「部屋」という心の自由 2021.10.24
皆さんは自分の部屋を持っているだろうか?
突然だが、私の家には、私の部屋があるようでない。一応あるのはあるのだが、ほぼ家族に侵食されてしまっている。まぁいわゆる物置きのような形になっている。
住宅には様々な種類がある。
マンション、アパート、一軒家。
どんな家に住んでいても、自らの部屋が家族との空間としっかりと棲み分けされているというのは、とても重要な事だ。
実際、私がヤングケアラーとしてここまで悩み拗らせ、ある意味「八方塞がり」な状態になってしまったのも、そういう棲み分けが皆無であった事、とりわけ自分の「部屋」が無かった事が大きく影響している。
私自身、小学生の頃から、自分の部屋(既に侵食は始まっていたが)に勉強机はあれど、勉強はほとんどリビングでしていた。
そして子供の頃「テレビ大好き!!」な人間だった私にとってテレビは生命線。
そんなテレビも当時リビングに一つだけだった。
現代のようにTverだのYouTubeだのHuluだのがあれば別だが、スマホすらなかったので、遊びという面でも、リビングでテレビにかじりついていた。
そうなると、私は今まで生活のほとんどをリビングで過ごしていたという事になる。
いつの事だったか「リビングで勉強する事は良い」なんて話題になったが、リビングにずっと居るのも考えものだ。
というのも、カウンセラーの方から今の自分の状態を改善するために「部屋を明確に分ける」事を強く求められている。
なぜ私がここまで自らの権利を放棄し、家族の歯車のようになってしまったか。
それは家族と常に空間を共有しているからだった。
常に皆がリビングにいるため、全ての情報は共有されるし、感情も共有される。
それ故に、家族の問題に関わりすぎてしまい、自分のプライベートとしての感覚も希薄になってしまっていた。
だから、それを避ける事、物理的な距離を取る事が大事という訳だ。
物理的な距離があれば、何か家族のトラブルがあった時、そもそも影響を受ける事も、私が割って入って緩衝材になる必要もない。親の機嫌が悪い時に、その影響をもろに受ける必要もない。
そういう意味で、リビングで大半の時間を過ごすことを「何ともない」「むしろ、家族皆が仲良い象徴」だと思っていた私の認識は少しズレたものであった。
とはいえ、分けたくても分けられない。そんな状況ももちろんある。
私の家も、部屋数としてはあっても、その多くが共有スペースになっており、子供だけでなく、夫婦も十分な個人スペースを保持できていない状況。
というか、私が幼少期からリビングで過ごしていたのだから、自然とそこが物置化するのも当然と言えば当然で、それも相まって、私の部屋は現在確保されていない。
ここで少し、ふと思いついた疑問を調べてみた。
「皆の家にはどれぐらいの数の部屋があるのだろうか?」
しっかり統計を調べればもっといいデータがあるのかもしれないが、別にこれは論文ではないので、まぁザックリと。
「2021年社会生活統計指標-都道府県の指標-」のデータを見ると、全国で居住室数トップなのは富山県で6.02。ワーストが東京都で3.26らしい。
地方の方が高くて都会の方が低いのは、人口密度や土地面積の問題などが関係しているのだろう。だが、ここで注目したいのは、全国の居住宅の部屋数は大体3~6の間にあるという事だ。
家にある部屋数の事は、統計上「居住室数」と言うらしいが、いわゆる”3LDK”とかのあれで説明すると。部屋を表す”3”はもちろんの事だが、L(リビング)、DK(ダイニングキッチン)も部屋数に含まれる。
という事はリビングとダイニングキッチンの2つがあると考えれば、ワーストの東京都では、3-2=1と、一部屋しか余剰スペースを確保できない事になる。
この推測は、全部を家族単位で見ており、ひとり暮らしを無視しているので、極めて大雑把なものなので、あてにはしないで欲しいのだが、この考えからすると、家族全員、少なくとも子供が、十分なパーソナルスペースを取れている家は少ないと推察できる。
そう考えると、
「部屋がないんだから、リビングにいるしかない」
という考えになってしまうのも自然だろう。
だが、家族と言えども、適度な距離感、自らの空間を持つこの重要性は私が身を以て実感している事だ。
