みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

「好き」のいろいろ。「言葉」のいろいろ。2021.10.11

書きたいネタはあるのに、なかなか書けない。そう言って何も書かないのもあれなので、今日も今日とて思いつきでつらつらと。

 

先日、私が応援している女優、上白石萌音の初エッセイ『いろいろ』が発売された。

芸能人のエッセイなど買ったことがなかった私だが、これを機に芸能人エッセイデビューをした。

本の質感にもこだわっている本書。

紙の質感がとても良く、思わず本をなでなで。それで満足してしまい、そのまま放置している。

 

 

え??

 

 

それはさすがに冗談だ。と言いたいが、放置しているのは事実だ。

「好きな芸能人のエッセイなら、早く読みたくて仕方ないんじゃないのか?」と大多数からそう言われると思う。

確かにそういう思いもあるが、「しっかり読みたいから」と放置している節もある。

だが、放置している一番の理由は、また別にあるのだ。

 

 

私が誰かのファンになるポイントは大抵が、外見ではなく内面だ。

もちろん外見で好きになる事もあるが、何年もずっと好きが続くのには、内面の部分で”好き”があるのが絶対条件な気がする。

そして、外見であろうが内面だろうが、”好き”にはグラデーションがあるだろう。(私はよく”ニュアンス”とも言うが)

特に内面においては、主に二つの評価軸が存在し、それは「共感」と「憧れ」だと思う。

「共感」を縦軸に、「憧れ」を横軸にすると、我々がいつか学んだ一次関数のグラフのようになり、そのどこに点を書くか。それが”好き”のグラデーションだろう。

 

 

まぁそんな事で、「同じ内面が好き」でも、人によれば「共感」が強いかもしれないし、人によれば「憧れ」が強いかもしれないという事だ。

 

 

 

ちょっと脱線してしまったので、最初に話を戻すが、「何故、私が推しの著書をすぐ読めないのか?」

それは「共感と憧れのバランスがとれなくなって、自分自身も壊れそうになることがあるから」だ。

 

自分はまぁ”いろいろ”あって、すこぶる自己肯定感が低い。

それ故に、推しに対して感じる”好き”は主に「同じ気持ちでいる」という”共感”の面が高い。

「私と同じように思っている人がいるんだ」「私の考えはこれでいいんだ」という点で、自己肯定感も保たれるからだ。

そして、それと共に生まれるのは「この人は、自分と同じ考えだけど、こんなにキラキラしているんだ」「自分もこんな人になりたい」という”憧れ”でもある。

だが、その「憧れ」は同時に「同じなようで私とは違う。私にはなれない。あんなキラキラしてていいなぁ」という”羨望”や”妬み”といった気持ちとしても噴出するのだ。

それは、同時に他者の考えを受ける事で、自分自身の存在価値が揺るがされる事でもある。

そのため、自己肯定感が上がるのだが下がるというカオスな状況にハマってしまうのだ。

 

まぁここまで読んで、自分でも「めんどくせえやつ」と思ったが、私の推しに対する感情はそういったカオスの渦の中にあり、他者の考え(特にエッセイのようなもの)に触れるのは、適度な気合と覚悟がいるのだ。

 

だからこそ、読めない。

読むと自分が惨めになる。自分が壊れそうになる。それが怖い。

それに、妬みとかいう感情を推しに向けてしまいそうになってしまうから嫌なのだ。

 

 

「憧れは理解から最も遠い感情だよ」

 

小学生の頃、ハマっていた少年漫画『BLEACH

その登場人物である”藍染惣右介”という人物は作中で、主人公の最凶の敵として立ちはだかり、ただ単に強いだけでなく多くの名言を残したことからもカリスマ的な人気を現在でも誇っている。

そんな藍染の名言の一つがふと思い出された。

憧れは、羨望であり妬みでもある。そしてそれは、「自分とあなたは違うんだ」という事を明確にすることでもある。それはある種、相手からしても同じだ。

だからこそ「憧れ」と「理解」の距離は、遠い。

 

私は読み手だけでなく、今この瞬間も、文字を紡いでるように書き手でもある。

それ故、書き手としてもそれを実感する事がある。

このブログ、有難いことに”いろいろ”な方に、褒めてもらう。

「私が思ってくれていたことを代弁してくれた」

「とても共感する考えばかりだった」

「みぞさんの凄さを感じた」

「みぞさんの言葉に救われた」

そんな恐れ多い言葉を貰ってきた。

 

毎回とてもとても嬉しいのだが、その言葉からは「尊敬」に近いものを感じ、どちらかというと「憧れ」のような態度からくる言葉だ。失礼でおこがましい事かもしれないが「共感」という視点では、「誰も私を本当は分かってくれてないんだ」という気持ちになって、真っすぐに言葉を受け取れない事もある。

という事で「尊敬」や「憧れ」という形で私に接してくれる人に違和感を感じてしまうことがあるのも事実だ。

まぁそれは前述した自己肯定感の低さと、もう一つ、自分の言葉が評価される一方で、社会においては落ちこぼれだという認識が私の中で支配的なせいだと思うのだが、それには他の要因もあると思う。

 

 

言葉にすること、それは自分の考えに形をもたせ確かなものとして整理でき、相手に伝える事ができるという点で、とても有用だ。

だが、言葉にした瞬間に、それは自分自身の中にあるそれそのものとは違うものになってしまう。

無数にある言葉からそれに合うような近いものを選んで作る。

いわば”加工食品”みたいなものだ。

 

それ故、他者から見れば、その言葉は、文章は、その人そのものに見えても、”私”からすれば、どこか足りない”私”に似せた模造品なのだ。

それが、私が書き手として感じる「憧れ」や「尊敬」に対する違和感であり、「理解されていない」と思ってしまう原因かもしれない。

 

だから、その文章に対する評価に疑念を持つのはある意味、自然な事なのだ。

だが、一方で発話が伴うコミュニケーションの中では、模造品が作られることはない。

確かに、言葉を用いている事に変わりはないが、その一つ一つがその空間において自分から意図せず出る言葉だ。

それがどれだけ不格好で、意味がめちゃくちゃでも、書かれる言葉よりも新鮮でダイレクトな言葉であることには間違いない。

そして、ブログや本などの文章が、一方的に語りかけるのに対し、会話は互いに言葉のキャッチボールができる。そういう「投げればそれに対して投げ返される」という状況は、「憧れ」のような大きな上下関係を生まず、対等な発話者としての言葉が交わせるのだ。

 

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前回の記事で、SNSでの繋がりに助けられたという事を書いたが、同時に”face to face"の関係を上乗せる必要があるとも述べた。

今回の話はまさにそうだ。

加工ができる書き言葉の世界では、一方的な関係に留まったり、不完全な(incompleteではなくpartialに近い)自分でしか対話できない。

自然な話し言葉の世界のやり取りを完全に再現することは出来ないのだ。

 

ということで、最近の例に倣って、何も考えずに書いたばっかりにめちゃくちゃになったが、つべこべ言わず、早く推しの著書を読もうと思う。

それが自分にとって恐怖を伴う事であったとしても、カオスの渦の中で考え続けなければならない。そして、羨望や妬みも全部受け入れて、好きな人の考えに向き合わなければならない。

そこから吸収できることも必ずある。そして、それを吸収できる人間でなければならない。

 

そして、つべこべ言わず、褒め言葉は貰っておけ!!!

この間、あるフォロワーさんに言われた言葉だが、褒め言葉それ自体を否定する事はそう思ってくれている人に失礼極まりない。

それに藍染の言葉は、一つ間違っていると思う。

確かに「憧れ」は「理解」とは相容れないかもしれない。

だが、「憧れ」を持てば、「理解したい」と思う。だから、「自分とは違う」と分かれば、その距離はどんどん近づくはずだ。

それに「共感」することだってできる。

そうやって互いに歩み寄れるように自分も褒め言葉を真っすぐ受け止められるようにならなければと思った。

「好き」には”いろいろ”あるけれど、良い事には違いないんだから。

ということで、これからも遠慮せず褒めて下さい。

「理解されてねえな」とか言ってるのは無視です。記憶から消してください(じゃあ書くな)

という事で、徐々に『いろいろ』読もう!!

