みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

ヤングケアラーの「私」の話 ③ ~私の世界は、皆の世界と違う~ 2021.9.15

皆さんこんにちは!!こんばんは!!みぞ!です!

今回も自分の事を書いていきたいと思います。前回と前々回まだ読んでいない方は読んで頂けると嬉しいです!!(長いですが何卒....何卒....)

 

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

 

いつ、戦争が始まるか分からないから「動けない」

前回までは私が家族の問題を解決しようとして自然と身につけた「サバイバルスキル」

それが、思わぬ形で自分に牙をむいたという事をお話しました。

突然ですが...どうでしょうか。皆さんここまでブログを読んで頂いて、分かって頂けてますか?どう感じているのかな。

というのも今日、お話するのは、社会や他者との感覚の差、”違い”というものにも悩んでいるというお話だからです。

 

前回までに学生までは何もしなくても「学生であること」「勉強で良い成績をあげる事」さえあれば、それ以外は「リスク」として選択しなくても何の問題もなく過ごしていける。だけど、社会人になると、そうはいかずなし崩しに一気に辛くなってしまった。という趣旨のお話をしてきました。

ですが、これはあくまでも、「ヤバいやつ」と思われないように、「ストレス」を出来るだけ感じないように、自分を最低限「守る」ための生き方です。

そう、学生生活には「青春」というやつがあります。

mizomone7118.hatenablog.jp

 

出来るだけリスクを避ける私の「サバイバルスキル」は交友関係において、「自分の本心は隠す」「自分の意見はあまり言わない」「できるだけ深い関係にならない」という方面に働きます。

そうなると、サークルに入るとか部活に入るとかそういう何かに所属する事自体、億劫になる。失敗を恐れるあまり、アルバイトも出来ず、そんな大学生活を送ることになりました。前回の記事を読んでもらうとそうなってもおかしくないことは何となく分かってもらえるでしょうか...

 

これも前回お話したかな?もう一つは、いつ「戦争」になるか分からないから、油断できないと感じていたからです。

高校時代になると「戦場」になる回数は、徐々に減ってきていました。それは父が少し断酒をしてくれたこともあったから。

(断酒したが故の反動もあり、それによる戦争もありましたが(笑))

ですが、自分の「サバイバル」本能?が、ずっと「戦場」だと思い込んでる。ずっと体が心が「緊張」している。

実際、いつそうなるか分からないという状況が家では続いていました。

その感覚が、いじめもなく穏便に過ごせる高校、大学にまで残ってしまった訳です。

何かに所属すると忙しくなる、忙しくなれば急に家で「戦争」が始まった時、私が仲裁に入れない、そしてその傷を癒す時間を用意できない。

中学の頃、テストの一日前の夜、テスト勉強の追い込みをしたかったのに「戦場」になってめちゃくちゃダメージを食らってしまったのはとてもよく覚えています。

中学の頃は特に、テスト勉強の時に「戦争」起きたら、もうテストは終わるぐらいの気持ちで、そちらの対策もせざるを得ませんでしたね...

 

そんなこんなで今の今まで、常にそんなことを考え、「何もしない」を選択せざるを得ませんでした。それが出来る環境にあったのがまだ幸いだったのかもしれませんが。

 

そんな「サバイバルスキル」の暴走に拍車をかけたのが、自分が他の人と違うという感覚。

そもそも私自身、「人の顔色を伺う」事が当たり前になっていたので、「人と違う」という事に強烈な劣等感や拒否感を持っていました。

言い換えれば、とても「普通」というものを気にする。

そのため、「サークルには入らなければならない」「バイトをしなければならない」

というような形だけの「べき」論のために、悩んだりサークルの体験会に行くなどしていました。今思えば、全然楽しくない無駄な事をと思います。(周りからも理解されないし)

私が苦しんでいるのは、自分自身の内的な面ともう一つ、それに伴ってついてきた「私は他とは違う」

そんな感覚でした。

 

