みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

物語の一部になれる「舞台」という空間 2022.4.30

その日、私は初めて”舞台”というエンターテイメントに触れた。

新年度も始まり、新生活に期待と不安を持ちながら過ごす日々が続く。そんな人々の姿をよそに、私も再び息を整え走り始めた。そんな最中、私は推しの舞台を見に行くことができた。

「ここまでよく頑張ったね」

私にとっては、この舞台観劇が推しからのプレゼントのように感じられた。

私が、推しの舞台を見に行こうと思い立ったのは、今から3年前。

音楽やTVが好きだった私だが、「舞台」に対しては”高級” ”難しそう”といったなんだか漠然とした敷居の高い取っつきにくさから、距離を感じていた。だが、推しがとてつもない情熱と愛を持っている事から、私もその重い腰をあげることにしたのだった。

だが、そんな私の舞台デビューはコロナによって幻になってしまった。

半年前。推しの舞台を見に行けることになった。まさにリベンジマッチ。

「ついに!ついに!」と楽しみにしていた。チケットも確保して。「今度こそ」と意気込んでいたが、いとも簡単にまたしてもコロナがその機会を奪っていった。

そして、今回。”三度目の正直”

文字通りそんな状況で、舞台デビューを迎える私を受け入れてくれたのは、不朽の名作であるジブリアニメ『千と千尋の神隠し』の舞台化。これ以上ない舞台デビューになり、二度もチャンスを逃したのはこのためだったのかとまで思った。

www.tohostage.com

その日は、仕事が終わり仕事場から走った。もう学生じゃないのだな...と思いながら、駅まで走る。

職場から劇場まで、時間的に開演に間に合わない事は分かっていたが、出来るだけ早く着きたいと急いだ。

そして劇場周辺に着いたのは開演時間を5分ほど過ぎた頃。劇場内でせっせと汗を拭いたり、身なりを整えるのは周りの人の迷惑になると感じ、少し息と汗を整えて会場入った。映画やライブでもほとんど遅れて入ったことがなかったので、舞台デビューの緊張とは別に緊張感もあった。

ホテルのような会場の高貴さに一気に体が緊張する、良い緊張感にまだ激しかった鼓動も自然とゆっくりになる。何人もの案内人のエスコートリレーが、さらに心地よい落ち着きをくれた。

通路と階段を通り、いよいよドアの前。

ほとんど遅れて入った事がないと言ったが、映画館で一度だけ遅れて入った事はあった。だが、その時と違い、閉じられたドアの奥から、既に生き生きとした音(?)が響いてきていた。

「なんだ?これ。」

その時点で”舞台”の魅力が分かった気がした。音なんだけど、それ以上のものをドアの向こうから感じた。あえて言語化するとするならば”雰囲気”と言おうか。

ドアを開けて、腰をかがめて席を目指す。

ようやく席にたどり着いてからは、ずっとふわふわした感じだった。どう形容すべきなのだろうか。

twitter.com

舞台は間に、休憩がある。そこで皆、トイレに行く。

トイレに行列が出来る感じは、さながら野球観戦時の相手チーム攻撃時のようだった。少し変かもしれないが、音楽ライブをよく知っている私としてはエンタメの中に”束の間”があるという点で、ライブより野球観戦の空気感に近かった。

だけど、そこはとてもしたたかな劇場で、野球場とは全く違う。

でも、だからといってやっぱりライブとも違った。

ライブは目の前にいるアーティストが奏でる音楽に誘われ、シャボン玉の泡の中に吸い込まれるようにその世界に浸るイメージだった。

その音楽の中で、聞き手はアーティストから奏でられる音楽という世界の中で、その世界を受容し、その世界をアーティストと共に楽しむ。

舞台も生で体感する以上、同じようなものだと思っていたが、全く違った。

ライブ以上に世界への没入度が高い。音楽と違い、小道具や舞台セットが視覚的に風景を提示し、目の前の役者は、役者ではなくその登場人物。

そういった「視覚によって物語が規定される」点では、ドラマに近いが、ただただ「生のドラマ」ではない。

 少し表現が変かもしれないが、舞台の会場の中は、もう物語の中なのだ。だから、「ライブハウスにライブを見に行っている」と同じように、「劇場に舞台を見に行っている」にはならない。

劇場に入り、幕が開いた瞬間に、私たちは、物語の台本に書かれていない、隠されたもう一人のキャスト、「傍観者」の役割を与えられる。

それは、私がドアの前で感じた”雰囲気”を演じているとも言い換えることが出来る。

よく、舞台中のマナーが取り沙汰されるが、舞台に行くとよくそれが分かる。スマホの着信音が鳴った時点で、もう傍観者ではいられない。

その人だけでなく会場の皆を「舞台を見に来た人」に戻し、出演者も「演じている人」に戻ってしまう。だから、そんなマナー違反は””舞台””というエンタメが成り立たなくなるほどの大罪なのだ。

仕方ないとはいえ、途中から席に座った私はとても申し訳ない気持ちになった。一瞬、その世界にひびを入れてしまったのだから。

「音楽→ライブ」であれば、「ドラマ/舞台」

舞台は日常を、非日常に変える異世界へのゲートだ。”舞台を観劇している”というのは、その劇場を出た後に認識できること、その場、その瞬間は「物語の一部になる」いや”組み込まれている”という行為として捉えられるのだろう。

だがあえて表現するなら、「劇場に舞台を作りに行く」という行為になるのだろう。

会場の全てが物語の演出になる、私たちも出演している、「高い」と感じるチケット代だが、それは出演料でもあるのだ。推しと同じ舞台に立てると考えれば安すぎるではないだろうか。

twitter.com

会場で購入したオペラグラスの倍率の高さに気づかず、暗闇をズームで見て「見えないじゃん!!」と言っていた私が、位置を合わせて推しを見れるようになり、そのスペックに感動するなどしていたら、あっという間にラストシーン。そして終幕。

ライブであれば、この後アンコールがある。

舞台では、カーテンコールというものがあるらしい。ここでも驚かされた。

カーテンコールで、出演者と私たち観客は物語から解放され、演者と観客に戻る。というより、”成る”の方が近いかもしれない。会場に入ってからその姿で対面する事はなかったのだから。

出演者が続々と登場するが、とても楽しそうなのだ。推しもキラキラしていた。

そして拍手の度に、出てきてくれる。はしゃいでじゃれ合っている。

とても楽しそう。

舞台の魅力はなんなんだろうかと分からずにいたが、この瞬間に「皆で作品を作り上げた」という”達成感”に近いものがその正体なのだと確信した。舞台上の彼女たちの喜びも”達成感”という言葉が一番似合う。

カーテンコールはまるで「お疲れ様~~」と打ち上げをしているようだった。

今回、私は初めて舞台を見た。そしてまた一つ、好きなものが増えた。

「舞台が好きだ」と語っていた推しの気持ちも分かった。

それは、””舞台””が芸能人とファンという立場をなくして、同じエンタメを愛する者、同じ世界を作るものとして心を分かち合えるエンタメだから。

さらに推しの事も好きになれた。良い桜の季節になった。

【関連記事】

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp


 

Twitter

twitter.com