 

【過去記事】

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SNSが紡ぐ緩やかで温かい「繋がり」2021.10.2

このブログを読んでくれている方から、「もっと気軽に」と言われたこともあり、思いつきで今書き始めた。

自分のブログは、下書きをしたり、大体の構成が決まらないと書けないものが多い。それ故、体力消費がすごい。だから、更新頻度が遅い。だから、なかなか書く気にならない。完璧主義もいい加減コントロールしないとならないなとつくづく思う。

 

さて、本当に何も用意していない。

さっき感じたことを書いてみる。

ヤングケアラーの記事を先日、5回に渡って更新した。ありがたいことに多くのアクセスを頂き、さらに多くの温かいコメントも頂き、本当に嬉しかったし、自分の中で、一歩...いや二歩も三歩も進めた気がしている。

まぁまた、いつか「私」の話は続きを書こうと思っている。「みぞ!さんの文章を読んで救われた」というコメントを貰った時に、そう思った。

 

そんな記事の中で、Twitterで仲良くして下さっているフォロワーさんにとても感謝していると書いた。実際、こうしてブログを書いて、見てくれる人は大抵がそんなフォロワーさんたちだと思う。

私は8年ほどTwitterをしている。その中で一番長い付き合いをしている人たちは5年の付き合いだ。

Twitterを始めた当初は、色々ルールを決めていた。

「〇年以上絡んでいる人じゃないと信用しない」

とか、他にもSNSに対する危機意識から、自分で決めたルールに基づいて、Twitterを利用していた。

まぁそこまで頑ななのは、私が「真面目」だからなのもあるが、親がSNSに対して良いイメージを持っていなかったからというのが大きい。

といっても、Twitterを利用する中で、私のつぶやきに反応してくれたり、好きなもので繋がれたりで、どんどんと私の中でその存在が大きくなっていったのも事実で、徐々に考え方も変わっていった。

 

私の親はいわゆる”face to face”のやり取りを絶対とする人だ。私も最終的にはそうだとは思う。

だが、私はその直接的なコミュニケーションが困難だった人間の一人だった。それは一連の記事を見てもらえれば分かって貰えると思う。

だからこそ、私にとってフォロワーさんは唯一の繋がりだった。心許せる存在だった。

 

それなのに少し前までは、親の考えや世間の風潮から、「SNSでの繋がりは良い繋がりじゃない」「SNSでの繋がりは、不健全で不完全なもの」という思いが私の中では多くを占めていて、「好きだけど、この人たちは”友達”ではないんだよな。」と失望したり、そのやり取りに依存している自分に罪悪感を持つこともあった。

しかし、ヤングケアラーの記事を更新し、自分自身に向き合い始めた最近。その考えが完全に払拭された。

色々な方からの温かいコメントを読むたびに「私が今ここにいるのはこの人のおかげだ」と感じたからだ。

周りがどう言おうと私にとって私にそんな言葉をかけてくれる人は”友達”以外の何物であるというのか。

確かに、一般的なそれとは違うかもしれない。繋がりの強さも、劣るかもしれない。

それでも、0だった私がマイナスにならず、1.2.3...と大事な人の数を数えられる自分でいられるのは、その人たちの「おかげ」でしかない。

 

コメントを貰った流れで、2人のフォロワーさんに「友達になって下さい」と滑稽な事を投げかけた(投げかけてしまった)

そういう事を言葉にして言うのは違うというのも分かっているし、「所詮趣味の繋がりだ」と思っている人からすれば、困惑させ、場合によっては恐怖させる言葉かもしれない。

だけど、このタイミングで聞いておきたかった。

 

「いいですよ」

 

2人とも何の淀みも、違和感もなくそう答えてくれた。

「はぁ良かった」

そうふと息を吐いた。

だってこの言葉で、心の距離が離れてしまったらどうしようとも思っていたから。

 

私が決めていたSNS利用のルール。

そのおかげで、少しずつ少しずつ関係性を構築できた。今はそう感じる。

昔は「もっと仲良くなりたいから、ガツガツいってもいいんじゃないか?」

と思っては、「いや、それはダメだ」という葛藤の連続だった。

でも、その姿勢が、数百、数千、数万の文字の紡ぎ合いを生み出し、その文字たちが、現実と変わらない信頼を作ってくれたのだと思う。

 

今日、あるフォロワーさんのツイートを見た。

それは「仲良くしていたフォロワーさんがいつの間にかいなくなっていた」

というものだった。

繰り返すが、私にとって幾つかの繋がりは、もはや欠かせないものだ。

だが、アカウントを消せばその存在は消え、もう二度と会うことは出来ない。

死んだも同然だ。

私がわざわざ「”友達”であること」を確認し、その繋がりを可視化したがるのは、そういうSNSでの繋がりの脆さや儚さに怯えているからなのだと思う。

私には、もう二度と会えない、言葉の紡ぎ合いができないなんて耐えられない。

というか、まだ会えてないのに、会えなくなるなんて泣いてしまう。

 

そんな風に、思っているからこそ最近は「SNSの繋がりであっても、繋がりは繋がり。」「大事なのものは大事」と考えるようになったし、気心が知れる一部の方々に対しては、少し深く懐に飛び込むようにしている。

「ないよりある方がいい」

どんな形でも、一人でも自分を受け止めてくれる人がいるというのは、勇気になる、生きる活力になる、宝物になる。

だから、思い切り気を許せる人には気を許せばいい。

 

SNSで「繋がる」ことは、確かに注意が必要だ。最近でもSNSが発端となった事件があった。それ故、昔の自分が厳格にルールを決めていたように、厳格でなくても、常に警戒はすべきだと思う。

だが、一文字一文字、言葉を紡ぎ、時間をかけ、好きなものによって関係を積み重ねていくことができるのもSNSだと思う。無理に繋がりを求めないからこそ、良い関係を構築できる。「繋がりましょう」とかじゃなく、なんとなくフォローして、なんとなく良いなと思うものに反応して、そうやって少しずつ距離が詰まっていく、そんなSNSの利用ができてよかったと心底思っている。

 

さて、ここまで、思いつきで書ける私がすごいなと勝手に自画自賛してしまうが、最近は、そんなフォロワーさんとのやり取りが楽しい。「どこにお出かけしますか?」とか「明日も話せる?」とか、私以外の人からすれば当たり前なのかもしれないが、そんな”当たり前”がようやくできて嬉しくて仕方がない。

人生はまだまだこれから。

言葉で紡いできた関係を、”face to face”の関係で上乗せして、「楽しい」思い出を増やしていきたいと思った今日この頃だ。

 

【過去記事】

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「街角」2021.9.25

皆さんの住む街はどんな街だろう?

街とは少し違う、どちらかと言えば”町”という表記が腑に落ちる人もいるのかもしれない。

場所を表す言葉は沢山ある。

都会、田舎、都市、村...

じゃあ「街角」って??

 

We can do! We can go!

いつもの街角で 瞳閉じて

We can do! We can go!

ここから 始まると 信じるんだ

ーーーーーーーーーーーーーー

V6『Can do! Can go!』

 

最初に聴いた時、V6の曲だと知らなかった。ジャニーズJrが歌い継ぐ姿を何回もTVで見ていた。初めて聴いた時から毎回、キラキラが見えた。サビの歌詞に魅了された。

”僕だけに出来るコト見つけたいよ”

”シュミレイションなんか 誰にもされたくないね”

”大事なモノ ホントの事に キスしたいのさ”

そんな歌詞で埋め尽くされるように、悩み、苦しみ沢山の壁にぶつかりながら、それでも前に進みたい。自分に正直でいたい。負けたくない。夢を叶えたいという思いが詰められている。

それが一番現れているのが、サビ。

強い気持ちで一歩踏み出す。その場所がいつもの「街角」

瞳を閉じて目の前に広がる「恐怖」「不安」という闇を打ち消す。「できる」と想像して、目を開ける。

そうすれば光が射す。そして街角を抜ければ、まばゆい未来が待っている。

「街角」とは心の転機。決意の場所。

 

youtu.be

この角 曲がったら

君がいるとなぜかわかった

陽射しの向こうから

ふいに近づく予感がしたよ

ーーーーーーーーーーーーーーー

AKB48希望的リフレイン

 

”好きすぎて”

そのワンフレーズが繰り返される、リフレインされる。

単純だけど、繰り返される”好き”は、思いの強さの証。

好きな気持ちが限界を超えると、君の気配が分かるようになる。

この「角」を曲がったら、好きな人に会える。

「街角」とは、ドキドキの最高潮。運命。

 

youtu.be

会いたいんだ 今すぐ その角から

飛び出してきてくれないか

夏の魔物に連れ去られ 僕のもとへ

ーーーーーーーーーーーーーーーー

back number 『高嶺の花子さん』

 

僕には届かない憧れの人。

でも、諦められない。

でもやっぱり届かない。

その「角」から彼女は出てこない。出てくる訳がない。

でも、夏の魔物に連れ去られてでも、魔法の力でも何でもいいから、

その「角」から出てきて欲しい。僕のもとに。

「街角」とは、現実と理想の狭間。無力さと向き合う場所。

 

 