生きている世界が違う 見えている景色も違う

「他の人には分かってもらえない」

まさにその感覚は中学時代からあって、私の取った「我慢する」「殻にこもる」という性質上、社会との距離は日に日に離れていきます。

そんな中、出会ったのが、好きな音楽やエンタメで繋がったTwitterのフォロワーさんなのですが、それはまた後々。

 

ここまで何回も言っている「戦場」という言葉。

家の中では防衛反応であっても、外に出れば異常行動。

それは要するに、自分(自分の家族)と社会のルール、評価軸、価値観に人より大きな差があるという事です。

私自身、つい最近までその異常なまでの防衛反応に自分でも気づいていませんでした。

ですが、その感覚は私にしかありませんでした。

ほとんどの人は、そういう経験をしていないし、私のとる行動や考えを理解できない。

だからこそ、それを話す事が出来ない。相談が出来ない。

そして、それは話してはいけない事なんだと。隠すべきものなんだと。

社会が「普通」で、自分は「異常」なんだと。

そう感じていたからこそ、疎外感や孤独感は、現実的なものになっていきました。

 

それに、前述したように私がリスク回避として経験しなかったものを、皆が共通の経験として持っている事、それが自分は苦しかった。何気ない「なにかクラブしてた?」とか「バイト何してた?」とかそういう質問に答えられない。

そこから話が進められない。

そういう共通経験がないことも私と社会を遠ざける大きな要因だったと思います。

皆の当たり前が怖かった。

 

また、言い出せなかったのは自分自身が「社会に都合の良い存在を演じる」のが皮肉にも上手かったからというのもあります。

後に、社会に出ると一気にガタが来ますが、前述の通り、学生時代は「勉強のできる真面目な子」「几帳面でしっかりしている子」と同級生にはもれなく皆から思われていました。

もちろんそれ自体が全て嘘という訳ではありませんが、その全てが自分の本心が反映されたものかと言われるとそれも少し違います。

そのイメージのおかげで、というかそれを維持するために、自分の弱みを見せられない。

「しっかりしている」

その言葉が自分を苦しめ、その型にハマるように向かわせ、誰にもその悩みを相談できないといった状況を生みました。

 

また、私は「短所は?」と聞かれた自己紹介の際は、「人見知り」なところ

といつも言っていました。周りもそれにたいてい同意します。そして自分自身「コミュ障」だとも思っていました。

ですが、それは自分のありのままの弱点ではありませんでした。それすらも社会に合わせたものだったんですよね。

だって皆「人見知りです!」って言いますよね。でも自分が悩んでるのはそういう漠然としたものじゃない。ちゃんとした明確な経験の積み重ねが生んだトラウマのようなものです。

ですが実際、社会に出ればその経験自体を喋るわけにはいきませんから、結局、形式的な「人見知り」と形容するしかありませんでした。

 

 

そして、もう一つ辛い事、やはりここまで説明しても「結局、甘えてるだけじゃん」「自分で何もしようとしてない」と言われてしまう事です。

そもそもここまで説明すること自体、文字ならまだしも口頭では無理です。しかもこの類の話をすれば批判か、過度な慰めか、スルーかのどれかの反応しかありません。どれも苦しい。だから話さず、「人見知り」と形容する。

 

ここまで話してきて分かったと思いますが友達はめっちゃ少ないです(笑)

空気が重かったので、軽い感じで言いましたが、まぁここまで社会との差を感じ、実際、社会に対して相談するどころか自分を隠すのだから、当然深い友人関係はなかなか生成されません。

 

腹を割って話せないためため仲良くなれないし、仲良くなりすぎるのが怖い。

だから一人になっていくという訳です。

人間って難しいですよね~

 

 自分が選択している感じがしない。強制された「苦労」

 社会と自分との間に大きな溝があって、一人になってしまう。

それが私の辛さの外的な面です。

ですが、私は「一人」が好きですし、むしろ大人数は苦手です(それは本心で)

