーティストはあまりいない。

誰かの思いに寄り添うことはそう簡単なことじゃないからだ。

だが、はつねちゃんの思いに真正面から向き合いそれを表現したYOASOBI

令和になり、取っつきにくそうな音楽ユニットが出てきたと敬遠している人に伝えたい。

「YOASOBIほど優しさに溢れた包容力のある音楽ユニットないよ...」と。

「YOASOBIほど音楽に真剣に向き合っている人たちいないよ...」と。

ストーリテラーとしての匿名性を持ちながら、人々の思いを受け止め寄り添うことのできるYOASOBIの今後の活躍に期待したい。

最後は、『ラブレター』のサビの歌詞でお別れしましょう。

いつまでも「音楽」が鳴り続きますように。

皆が自分らしく生きられますように。

 

笑ってたいよ どんな時も

でも辛い暗い痛い日もある

けどね

あなたに触れるだけで気付けば

この世界が色鮮やかになる

花が咲くように

笑って泣いてどんな時だって

選んでいいんだ いつでも自由に

今日はどんなあなたに出会えるかな

この世界が終わるその日まで

鳴り続けていて ah-ah

 

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