歌における「街角」は色んな意味を持つ。

だが、そのどれもが、人間の感情が揺さぶられる一瞬を表している。

普段、「街角」なんか気にしないし、どんなところかも分からない。

都市開発は進み、「街角」らしい場所は少なくなっているのかもしれない。

でも、たまには「街角」を探すために街に出てみたい。

何かが変わるかもしれないから。

 

 

 

【関連記事】

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『音楽さんへ』に込められたはつねちゃんの「想い」YOASOBI『ラブレター』YOASOBIの持つ”包容力” 2021.9.19

先日、YOASOBIの新曲、『ラブレター』のMVが公開された。

公開から1週間で465万回もの再生回数を記録しており、さすがはYOASOBIという感じである。

今回の楽曲は、「ありがとう」をテーマとした手紙を募集し、それを楽曲にするというラジオの企画で生まれたもの。

そこで選ばれた手紙が、当時小学6年生の”はつねちゃん”の『音楽さんへ』だった。

この手紙、『ラブレター』のTrailer動画で初めて読んだ(聴いた)時、心がギュッとなった。

まずは皆さんにも、読んでもらいたい。

youtu.be

『音楽さんへ』

音楽さんへ

はじめまして はつねです。

急なお手紙すみません。

私はいつも音楽というものにすくわれて

支えられたりして

生きていたので

いいきかいだと思い

この手紙をかかせてもらいました。

 

私と音楽さんは

会ったことがないし

音楽さんからしたら

ただの人だと思うんですけど

まとめると

「ありがとう」を伝えにきました。

 

私は宿題をしているときや

おどっているとき、幸せなとき

ばくはつしそうなとき

ばくはつしたときなどに

音楽を聞きます。

 

音楽を聞くと

ふつうの生活に一つ花が咲くというか

みたされるというかおちつくというか

逆にあばれたりとかすごく心が動きます。

 

私は自分でものごとを決められなくて

自分が見えないんです。

でも音楽は自分の好きな曲とか

たっくさんあって

その中から選ぶのがとても楽しいです!

 

音楽は一人で聞くので、

本当に自分が好きな曲を聞けます!

ありがとうございます!

 

たくさんの音楽に対することを

言ってきたんですけど、伝わりましたか?

音楽というものがあるおかげで

私は何度も心が動きました。

 

明るい曲を聞いてかなしくなったり

くらい曲を聞いて泣いたり、

おもい曲を聞いて心が小さくなったりなど

音楽ってすげーパワーもってるなって思います!

ありがとうございます!

 

音楽がなかったら

今どうなっているのかなぁ~

と思うと大変です。

もっともっと自分を見つけて

音楽にふれていきたいと思っています。

 

でももしかしたらこれが

げんかいかもしれません!

 

音楽大好きです!

 

人間がほろびるまでつづきますように!

本当にありがとうございます!

 

音楽聞いてきます!

 

はつねより

YOASOBI「ラブレター」Trailer Movie - YouTube より引用

 

「音楽さん」という視点

私は、『ラブレター』を聴いた後に、Trailer動画に気づき、このはつねちゃんのお手紙を読んだのだが、読む前と読んだ後では曲の聞こえ方が、全く違った。

最初に聞いた時も素敵な曲だと思ったが、手紙を読んだ後は、より心から心に思いが来るというか思いが溢れてくるような不思議な感覚になったのだ。

まず、この手紙。私には書けないと切実に感じた。

”私には書けない”というのは、はつねちゃんと同じ小学6年生の自分にも、そして今現在の自分にも書けないという意味だ。

 

「ありがとう」をテーマにした手紙。

普通なら誰か、具体的な人物を思い浮かべ、その思いを綴るだろう。

しかし、彼女は”音楽”を選んだ。

私が、小学6年生の時はとても、音楽を擬人化する...いや音楽に”さん”を付けるなどという考えには絶対に至らなかった。そして今は、容易にそのような想像はできても、「音楽さんへ」なんて、恥ずかしくて口にしなかっただろう。

だからまさにはつねちゃんにしか書けない手紙なのだと思う。

 

そんな”音楽さん”に対して、「会ったことがないし」と表現している点も、とても面白い。私の頭なんかでは、「いつも聴いてるんだから会ってるでしょ?」と思うのだが、はつねちゃんからすれば、聴いているのは一方的な事で、会って話すのはこれが初めてということなのだろう。

私なら、「音楽を聞くことで音楽と対話している」なんて、抽象的な事を考えてしまうが、この視点は、”音楽さん”と擬人化しているからこそのもの。

私が「え?」と違和感を持って考えてしまうところに何だか面白さ、趣がある。

 

少し、今考えて見たが、好きな芸能人と初めて対面するときの感覚に近いのかもしれない。自分からすれば毎日見ているから慣れ親しんでいる。だから会っている気がするが、実際に会うと「はじめまして」と言う。そういう感覚なんだろうか?

そう考えれば「音楽さんからしたら ただの人だと思うんですけど」と書いている点

も非常に納得がいく。ファンは推しに対して「私なんて〇〇さんからしたらただのファンだと思うんですけど...」という気持ちでいるからだ...(笑)

その対象が「音楽さん」だから、「ただの人」と言うと、「人類の分際ですけど」的なSFっぽい意味にも聞こえまた面白い。

 

ラブレター

ラブレター

  • YOASOBI
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 

小学6年生だからこそ書ける等身大の文章

この手紙が、とても素敵に聞こえるのは、これが「作品」ではなく、小学6年生の女の子が書いた何の変哲もない「手紙」だからであろう。

先ほども少し触れたが、大人は何かと難しい言葉や、概念的な言葉を使いがちだ。それには意味が要約され容易に使用できるという意味や、カッコよく見せたいなど色々な理由があるだろう。

だが、幼い頃には、そんな言葉をまず知らないし、とにかく自分の知っている言葉で表そうとする。

それが結果として、大人には真似できない「純粋」な思いを表す高度な表現になっている。

 

「音楽をどんな時に聴くか?」と言う部分では、「おどっているとき」「ばくはつしそうなとき」と書いている。具体的な場合と、抽象的な場合が並列に並んでいるところ、大人が書くものなら「並列でならべちゃダメだろ」となるが、小学6年生だと、「とにかく色んな時に聞くんだろうなぁ」と、その文章の凹凸に逆に思いを馳せられる。

その後の部分でも、「というか」が連発されているのだが、普通なら「まとまりのないなぁ」となるところ、彼女自身のそのままの思いを聴いているという説得力に繋がる。

 

だから、「純粋な思い」を表現するという点において、子供の自然な言葉以上に優れた表現はないのかもしれない。

大人がどれほど高度な言葉選びを、表現技法をしようとも、子供の口から何気なしに飛び出す言葉には、それそのものが「ナチュラル」を帯びているから無敵なのだ。

 

また、これは私の肌感だが、小学6年生の子が書いたという事で、手紙の多くは平仮名で書かれている。

大人の目線では、漢字の方が読みやすいし、良いのではないかという見方になってしまうが、今回久しぶりに、平仮名の文章に触れてみると、とにかく”柔らかい”という印象があった。書き手が小学生という情報があるからだろうが、何となく柔らかい印象をもたらしてくれる。

”平仮名”とここまで表記してきたが、”ひらがな”の方が柔らかく感じるのではないか?

 

そして、「読むのに時間がかかる」

これはデメリットのようにも感じられるが、メリットの面もある。

以前、ある新聞の記事で、”ひらがな”に関する事が書かれていた。

そこでは、短歌や歌集が例に挙げられており、それらの表記にひらがなが多く用いられている理由について「感じが多くなると、無意識に読みが早くなり、意味だけを追うようになってしまい、その言葉の厚みやイメージが無視されてしまう。だから、読みを遅くするための苦肉の策としてひらがなを用いている」と記述されていた。

人間、表記を容易にすればするほど、その一文字、一単語に対して、流し読みで対応してしまう。だが、その一語一語には余白があり背景がある。それを感じさせるためにひらがなを使うという訳だ。確かに、平仮名であれば、どこで一単語なのかを確認しながら立ち止まって読まざるを得ない。

 

そして、その評論にはこうもあった「文学は意味を遠ざける傾向がある」

この手紙が、作品として読めてしまうのは、ひらがなをただの”知識の不足”ではなく”言葉への滞在時間を延ばしている表現技法”と私が捉えているからだろう。

もちろん、当の本人にとっては”知識の不足”ゆえの表現なのだろうが、”作品”としての視座を得る事で、ひらがなが力を持って私たちに作用している気がする。

手紙に接続語が少なく、どこかぶつ切りのように言葉が羅列されていくのも、文章的には”欠如”なのかもしれないが、それがどこか詞的に感じられたり、「思いがそのまま言葉になっている」と言う感じがして、良い方向に作用している。