だから孤独は耐えられますし、それ自体は何も嫌な気はしない(と思います)

じゃあなんだよ?ってなりますよね。

それが自分の選択ではない。選択肢を奪われた上での結果であることが悩ましい。

何をするにしても「家庭環境」の事が足かせになる。気がかりだ。

だから自分で選べない...いや選んでいる感じがしないという感覚がずっとありました。

 

「若い時の苦労は買ってでもせよ」

なんてよく言いますが、私のように環境に強いられるような苦労。つまり自分で選べない押し付けられた苦労、そんなものはしないに越したことありません。

多くの事ができず、心にも大きな傷を残したこの何十年間、正当化しないとやってられない。

だから「こういう経験があったからこそ、思う事が考えられることがある」

と今まで思ってきましたが、それは間違いです。

もちろん、その節もありますが、それをそんな風に口実にしてはいけないと思います。

だって不条理で選択のできない状況はを”苦労”なんて言葉では表せないから。

 

それに社会も、私が「ずっとそんな境遇で生き抜いてきたからその自負はある!」と思っていても、それを「苦労」として評価しない。

それどころか、たとえ家庭環境が原因で苦労してきて、私のように他者に対しての振舞い方につまづきを感じたとしても、周りからは「陰気な奴」「能力がない奴」「怠惰な奴」という評価しかされません。

前回話したように、私がしてきたことは社会の評価軸では論外、無意味、むしろ最低評価に繋がってしまう。

社会は、自分で選択して立ち向かい何かを得るための「苦労」しか美徳としません。

就活時も、「学生時代に頑張った事は何ですか?」という定型の定型の定型の疑問を投げかけられますが、それも自分が「苦労」した経験の中で、何を得たか見るもので、それは大抵、自分自身が選択したものである事が前提である気がします。

そして、ネガティブなものは忌避したがる。

「強いられた苦労でも学んできたことはある!」とそれを相手に話せたとしても、「ネガティブ」な要素として判定される。だから、それは無かったことにするしかない訳です。(福祉系のお仕事は別化もしれませんが)

だから就活時はとても「苦労」しました...(笑)

 

と!今日はここまでにしましょうか!!

今日は、主に社会と自分自身の間にある溝、壁が私をしんどさの一つであるという事。他者に分かってもらえない、他者と話が合わない、それどころか社会から否定されてしまう。だから、自分を偽る。だけど社会と他者との差は埋まらない。そんな辛さ。

そして、とにかく何をするにも何を考えるのも父親の事が頭にある、そして何をするにもその出来事が足を引っ張る。選択肢を強制する。その苦しさについてもお話させていただきました。

ここまで読んで下さりありがとうございました!!!次回も是非。

(多くのアクセスありがとうございます...!!ホントにありがとうございます。)

 

 

ヤングケアラーの「私」の話 ②~サバイバルしても良いことはない~ 2021.9.14

皆さん、こんにちは!こんばんは!みぞ!です。

前回に引き続いて、私自身の話をしていきたいなと思います。

(前回の記事を読んでいない方は、是非読んで欲しいです。)

mizomone7118.hatenablog.jp

 

「戦場」で耐えながらも、何とかしなきゃと思う日々

小中学校の時期に、父親がお酒に苦しめられていたという話をしましたが、中学ぐらいになると自分自身もその異常性に気づき始めて、自分でも行動を起こすようになります。今回は、そんなやっと家庭状況の不全に気づき始め何か「しなければ」と思った頃のお話から。

 

行動を起こすと言っても、前回述べたように、毎日お酒を飲んでストレス解消するが、飲んだことのストレスでまた飲むという負の無限ループ。

でも、本人は苦しい。だから責められない。でもでも、自分もひたすらその本人のストレスの受け皿として暴言を受ける。苦しい。でも...