親(大人)が抱える問題から子供をしっかりと離す。そして子供は、自らの空間で、自分のしたいようにする。
物理的な距離・仕切りは、人との心理的な距離を適切に調節し、「自分」を維持する最も手軽で有効な手段だ。
「自分の部屋がなくても、家族仲が良く、リビングにいてもたいして問題もない。」
と思っている人もいるかもしれない。だが、自らの部屋があるというのは一つ「誰にも踏み込まれない」安全地帯を持つこと、そして絶対的な「自分」を持つことでもあるのだ。
それ故、「自分の部屋がなくとも~」などと言っている時点で、実は「自分」の存在が危うい状態なのかもしれない。
一方で自分の部屋がある人は、ここまでを読んでこう思ったのではないだろうか。
「自分の部屋がないとかめちゃくちゃ不便じゃない?」
親には言えない(言いたくない)趣味も自分のやりたいように楽しめない。
自分のコレクションを飾る事もできない。
友達と電話しようにもできない。
1人になりたい時に1人になれない。落ち着いて考える事もできない。
と、部屋がない事で「できない」事は沢山ある。部屋がある人にとっては「当たり前」に出来る事だろう。それ故、”不便”と思うはずだ。
部屋がない事で出来ない事は、一見すると「なんてことない」些細な事。だが些細な事だからこそ、それが出来ないというのは問題で、それが子供であればより大きな問題だ。
自分の好きな事が十分にできない、それどころか我慢しなければ、隠さなければならない。それは「自分の好きは、我慢すべき。隠すべき」という考え方に繋がりかねない。
また、友達との交流に関しても、親の前では友達との会話はしたくない。だが自分の部屋がないため、親がいないときにしかできない。そのため交友関係の希薄化を生むことにもなる。
また、部屋がある人が”当たり前”とする事が、そうではないことで、周りとのギャップも生まれ、人と違うという事が、さらに自分のコンプレックスになったりする。
私自身も、子供の頃から親に趣味はモロバレ。言えない(言いたくない)趣味は、親のいないときに謎の罪悪感を持ちながら楽しんでいたし、コレクションスペースもないため、グッズはあまり買わない(買えない)。親は早く寝るので、夜更かしは出来ず、当然夜通し電話をするみたいなことも未だ経験がない。
今書いてるブログも、本当は部屋に籠って書きたいのだが、それが出来ない故、かなり作業効率の面では苦労していたりもする。
それは、自らの「好き」に対して億劫になったり、罪悪感を持つことにも繋がったし、交友関係が生成されにくいという事に繋がった。
現に最近も、フォロワーさんの配信に、参加したかったが、声を出せないため聞き専に徹する事になり、苦い思いをした。(その反動で、文章力があるのかもしれないが)
それに何より、ヤングケアラーとして関わりすぎ、今に至る一つの要因になった。
そういう意味では、子供の頃に部屋があったかなかったかが、自らの自己形成やアイデンティティに大きく影響するなと改めて感じる。
最近、我が家では私を中心に、部屋の棲み分けをしっかりしようと整理が始まっている。物理的な距離を持つ事で、適切な距離で家族と関わり、「自分」を大事にする事が簡単になるなら、お安い御用だと思う。
母親は、昨日私にこう言った「あなたの事を友達のような感じと思って色々愚痴とか相談とかしていた」と。
”友達親子”なる概念も、家族の多様化という面では一理あるのかもしれない。
だが、親子の距離は適切でなければならないし、決して友達ではない。
自分の部屋があるという事は、親と子が生活を共有しながらも、「自分は自分」と、”子供”という立場を抜け個人としてのアイデンティティを育み、「自分はいてもいいのだ」「自分の好きなようにしていいのだ」という心の自由を、分かりやすい形で保障することなのかもしれない。
【出典】
・総務省統計局 統計表で用いられる用語,分類の解説
https://www.stat.go.jp/data/kokusei/1995/04-03.html
・「2021年社会生活統計指標-都道府県の指標-」
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