 

という訳で、今回この手紙が曲という作品の一部になることで、私たち大人が、劣っている、欠如している、稚拙だとする表現も、高度な表現として感じられてくる訳だ。

とても面白いし、ワクワクする。

 

はつねちゃんの「ありがとう」

はつねちゃんがどのような女の子かは分からないが、小学6年生なりの、いやそれ以上の悩みや苦しみを経験してきたのではないかと勝手にだが、想像させられた。

自分でどうにもできない、どうにもならない。

自分のありのままでいられない。

そんな気持ちがあったのだと思う。

「ばくはつしそう」といった少々強めの表現が垣間見える点でも、

自分の気持ちを押し殺しているような印象を受ける。

そんな彼女を助けたのが、「音楽さん」だった。

 

手紙の中で、彼女は「音楽のおかげで心が動いた」と何回も口にしている。

彼女は「自分で自分が見えない」「自分で決められない」と言う。

でもそんな彼女が、音楽の中では「好きな曲がたっくさんあって、選ぶのが楽しい」

と口にしている。

”自分”のことは分からないし、何も決められないけど、”自分”の好きな曲は分かるし、選べる(決められる)、しかもそれが楽しい。

そして、「ばくはつしそうなとき」に「あばれたり」できる。

”自分”の気持ちに、我慢せず正直でいられる。

そういう意味で彼女の言う「心が動く」は、”感動”とかそんな平凡な事じゃなく、「色々な自分を知る事ができる」、「ありのままの姿でいられる」ということなのかもしれない。

 

「音楽は一人で聞くので、本当に自分が好きな曲を聞けます!」

この文言を聞くと、やっぱり彼女は、普段から自分の本当の「好き」を隠して、周りの「好き」に合わせているのかもしれない。そうやって自分を抑えているのかもしれない。そんな風に感じられる。

 

音楽の持つ力に関して、明るい曲を聞いて悲しくなったり、暗い曲を聞いて泣いたり、重い曲を聞いて心が小さくなったりする事をあげている点、最初は「相当ネガティブなんだな」と思っていたが、どれも「悪いもの」と抑え込んでしまう感情と真正面から向き合う事ができるという意味なのかもしれない。

はつねちゃんにとって、「音楽さん」は居場所であり、友達であり、自分自身を写す鏡みたいな存在なのだと感じた。

「音楽さん」すごい。

 

www.yoasobi-music.jp

 

『音楽さんへ』を『ラブレター』として再表現するYOASOBIのすごさ

少し、感情移入しすぎてしまったが、そんな彼女の『音楽さんへ』を見事、『ラブレター』という音楽にしたYOASOBIについて、そして『ラブレター』についても、少しお話しようと思う。

 

YOASOBIは「小説を音楽にする」というコンセプトで活動をしている。

だが今回は、”手紙”だ。

小説は、フィクションであり、作者はいても、その者自身が100%反映される訳ではない。その点、小説→音楽の流れは、比較的スムーズというか、そのものの姿、”作品”という枠組みは変化しない。

だが、”手紙”は、そもそも作品ではない。そして非常に主観性を持った、この作品においては、はつねちゃんそのものだ。

それを”作品”として再構成するというのは、YOASOBIらしいが、らしくないような不思議な気持ちになる。私としてはこの点で既にワクワクしてしまう。

 

というのも、YOASOBIという存在自体、『夜に駆ける』でブレイクしたその時には、非常に”無機的な”存在であった。それ故、具体的な存在が歌っているという感覚がなく、ボーカルikuraの声はどこかその物語の”ストーリテラー”のようで、それが物語の非現実性や没入感を生み出していた。それがYOASOBIの持ち味であり代表的な魅力の一つだと思う。

 

だが、今回は、それが別の作用を起こしていたのだ。

私は、少し前から、YOASOBIのラジオを聴いている。そこでは、YOASOBIの二人の、個性豊かなやり取りに触れられる。そう、人間としてのYOASOBIが存在するからこそ、音楽が無機質にならない。

ラジオを聴く前は何となく、距離が遠く感じたのだが、二人の人間性を知れば知るほど、曲に愛着もわいた。

そういった、当初の「謎の音楽集団」という側面から、親しみやすさを持ってもらいたいという彼らの活動があったからこそ、”無機的”な存在だったストーリーテラーという存在が、はつねちゃんの代弁者としての役割を果たし、はつねちゃんの思いが”手紙”と同様に私たちのもとに届いたのだ。

まるではつねちゃんが歌っているかのように。

近頃は、顔を出さないシンガーが多いが、最初は顔を見せず、世界観を構築し、後々、姿を現すことで愛着を加えるYOASOBIという存在は、やはりすごい。

物語性と主観性を併存させるYOASOBIだからこそ、『ラブレター』を生み出せたのだと思う。

 

「音楽さん」は無限に続いていく...

youtu.be

さて、ここまで何故か気づいたら小学6年生の手紙のレビューをしてしまったが、『ラブレター』は本当に素敵な曲だ。

「YOASOBIは同じような曲ばっか」

という声もあるが、一つとして同じ曲はないし、『音楽さんへ』を読んでから聴くと、とてもそんな風に思えない。どれも一人一人にとってかけがえのない一曲だ。

MVの映像も、繊細に書き込まれていて夢のようなファンタジックな世界が「音楽さん」の無限に広がっていく世界観を見事に表している。

MVの途中で髪の毛の色が皆カラフルな女の子たちが4人出てくるが、個人的にこの子たちが「音楽さん」なのかとも感じた。

大阪桐蔭高校吹奏楽部の織りなす重層感ある音たちも加わり、はつねちゃんの思いをそれそのもの、いやそれ以上に引き出している。

ikuraとayaseに関しては、もう言うことがない、いつも最強だ。

 

 

はつねちゃんの手紙で気になるところが一つあった。それは最後の辺り。

「でももしかしたらこれがげんかいかもしれません」

どういう意味か分からないけど、『音楽さん』の力があっても、もう無理かもということかもしれない。

だが、そうだとしても、その限界は、YOASOBIが壊してくれたと思う。

彼女の「音楽さん」への思いは、また新しい「音楽さん」になった。彼女自身が「音楽さん」になったのだ。

そして、その思いは、また誰かを癒す。誰かの「心を動かす」

「音楽さん」は無限に続いていくからだ。

 

さて、長々と書いてしまったが、とにかくはつねさんに感謝だ。こんな素敵なお手紙を書いてくれて。

そして、改めてYOASOBIの魅力に触れることができた。

「物語を音楽に」というコンセプトの先には「思いを音楽に」があると思う。

今回の”手紙”だってそうだった。

思いを音楽と言う形にするというのは一見、初歩的な考え方な気がするが、他者の思いをくみ取り、それを曲にするというアーティストはあまりいない。

誰かの思いに寄り添うことはそう簡単なことじゃないからだ。

だが、はつねちゃんの思いに真正面から向き合いそれを表現したYOASOBI

令和になり、取っつきにくそうな音楽ユニットが出てきたと敬遠している人に伝えたい。

「YOASOBIほど優しさに溢れた包容力のある音楽ユニットないよ...」と。

「YOASOBIほど音楽に真剣に向き合っている人たちいないよ...」と。

ストーリテラーとしての匿名性を持ちながら、人々の思いを受け止め寄り添うことのできるYOASOBIの今後の活躍に期待したい。

最後は、『ラブレター』のサビの歌詞でお別れしましょう。

いつまでも「音楽」が鳴り続きますように。

皆が自分らしく生きられますように。

 

笑ってたいよ どんな時も

でも辛い暗い痛い日もある

けどね

あなたに触れるだけで気付けば

この世界が色鮮やかになる

花が咲くように

笑って泣いてどんな時だって

選んでいいんだ いつでも自由に

今日はどんなあなたに出会えるかな

この世界が終わるその日まで

鳴り続けていて ah-ah

 

【関連記事】

私が”音楽”について書いた記事です!!是非!!