というどうにもならん状況でした。

でもだからといってもやはり攻撃を受け続けてそのままという訳にはいきませんから。

 

小学生まではただ、嵐が去るのを待つというかただ「耐える」という行動しか取れませんでした。というかそういう台風とか雷とかそういうものと同じで、そこだけ耐えれば大丈夫なものと思っていたのかもしれません。

実際、その頃は、家族で旅行にも普通に行っていたし、楽しい事も多くありました。

ですが、「家族」と言う形に父は拘っているようで、母も割とそんな感じで。

今思えばその意識が私を苦しめたのかなと思ったり。(私だけでなく家族皆)

と脱線してしまいましたが、中学の頃になると同じ「耐える」でも、両親の言い合い(?)に入っていくようになりました。


「少しでも穏便に」

 

その思いだけで、父親を何とか諫めようとしました。

今思い返せば、「中学生でよく頑張った」と昔の自分に言ってあげたい。よく頑張った。その頃からそのストレスに耐えられなくなり、私が少し暴れてしまったりもありました。普通ならグレてもいいところ、私は基本、ケガしないクッションを投げたり父親の背中を叩いたり(マッサージかよ)しかしなかったのでこれも私らしいというか(笑)

完全に悪い方向にはいかずに良かったなと思います。

 

仲裁に入ったはいいが、大体私が暴れてその場が収まったかな。

前回もお話しましたが、父のキツイ言葉や怒鳴りには、ほとんど荒唐無稽な、どちらかというと本人のメンタル維持のために、私たちに対してストレスを向けられるようなものです。ですから、その時「話し合いでなんとか諫められれば」と思っていた私は粉砕されたのでした。だからこそ、行動した意味はなかったのですが、やるしかありませんでした。

 

よく私が例えで言うのは「日本語が分からない外国人に日本語で話すようなもの」

今も時々そうなのですが、そういう時にむしろ私が父に「この子大丈夫だろうか?」みたいな目で見られるんですよね。認知症の親御さんの世話をされる方も、そんな辛辣な経験をされているのだろうかと考えたりもします。

 

また話が逸れてしまいましたが、とにかくこの頃から私は週末や休み(場合によっては平日に)に突如と起こる「戦争」に備えるような日常になっていきました。

 

「戦争」にならないようにどう気を付ける??

どうすれば精神的被害を最小限にできるか??

 

それを一番に考えるようになりました。するといつの間にか、常に誰かに命を狙われているかのような、言うなれば「サバイバル」のような日々を過ごすようになります。

ずーーーーーっと緊張状態にあるので、当然、何もないフリーな時間でも心休まらない、楽しめない、それどころか何だか不安になる。今もその症状に苦しんでいます。

またそれに付随して我慢する事や自分の感情を抑える事、そして周りの顔色を伺う事が普通になっていきました。

 

いつ銃弾が飛んでくるか分からない、いつ爆弾が落ちるか分からない、どこに地雷が埋まっているか分からない。比喩としてこれを使うのは大げさと思われるかもしれませんが、感覚としてはまさにずっと「戦場」にいるかのようでした。

 

そんな辛い時に支えてくれたのが音楽やドラマでしたが、あくまで現実からの逃避、我慢としての側面が今より大きくあって、エンタメがあって良かったと思う一方、「耐える」事に、殻にこもる事を可能にしてしまったため、それに固執してしまう事になってしまったのは良くなかったのかなとも思います。だから苦い記憶の一部でもあったり。

 

自分が生き抜く=”家族維持システム”の一部になる

ここまでで「あれ?」って思った方がいると思います。最初は「何とかしよう」と行動を起こした私でしたが、どんどん私までが父のメンタル維持システムに組み込まれて巻き込まれて、一番嫌だった「耐える」事を悪化させる一途を辿ってしまったのです。

これが良くなかった。

だからそれを可能にした音楽やドラマに感謝する一方、苦い記憶もあると言ったのです。

 