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「オタク」面する「ミーハー」人間 2021.9.18

現代においてエンタメの楽しみ方は、多様化している。

特に「オタク」という応援の仕方が一般的に広がり、特定のものに熱中することが比較的、簡単になった。いつからかは分からないが、肌感ではスマホが登場して以降だろうかと思う。

 

ふと最近考えた。

「昔ってどう過ごしてたんだろう?」

 

今は基本スマホばっかり触っているけど、昔はそれが無かった。

ケータイはあったけど、スマホに比べたら使い勝手の良いものではなかったし、パソコンと同じくらいの頻度でしか使わなかったと思う。

 

だからその分、テレビに対する集中力とか、熱中力というものはすごかったんだと思う。今は、何気なくスマホ片手に「ながら見」してしまう。そういった「ながら見」は、「ソーシャル視聴」とも言われ、「オタク的」な楽しみ方でもあるので、悪い面ばかりではない。しかし、その分一つ一つの情報の価値が軽くなってしまった気がする。昔のドラマやバラエティの記憶がはっきりとしているのは、”思い出補正”を加味しても、一つのメディアに集中していたからなのではないか。

 

また、情報が手軽に手に入らない状況では、今のような「応援」「ファン活動」は、今の数倍、やる気やパワーが必要だったと思う。

今のようにすぐに情報にアクセスすることはできないだろうから、意識して「応援」の姿勢でいないと応援はできなかったはずだ。

 

そんな現代では「オタク」としての楽しみ方が優先されるが、その一方で、これだけ情報があるんだから、いろいろ楽しみたいという気持ちにもなる。それがまさに私だ。

私には「推し」がいるが、決してその「推し」が一人ではないし、全てのコンテンツを追う訳でもない(”追えない”とも言える)

先ほども書いたが、現代では非常に深く熱く「オタク」ができる。そして「推し」の文化も、熱すぎるほど熱されている。

その中で、自分が「推し」と呼ぶのは、たまに罪悪感を持つというか、「推しって気軽に言っていいのかな...」と思う事もある。

でも、決して愛が無い訳ではない。ただ、昔のような楽しみ方から未だに抜けられないのだ。

 

テレビで色んなものに触れて、その中でなんとなく「お気に入り」の歌手や番組が自然とできて...

そんないわゆる「ミーハー」な楽しみ方を子供の頃からしてきた。

それが好きなのだ。なんかバイキングに来て、列に並んでる時に「美味しそうー」って言って、好きなものを好きなように選ぶような一連のワクワク感に似てる。

 

まぁ、だからといって、昔の「テレビ」という情報源とは違い、インターネットの世界の情報は膨大で、冒頭話したように、一つ一つの価値を蔑ろにしてしまう恐れがあるため、「ミーハー」と「オタク」のその調整自体は工夫しなければならない。

結構、それは難しかったりする。

 

それに、昔と違い「応援」の距離が近すぎる事も慣れない。自分の応援している憧れの人に、簡単に自分の声が届いてしまう。いや、それは良い事なんだろうけど、近すぎると、自分の意見が、思いがその人に何か影響してしまわないか心配してしまう(どんだけネガティブなんだよ)

 

その一方で、毎日推しにメッセージを送り続けている人を見ると、シンプルにすごいなと思うし、私の推し界隈でも一人いるのだが、私が見ても「パワー」を貰うし、本人からそれに対する反応があったりして、簡単にできるからこそ、やる人がいないという事もある中、なんと尊いことだ...と思ったこともある。

 

今の時代、「オタク」をやりやすい世界にはなったが、どうも自分で情報を選んで、目的性をもって楽しむやり方に義務感を感じてしまうというか、しんどくなる事もある。

こうやって、「オタクしたい...でも...オタクしたい...でも」を繰り返してしまうのは、やはりあまりにも簡単に情報が手に入ったり、応援できるからだろうか...

 

というようなこともあり明確に「オタク」ではいたくないというか。

あくまでも「ミーハー」でいたい。

という気持ちがあったりする。

 

情報の海の中で、泳いでいる最中に「お気に入り」を見つけ「あっ!!」と興奮するような、昔にあった「ミーハー」体験を疑似的にしていたい。

だから私は、明確に言うと「オタク」というより「ミーハー」

いや...

SNSスマホを得て「オタク」面ができるようになった「ミーハー」という存在なんだと思う。

だから「推し」とは言ってみるし、ファンの繋がりには入ってみる。

そうやって自分の「楽しみ方」のスタイルを自分で選択でき調節できる今の時代、良いなと思う。

 

 

少し話は変わるが、楽しみ方という点で、昔はできなかった楽しみ方を私はしている。そしてそれが結構、好きな楽しみ方だったりする。

それは観察者としての楽しみ方。

簡単に言うと「自分の好きなものを好きな人を見てるのが楽しい」

 

昔は、自分が「好き!」って思った番組とか音楽があっても、自分1人でその感覚を味わうか、学校で「面白かったよな~」って友達と話すしかできなかった。

だが、今はSNSで、無数の人々のリアクションを見ることが出来る。

自分の好きな歌手や俳優に同じように、興奮する人々...

見ているだけで楽しくなる。

それは、昔、学校で「そうだよね~いいよね~!!」って話してた感じとは違って、

心の内の興奮をそのまま覗いてるような、より共感性の高い楽しさなのだと思う。

「そうだよね...分かる...」

「推しってやっぱりすごい...人の心をこんなに動かすなんて...」

みたいな感じの嬉しい気持ちになる。

 

そして、もっと言えば、自分の好きな歌手や俳優のファンである必要はない。

とにかく誰かが自分の好きなものに狂っている状態を見るのが好き。

それ自体がコンテンツになっている。

SNSを用いれば、それが簡単にできる。それは現代ならではだろう。

 

SNSに限らず実生活でも私の好きな体験がある(あった)

”あった”としたのは、コロナ禍になってすっかり過去の経験になってしまっているから。

私はよくショッピングモールで行われるアーティストのフリーライブ(リリースイベント)を見に行っていた。

たまたまよく行くショッピングモールがあったからで、「音楽好きだし、芸能人見たい!」レベルの軽い気持ちで行っていた。

 

一番楽しみにしていたのが、ライブ後の握手会やサイン会。

もう、字面で追ってると「そこまでファンでもないのに握手会を観察するヤバい人」でしかないのだが、ここが好きだった。

 

ライブ終わり、握手会の会場が設営されてる間に、ライブの余韻に浸る人達。

祭りの後の高揚感の残り香が、なんとも趣深い。

そして、皆握手会なりサイン会の列に並ぶのだが、今から握手できるんだというワクワク感と緊張から来るドキドキ感が、ライブの残り香が消えそうなところに上乗せされていい感じの雰囲気が生成されていく。

 

そして握手の後の多幸感あるリアクション。

体がふにゃふにゃになる人、口を抑えて目が見開いてる人、涙して嗚咽してる人、友達同士でワッキャしてる人、推しに興奮してる彼女の話を微笑ましく聞く彼氏、

そして極めつけは、母親に連れられやってきた小さい子供。憧れの人に会えて喜んでいる姿がまぶしかった。

なんだろう。それぞれの幸せが溢れていた。アーティストも会場スタッフも皆、嬉しそうで、あれこそ世界平和だと思った瞬間だった。

 

とこれは、現代だからできる楽しみ方ではないのだが、とにかく私はこういう、俯瞰でエンタメを楽しむことも多い。

エンタメが中心にある空間を見ているのが好き。

 

そんなことも含め、「ミーハー」な人間だと思うのだ。

コロナ禍が明け、また、そんな素敵な経験が出来たらいいと思う。

 

 

ヤングケアラーの「私」の話 ⑤~最後に皆さんに伝えたい事~ 2021.9.17

皆さん、こんにちは!!こんばんは!!

私、みぞ!自身の事について書いてきたこの一連の記事。

今回で最終回です。ここまで読んで頂いた皆さん本当にありがとうございます。

今日はじめて見たよ!って人は、過去の記事を下に貼っておくので、是非読んで頂ければなと思います。

 

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私の「わがまま」

前回まで、私の苦しみやしんどさの背景、そしてそれはどういう事だったのか、そしてどうしていきたいのか自分なりの考えも含め書いてきました。

ここからは、総括のような。あとがきのような。

今、私が思う事を最後にお伝えしていこうと思います。

 

突然ですが、今回のこの一連の記事は、自分の「わがまま」の塊です。

もちろん、これを読んで同じように苦しむ人の心が軽くなったり、相談しやすい環境・社会作りの一助になれば言う事なしですが、そこまで私には影響力は無いですし、正直言うと、それが私の頭にまず浮かぶ思いではありません。

では、一番は何か?

まず最初に思ったことは「誰かに聞いて欲しいな」という思いです。

日頃、ブログを読んでくれている方、仲良くしてくれている方に私の事をちょっとでも知って欲しかったんですよね。

 

ここまでで触れたように、ヤングケアラーは、社会との価値観のズレにとても悩まされます。そしてそれによって影響されやすい。

どんな状況であっても、周りには「なんともない」ように振舞う。そこに対してもパワーを使い、疲れてしまう。そういう傾向にもあります。

実際、私もそうです。

 

今、私は幸い、一人ではないどころか、音楽や作品を通じて沢山のお友達(そう言っていいか分からないけど)がいて下さっています。

ですが、どこかで、「自分は皆さんと違うしな」「皆さんが思ってるようなちゃんとした人間じゃない」と思ってしまう瞬間があるんですよね。

それは、自分が装ってる部分があり、それ故に自分をさらけ出せない故の感覚だと思います。

未だに「理解されない」「恥ずかしい」ものだという認識もあります。

それ故に仲良くして下さってる方にも、私自身の事を言い出せず、少し嘘をついてしまった事もありました。申し訳ない。

おそらく、私がここまで合計2万字近く費やして書いてきた事、その全てをしっかり読んでくれている方はいないだろうし、自分の全てが表現できたとも思っていない、それに読んだとしても理解できない、むしろ反感を持たれるかもしれない。

でも、そうだとしても少しでも知ってもらいたいし、言葉にすることで向き合いたい、もう隠さずいたい。

知った上で歩み寄って下さる、その場で待っててくださる方がいるのなら...!と思い、今回は記事を執筆しました。

そういう意味で、この言葉たちは、あくまで私の個人的な承認欲求のため、「わがまま」の権化なのです。

 

「甘え」を許さぬ社会の中で生きる

そして、そんな思いではりますが、正直、「甘え」の部分も多少なりはありますし、皆さんが一連の記事(ないし部分的に)を読んで、「甘えてる」「もっと大変な人もいるのに、可哀想アピールかよ」「被害者面すんなよ」と思われた方、おそらくいると思います。

ヤングケアラーの人間は、「打たれ弱い」という傾向も実際あるそう。

私もその意見自体、否定する事はできません。そういう思いも、今までいっぱいしてきたから。

ここまで事実を書いてきたつもりですが、これらはあくまで主観的な文章です。

「不幸自慢」だと思われても仕方のないものだと思います。

実際、自分が自分を惨めな存在に堕とすことで自分を維持してきたのも事実なので。

 

また、もっと広い視点に立てば、私より大変な家庭環境に置かれている方は五万といます。まだ「どうしようもない」状態に苦しんでいる人もいる。私のように、弱音を吐いて、声を上げられない人もいるでしょう。

 

そういう声もある、そういう世の中で生きなければいけないという事も事実だということ。

「社会との矛盾を受け止めなければならない」

これはカウンセラーの方とのお話で出た言葉です。

実際、どんな境遇だろうが何を経験しても”社会”の中で生きていかなくてはなりません。その中では、私が感じたどうしても埋められない溝が存在する。そして冷たい言葉や痛い言葉を浴びせられることも当然あります。不条理な事もたくさんある。

でも、そこで何か社会に対して不満や文句を言っていても何も変わらない。

社会の中で、人の中で生きていく以上は、そこに適応するしかありません。

私たち、「惨めだね」って肩寄せ合っていても状況は変わらない。

むしろ、それこそ自分で自分を社会から外れた存在に置き、どんどん不幸ポイントを溜めてしまうだけです。

だからこそ、自分の痛みや苦しみを偽りなく、真正面から捉え、「甘え」も「わがまま」も全部受け入れ自分と向き合う。そして、しっかりと社会の中で耐え忍べる忍耐力を鍛える事が必要だと考えています。

そうじゃないとこれからもずっとどこかで「家庭環境が...」と努力を怠ったり苦汁を飲む事になるから。

 

誰もが何かのマイノリティ(「違い」を持っている)

「私より大変な人はいる。だから自分の吐露は「甘え」なのだ。だから私はまだまだ頑張らないといけない。」

そんな話をしたばっかりですが、逆の事を今から言います。

私が冒頭、そんな影響力はないしと言いましたが、私が思いや考えを発信する事で、今苦しい人が少しでも楽になれる、そしてこれから苦しむ人が一人でも生まれない社会に一歩でも近づいたらとも思っています。

 

確かに私より酷い仕打ちを受けたり何かを強制させられたりしている人は沢山います。

ですが、依存症を持った親がいた、虐待をする親がいたなどそれぞれの経験が与えたその人自身の心の傷は、甘えでも言い訳でもない。ましてや批判されることでもありません。

本来そんなことは無いに越したことはありません。

そしてその心の傷は、皆それぞれです。自分にしか分からない。

それに優劣も大小もない。皆それぞれの痛みや苦しみを持っている。

それを糧に出来る人もいれば、出来ない人もいる。頑張れる人もいれば頑張れない人もいる。

だから、本当は「社会の矛盾を受け入れ、ファイトポーズ取らなきゃ」よりも、

「甘え」であろうがなんだろうが、皆が受け止めていける社会でないとダメなんです。綺麗事だけどやっぱりそう思います。

 

 

私は、こういう経験をしているからか、マイノリティ側の意見に共感することが多くあります。

”LGBTQ”や障害を持たれる方などが代表的ですが、もっと広義に言えば、精神疾患を持つ方、依存症を患う方、そしてその世話をする私のようなヤングケアラー、そして人より少し敏感で生きにくさを持っている人々を指す”HSP”の人など、誰だって何かのマイノリティであるんじゃないかと私は思います。

www.nhk.or.jp

特にHSPなんかは、一説によると3人に1人が当てはまるのではないかと言われていたり、とても身近です。

障害や病気、疾患などはなくても「何か人と違うな」「意見が合わないな」と思う事は皆どこかであると思います。

だから、代表的なマイノリティに対して「自分は関係ないから」ではない。

皆が持つそれぞれの痛みや苦しみは考え方によっては、マイノリティで、「関係ないから」で無視したその行為は自分の首を絞める結果になり得るということです。

 

だから「自分は人より恵まれてるから...」と我慢する必要はないし、「痛い」「辛い」 「苦しい」と誰もが声高らかに言える。そんな世の中になっていって欲しいなと思うんです。

痛いものは「痛い!」って苦しい時は「苦しい!」って言って良いんです。

そこにいちいち意味があるとかないとか、自分の気持ちや考えがまとまっているかいないかで、躊躇わなくていい。

ましてや「周りと比べて自分なんか。」という視点もいらない。

しんどかったらずっとしんどいって言っておかないとダメなんでしょうか?

そんな事ないし、「ちょっとしんどいな」ぐらいでもいい。

ずっとめちゃくちゃしんどいという訳ではない。何とかぎりぎりでそう見えないように振舞ってる場合もある。

だから、見かけだけで判断して欲しくないし、正論を振りかざすのではなく、誰もが気軽に甘えて甘やかしてもらえる、気軽に相談できる社会にならなきゃと思います。

そうすれば、LGBTQや障がい者の方、ヤングケアラーだけでなく皆が、生きやすい社会になると思います。

そういったことが、「違い」を認める事であり、多様性を認める社会に繋がっていくのではないでしょうか。

 

分からなくても「分かりたい」と思ってくれるだけで救われる

そういう経験をしているから偉いとか、裕福に生きてきたからなんだか申し訳ないとかそういう論点になってしまう事、度々あると思います。

それに、「分からないから否定する」事も多くある。

でも、そこはそういう視点じゃなくて、ただ悩んでいる苦しんでいる人が周りにいれば「分かりたい」という姿勢で話を聞いてあげて欲しい。

何も「分かる」必要はないんです。むしろ分からなくて当たり前の事もありますし。

私自身も、最近いろんな人と話をする中で、皆さんそういう姿勢でいてくれるので、なんとなく前を向けている気がします。

 

精神疾患は連鎖していきます。

決して「自己責任」なんかじゃない。

その人だけでなく関わる周りの人の心まで削っていく、蝕んでいく。

実際、私も数十年、ずっと「耐える」「我慢する」事で必死で、ある意味「動けず」にいました。だから、将来の事なんて二の次でした。でも社会の流れは一定で進んでいく。だから、どこかで大きなズレに気づくんですよね。それが私は今でした。

どれだけ水を注がれても、水はたまらずこぼれていく。

私の心の中はいつもそんな感じでした。耐える事がスタンダードで、期待値が著しく低かったから。

そういった劣等感や疎外感や孤独感そして、それが引き起こすライフコースの歪曲や、メンタルの機能不全はその子供、そしてその子供...とずっと連鎖していきます。

 

ずっと過去に縛られてその埋め合わせを自分ではない、子供でしようとしてしまったり、自分の受けた辛さを誰かにも味わわせようとしたり様々。

だからどこかで止めなきゃならない。

その人もそうしたくてしたい訳じゃない。だけど酷くなればなるほど支援する周りの人間はその人を「悪者」としか見れなくなります。

そんな悲しい負の連鎖を止められるように、そもそもそんな連鎖が始まらないように、「分かりたい」と思ってる、だから聞かせて。って姿勢が、連鎖を止める一番の方法だと思います。

そして、「メンタルが弱い」などと揶揄する事がなくなり、精神疾患を患う事自体が「悪い事」と捉えない社会になればと思います。

 

「分かりたい」と思ってもらうためにも、自分自身「分かってもらえるように」努力しなければならないなとも改めて。

 

言葉にするメリットとデメリット

「ヤングケアラー」という言葉、そして今話題に出したLGBTQやHSPなど、様々な呼称があります。このブログでは様々な定義づけされた言葉を用いてお話してきました。その中で書きながら感じていたのは、そうやって言葉として定義し使う事には、良いところも悪いところもあるいうところです。

こうやって知らない人に認知してもらい分かってもらう際は、分かりやすく説明できるためとても良いと思う一方、その言葉によって問題が矮小化されたり、簡素化されてしまうという悪い点もあると感じています。

「ヤングケアラーだから~だよね」

「障害者だから~すればいい」

というように、単純で浅はかな思考に結びついてしまう可能性もあります。

そういう点でも、この一連の記事はあくまで「私」の話であって、一括りに「ヤングケアラー」といっても悩める問題も状況も、千差万別だという事を改めてお伝えしておきます。

そして、呼称はあくまで「知って貰うための目印」であって、その人それぞれに寄り添った考えを皆が出来るようになればいいなとも感じます。

 

音楽とドラマが好きでホントに良かった!!!