そんな状況下で私が奇しくも育んでしまったのは、周りの目を、顔色を伺い、その場を出来るだけ穏便にするスキルです。

前述しましたがそれに伴い「自分」の気持ちや考えを封印し、色々な事を我慢して周りを優先するようになっていきます。

それは私自身が両親の「調整弁」に図らずもなってしまったから。

母親が罵倒され、父親が怒鳴るという状況下では、私しか真ん中に入る人はいません。だから、最初は父親の発言をできるだけ肯定する方に私が口を出していましたが、「言っていることはおかしい」というのが明白だったので、母親に付くしかなくなり、先ほども言いましたが、結局は私が泣きながら怒り、暴れる事でしか場は収まりませんでした。

毎回起こっていると、「もう嫌だ」と反射的に体が動いてしまうんですよね。

まさにトラウマというか。

そんなこんなで私は、意図せず、夫婦の問題に首を突っ込み、お互いの声の代弁者になり、二人の間の緩衝材になってしまいました。

 

それでも何とかしようと、母の弱音や吐露を聞いたり、両親の感情コントロールをしていました。

誰かのストレス、感情のコントロールを他人がするってどう考えても無茶な事を担おうとしていたと思うと、また自分を労いたくなりますが、そういう全ての行動が、むしろ、自分が今悩み苦しむ原因を自分で作り出すきっかけになっていたと思うと、100%労う事は出来ません。

そういう状況下で獲得した能力を「サバイバルスキル」というそうです。

 

平和な街の中で、銃を構え刀を振り回す

さっきから「サバイバル」と連呼していますが、過去に虐待を受けていた子供の事を「サバイバー」などと言うのを知っている人はいるかもしれません。それです。

 

何回も「しんどかった」と連呼するのもあれですがここは言わせてください。

しんどかった。

常に何かに怯えている状況が学生時代を網羅していたのは今思うと、なんて最悪だったんだ。と思うばかりです。

中学時代はそれに加え、いじめを受けていたのでなかなかにキツかった。

かばんは窓から投げ捨てられる、体は蹴られる、勉強の邪魔をされる、黒板消しでチョークの粉かけられる...そんな事されておきながら、学校に行かないという選択肢は取らず、行き続けました。

それで、家でもこれですから、休まる場所はなかった。それこそ、あるとしたら作品の世界だけでしたね。

私は妙に「負けず嫌い」で「根性」があるようで、「あと何日で卒業式か」を考えながら学校でも「耐える」日々を過ごしました。

そんなこんなで家にいても学校にいても心が休まらない中学時代は、なかなか大変でした。

 

「サバイバルスキル」

周りの些細な変化にも気づく、他者の気持ちや考えに敏感というのが、このブログにも表れていたり、私と話したことのある人はそういう点を「素敵だ」と感じてくれて、褒めてくださったり仲良くしてくれているのかもしれません。

 

褒めてくれる人や仲良くしてくれる人もいて、家では、ダメージを最小限に出来る。「サバイバルスキル」も良いように働いてそうだからいいじゃん。

 

と言われそうですが、決してそんなことはありません。

「家」の中では確かに良い方向に向く...というか、その場の命を守ることができるから良いのかもしれません。

ですが、いじめもなくなり「サバイバルスキル」を使わなくていい高校・大学、今に至ってもずっと私の頭は心は「ここは戦場だ」と反応してしまいます。「サバイバルスキル」が働きます。

先ほどまるで日常が「戦場」と表現しましたが、常に戦場で命を落とさないように警戒していた人が、いきなり平和な社会へ飛ばされればどうなるでしょう?