そして最後にですが、ここまで私が壊れずに伏せずにまだ回復できるレベルの状態に維持してくれたのは、間違いなく音楽やドラマなどの作品のおかげです。

音楽やドラマについて書くこのブログでも度々、「音楽はすごい」「ドラマはすごい」って記事を書いてきましたが、あれはまさに私の体感です。

いつもどんな時でもそばにいてくれて、味方でいてくれて居場所になってくれました。自分の感情や思いを認識するための、語るための”言葉”を与えてくれました。

自分とは違う視点に立たせてくれ、社会との距離が離れている時も、社会と私を繋いでくれました。

誰かを思う気持ち、想像力をくれました。

そして音楽やドラマが沢山の人と出会わせてくれました。

そのおかげで辛かった約10年。

完全に孤独にはならず、今までいられました。

エンタメは同じ価値観や「好き」を持ってる人と簡単に出会える魔法の産物です。

改めて皆さん仲良くして下さってありがとう。

 

そしてそして、音楽は、ドラマはエンタメは私に無限に広がっていく感情で溢れる世界を見せてくれました。

決めつけも優劣も、是非も、理由も関係ない。

なんとなくのニュアンスで生きられる世界。

綺麗事を夢見てもいい。わがままでいられる世界。

そういう意味で、エンタメの世界は、私がなって欲しいなと思う全てがある世界です。

実体はないけど、それがそばにあるだけで、希望を持てる。

 

だから、これからもそんなエンタメが誰かの命綱となって少しでも誰かの気持ちを軽くしてくれるといいなと思いますし、私もそんなきっかけになれるようなブログを書けたらいいなと思っています。

 

最後に。

皆さん!改めてここまで長い長い長い文章を読んで下さいましてありがとうございました。書きたい事伝えたい事はもう伝えた...かな。と思います。

とにかく、「伝えられる事、伝えたい事は全て文字に!!!」という思いで書きましたし、しかもこの文字数なので読みにくいまとまりのない文章だったと思いますが少しでも伝わっていればなと思います。(私も後半、頭がぐちゃぐちゃでした(笑))

 

また、今のコロナ禍の状況。気づけば多くのものが制限されてしまう世の中になってしまいました。中には学生時代の行事や「青春」を奪われたと感じている、そんな風に恨み節も出ずに、気分が落ちている学生さんも多くいると思います。

学生さんに限らず、自分が何かしたわけではないのに、選択肢を減らされ、強制される。そんな状況に鬱々としている人が多くいると思います。

そういう意味では、私も同じような体験、「自分で選択できない」「他に強制される」という思いをしてきた事もあり、日々いろんなことを思います。

なので一言、我慢が続く毎日ですが、決して自分の「好き」や「したい」と思う事を否定しないように、自分を否定しないように。

心の中だけは自由にいて下さい。

そして、衝動的に何かに頼ってしまいたくなりますが、依存には注意してくださいね。

 

そして私自身、これでどうなるとかはないですが、自分自身は前に進んでいきたい。というかまずはちゃんと自分らしく社会の中で生きられるように、今は引き続きカウンセリングを受けながら徐々に頑張っていきたいなと考えています。

今までは出来なかった、「思い切り楽しむ」「好きな事を全面に出す」

をできるように!!頑張りたいと思っています!!

ということで、引き続きこのブログをよろしくお願いします!!

そして、Twitterでも是非絡んでやってください!!

(色々な人と話をするのも大事なので、お暇であればどんどん絡んでやってください!!)

 

ありがとうございました!!!!!!!!!!!!!!!!

スッキリした~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!

幸せになるぞ~~~~~~~!!!!!!!!!!!!!!

 

 

ヤングケアラーの「私」の話 ④ ~今の「自分」へ伝えたい事~ 2021.9.16

皆さん!こんにちは!!こんばんは!!

自分についてお話するシリーズもとうとう、4本目です。

ここまで長ったらしい文章にお付き合いして下さった方本当にありがとうございます。

それだけで私はとても嬉しいです。

まだ「見てないよ!」って方は、是非、サラッとでもいいのでご覧になって貰えると、ありがたいです!!

 

 

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前回までは、具体的に自分が経験してきた事、何が苦しかったか悩んできたかをお話してきましたが、ここからは、「じゃあどうするの?」「今どう思ってんのよ?」

という結びの部分に入っていきたいと思います。

 

カウンセリングってすごい。

まぁ、なんだかんだあったんだなという事はここまで読んで下さって分かって貰えたかなと思いますが、私は現在、カウンセラーの人に相談に乗って貰っています。いわゆるカウンセリングというやつですね。

実は幾度となく「カウンセリングを受ける」という選択肢は頭の中に立ち現れていました今まで。ですが、やはり、抵抗があり踏み出せずにいました。

ですが、これからは学生でなく仕事をしていく日々がお陀仏になるまでしばらく続く訳で、つまづきを感じたならここで向き合わねば!という事で、

「これもいいきっかけ!(というかもうこれしか手がないだろ!)」的な感じで、カウンセリングを受ける事にしたのです。

まぁカウンセラーさんもいろんな方がいますから、一概には言えませんが、私の場合の肌感を少しお伝えしようと思います。

とりあえず思うのは...

 

「行ってよかった」

 

この記事の冒頭から感じていると思いますが、私の悩みや苦しみはめちゃくちゃ主観的で割と漠然としたものが多いんですよね。

そんな状態にもかかわらず、こうやって皆さんに「~だから~という状況」みたいに体系的に話せてるのは、カウンセリングを受けたから、そのおかげなのです!

なので、これまで10数年間は、根本的にはもっとドロドロめんどくさい状態で感情も考えも頭の中で散乱していた状態でした。

 

まぁ主観的というのは人間皆そうだと思うのですが、私は特に「人の顔色を伺う」や「自分の考えを抑え、周りを優先する」「考えすぎる」などという「サバイバルスキル」の暴走があったので、認識や思考にはおそらく人よりかなりの歪みがあります。

それは前々回の記事なんかでお話した、早期不適応スキーマの中の「自分より他者を優先するから、相対的に自分の存在価値が低くなる」という現象が、まさにそうで、自分は良いと思っていても、反転して悪い方に作用している、自分が過剰に悲観的に認識しているという節は確かにあるからです。

 

そういった「認知の歪み」も、カウンセリングを受ける前は、しっかりと認識することが出来ませんでした。

また、カウンセラーさんは情でモノを言わない。つまりちゃんとした理論に基づいた客観的目線で、私に対して疑問を投げかけたり、指摘してくれます。

今まで漠然とした不安や苦悩だったものが、構造的に理解できるとかなり気持ちとしては違いました。(私が理論的に理解するのが好きだからもある)実際、先ほども言いましたが、そういう構造的・体系的理解があったからこそ、今この記事を書くに至りましたからね。

だからといって、辛辣過ぎず、しっかりと寄り添う姿勢、いわゆる”傾聴”の姿勢を取ってくれるから、とても話しやすい。

初めてカウンセリング受けた時は「すげぇ...」って唖然としました(笑)

 

見せかけの「自分」と本当の「自分」

ついつい、話が逸れてしまいますが、そんなカウンセリングの最初に言われた事は、「あなたには二人の「自分」がいる」

 

なんだかスピリチュアルな怪しい雰囲気になってしまいましたが、解説しますね。

私には「見せかけ」の自分、つまり「サバイバルスキル」を使い社会において、その場において一番都合の良い人間を演じる自分が極めて強く存在します。

カウンセラーさんが言うには、本来人間は、一つの〇を「自分」とすると、そのコアの部分が「本当の」自分、そしてその周辺を「見せかけ」の自分として場合に応じて見せてうまく生きているそう。

ですが、今の私は一つの〇が二つに分離して”見せかけ”と”本当”という二大巨頭になっている状態。

今、二大巨頭と言いましたが、実は私の場合は”見せかけ”の〇が大きくなって、”本当”の〇が小さくなってしまっている。つまりほぼほぼ”見せかけ”の私!!って訳です(笑)  ヤバいですね!

 

 

f:id:mizo0118:20210909171035p:plain

(図を作ってみたけど、センスが無さ過ぎる...

一応、左の状態が正常で、右の状態が今の私)

 

本来、家の中は「本当の自分でいられる場所」だと思います。

そして外では、見せかけの自分としてその場に応じた姿を演じる

でも、私の場合は家でも自分を我慢し「その場に応じた姿を演じる」ことで日々を過ごしてきました。

それ故に、「本当の自分」でいられる場所がなかった。

「見せかけ」ばかりを使うことで、「本当」の自分の出し方が分からなくなって、その結果「見えかけ」が優勢になり、「本当」の自分なんか、まるでいなかったようになってしまったのだと思います。

 

ずっと誰かに気を使っている。

だから、本心として、自分のしたい事だったり、自分自身で選択するという事が実はよく分かっていません。我慢したり、他人に合わせた結果、分からなくなってしまった。そして、幾度となく諦めたり我慢したりしてきたことで、「したい事」を思い切りする事に罪悪感を持ってしまいました。

 

ここまで話してきたように、私の家の場合、私が我慢したり自分が間に入る事で、被害も最小限に済んだ。

表面上の平和は維持できたんですよね。

だから、いつの日からか我慢してこのままでいる方が楽になってしまった。

我慢する事、耐える事、他人を優先する事に慣れてしまった。

ですが、今思うのは、長い視点で見ればその我慢は、少しずつ自分の色を消していって、重い問題になってしまうものだったんだなという事です。

それは、自分で”不幸”になる選択肢を選び続ける事でもあったし、解決どころか自分で呪い続ける事を選んだ事になってしまったんですよね。

 

今の自分へ伝えたい事

カウンセラーさんから、そのような話をされて、とてつもなく納得してしまった私だったのですが。

じゃあ私これからどうしていけばいいのか!!というところですよね。

これは誰に言われるのでもなく、自分で考えなければなりません。

それが「本当」の自分として選択していくという第一歩でもありますから。

 

まず今までよく頑張ってきた。あなたは立派だよ。

でもそろそろ背中に背負っている荷物、少しずつ下ろしてもいいんじゃないかな。

 

私自身、これまで家族の事で、「少しでも家族が良い方向に向いていくように」と周りの人にとって都合の良い人間を演じてきたけど、そこには「自分がダメージを受けないように」という気持ちも少なからずありました。

でも、結局それをすればするほど、自分は遠くに遠くに行ってしまったし、むしろ自分自身を閉じ込め、傷つけるようになってしまった。

私が今まで気づかなかったのは、自分が一番、自分を「惨め」にしているという事でした。自分は可哀想だ。惨めなやつだ。周りのために自分の事は度外視した。

それで安定していた。慣れていた。

 

「私の音楽やドラマに対する感性は、そういう経験があったから。」

そうやって、自分を正当化していました。

ここまでうまくやってきたのかもしれないし、それで得たものだってあったかもしれない。

でも、それでも、それが自分を傷つけるものに縛るものになっていたのだとしたら変えなきゃダメだ。

 

ここまで来て私が感じた一つは、そういう今までの誰かのための生き方じゃなくて「もっと自分のためにわがままに生きて」という事です。

ここまで、家族の問題を背負って、代弁者として緩衝材として、調整弁としての役割を知らず知らずに担ってきたけど、それは本来は必要のない事。

私が入る事で、事が収まる。「しっかりしてるから」という理由で、システムの一部を強いられてきた。

ずっと他人の顔色伺って、自分の思いを我慢してそれどころか否定して完璧でいようとしたけど、自分のためにも、誰かのためにもならない。

それはただの「サバイバルスキル」の暴走。

我慢してた方が楽かもしれないけど、それは長くなればなるほど、大きな傷にとしてずっと残る。

 

むしろ自分が辛くなってこの先、他の誰かを巻き込んで不幸にしてしまうかもしれない。だからもっと自分のやりたいように、好きなように、感じるようにそのまま生きて欲しいです。

そして、これまでの辛さや苦しさを理屈で正当化せず、「苦しかった」「辛かった」ってちゃんと言って向き合って抱きしめてあげて欲しい。

誰かがその気持ちを分かろうと、受け止めようとしてくれるなら、頼って欲しいです

自分が「仲良くなりたいな」って思う人には、「迷惑かな」と思わず、遠慮せず関わっていって欲しい。

年齢とか性別とか出自とか色んなこと考えず、まず伝える努力をして欲しい。関わる勇気を持って欲しい。

 

変に「こうしなきゃ」とか、「完璧にしなきゃ」とか思わなくていい。

あなたが否定していた「図太さ」も大事。じゃないとまた、自分でどんどん惨めなポジションに行っちゃう。時にはズルしても、嘘ついても良いんだよ。

あなたは、ロボットじゃないの、人間なんだよ。

そして誰かのための操り人形でも、システムの一部でも、スケープゴートでもない。だから自分らしくいる事を一番に考えて下さい。

自分をまず、真ん中に。家族からは少し一歩引いて今は考えるべき時だよ。

 

「やりたいことを」「好きなことを」って言うけど、家族のことがずっと頭にあって、自分で挑戦したり選択したりできなかったから、今は自分で何をすればいいか、何がやりたいのか、好きな事を我慢せずやっていいのか、分からなかったり戸惑いもあるだろうけど、少しずつでいいから。

自分で選んで自分で挑戦して生きていって欲しい。

しっかり者じゃなくていい、ちょっとぐらい”わがまま”でもいいと思うよ。

 

「自分はそういうタイプじゃないから」と自分の「好き」を隠しちゃダメだよ。

否定しちゃダメ。いちいち、やりたい事に意味なんかなくていい。

自分の思いに正直にいること、好きなことをする事にもう罪悪感なんて感じなくていい。とにかく好きな事、楽しいなって思う事、思い切りやって欲しい。

 

友達と気軽に出かける、気軽に電話する。

これからは出来るといいね。自分のペースで。

 

カウンセラーさんに言われた言葉で、印象深いのは

「”メンタルが弱い”は感情に敏感なことじゃない。それをどうコントロールするか」

あんまり色んなニュースや自分に関係ない話にまで共感しすぎないように。

「切り離す」「割り切る」も大事にして下さい。

 

 

 

もう一つは、そんな「本当の」自分で、ありのままでいられる「ホームグランド」をちゃんと作って、内と外をしっかり持つ事。

一人の自分としてそれぞれで無理なく振舞えるように。

 

前半で、”見せかけ”の自分と、”本当”の自分が解離して二つになって優劣ができていると言いましたが、それを統合して一つの「私」に戻す。そして、内と外で切り替える。

今まで私にとって、家は「戦場」でした。

つまり内でありながら自分がありのままではいられなかった。つまり外に近い状態でした。そして学校やその他の社会は当然、外です。

だから内が存在しなかった故に、「サバイバルスキル」が常に働いて、本当の自分は知らぬ間に消えてしまった。そして”見せかけ”の自分でいっぱいになってしまった。

本来なら内と外で、見せていいところ、隠すところを分けるべきところを、全部を見せるか。全部を隠すかのどちらかになってしまっていたようです。

 

だから、ちゃんと自分自身でいられる空間、パーソナルスペースを確保して、内と外をしっかりと分けて、自分をうまく見せられるようになって欲しい。一人の空間もだけど、誰かと共有できる空間で、「本当」の自分が出せればそれに越したことはないと思います。

 

そして、「やりたいように」「好きなように」いる自分は「絶対」だから。というか「絶対」持っててください。

どれだけ世間から「おかしい」「変だ」「欠陥だ」と否定されようとも、自分の内では「絶対」でいてください。

今まではずっと「正しく」いようとしていたと主けど、ずっと正しくある必要なんてないからね。

そもそも、「欠陥がある」とかそんな事は絶対にない。

生きてるだけで十分だから。

どんな事を言われてもそれだけは強く思っていいよ。

 

ということで!

ここまでが今の私の目標であり、自分の中で大事にしなきゃならないことです。

少し自分に問いかけてしまいましたが、同じように自分を抑えて、しんどくなっている人にも届けばいいなと思いました。

今回はここまで。

次回で最後です。次回は、私が皆さんに伝えたい気持ちを改めて。

次回も読んでくれるとありがたいです。では。