「戦場」と変わらず、とてつもない緊張感のもと自己防衛のための行動を変わらず取ります。銃を構え、いつ来るか分からない攻撃に常に警戒する。

ですが、そこは「戦場」ではありません。

 

銃を構えながら歩いたり、刀を振り回していれば当然捕まるでしょうし、ほふく前進しようなれば「あいつどうした?」と完全に「ヤバいヤツ」「頭のおかしい」やつと認識されてしまうのです。

この社会との感覚の差が時間が経てばたつほど、自分を苦しめていったのです。

 

自分を苦しめた「サバイバルスキル」

カウンセラーさんと話をする中で、興味深かったと言えば変ですが、私が学生時代、自分自身と向き合い改善に向かえなかったのにはちゃんとした理由がありました。

学生時代は、「サバイバルスキル」常時開放状態でも、問題はありませんでした。

私のサバイバルスキルは、基本的にリスクを避けるために我慢したり、周りの顔色を伺ったりするというものなので、学生時代は「学生」であるという以上のものは求められないので、それさえしていれば、「こいつヤバいやつじゃん」と思われたり、自分自身の中でも何か辛さを感じる事はなかったのです。

銃を構えながら歩いていても、路地裏にいたりすれば特別厄介な扱いを受ける事はないという訳です。

具体的かつ大雑把に言うと「テストで良い点取っていればいい」ということでしょうか。

 

ですが、社会人になって仕事を始めると一気にガタが出ます。

「社会に出る」

既にこの段階でも選択肢は無数にあります。

それに、その選択の先には無数の人や出来事がある。

そうなると今までは、何かが起きないようにリスクを避けながら、「戦場」でもないのに得体の知れない恐怖におびえながらも何とか、人の顔色を伺いながらうまくやっていましたが、配慮しなければならない人、出来事の数が増えた事で、全ての感情を受け入れ「サバイバルスキル」で対処することが出来なくなります。

むしろそれが足かせになるのです。

 

ここまで私の「サバイバルスキル」は、

①自分の感情や考えを我慢する 

②他人の顔色を伺い(感情を受け止め)、それに合わせて行動する

の二つを主に挙げてきましたが、他にも、

③意味のない完璧主義

④リスク回避のための異常な”先回り”

⑤考えることこそ正義。理論で自分の行動を正当化する”理論武装” 

がありました。

どれも、とにかく「慎重」という感じのもので「時間がかかる」ものばかりで、どちらかというと行動的ではなく消極的なものばかりです。

そして、そのどれもが程度が異常でした。

例えば、、

 

・テスト前は、テスト勉強の予定を立てないと気が済まない。だけど予定を立てる事に拘り、実際はその通りに勉強できず、予定を立てた意味がない。

・テストで出るところはある程度決まっているのに、全てを網羅しようとして、確実に出るところの勉強が疎かになる。

・見たいものだけ見りゃいいのに、YouTubeのチャンネル登録してるチャンネルの更新動画を、全部見ようとする。

・考えが浮かんだら、紙にまとめないと、頭の中にずっと居座って他のやるべきことができない。

 

などなど、これは日常の些細な事でしたが、まだまだあると思います。

今なお続くものもありますが、昔は完璧主義や先回りに関してはかなり暴走気味でした。

 

これらの状況で、逆に生活に支障が出てなかったのが不思議なのですが、社会に出ると、いちいち先回りして余裕を持って対処はできないし、完璧に決まった形よりもその場その場での仕事が大事になってきます。

なので、それらの点から「サバイバルスキル」が自分を苦しめる方に向かってしまったという訳です。

 

「しっかり者」であり「落ちこぼれ」

学生時代は「しっかり者」

でも、社会人になると一気に「落ちこぼれ」になります。

そうやって失敗が一気に増えるからです。

失敗しなくても、色々なところに気を回しすぎてそれだけでしんどくなってしまいます。

 

実際、私が働いている時もまさにそれを感じていて、私の仕事はデリケートでありながらスピードを求められる仕事だったので、失敗という失敗はなかったですが、精神的に背負いすぎてしんどくなってしまいました。

学生時代は表向きは完璧。

だからこそ「しっかり者」という評価を受けるのですが、それは「失敗をしないように」とやってきたリスク回避や多くの先回りのおかげであって、表面上でしかありません。

そして、何より自分より他者を優先するため、自分の存在や権利が相対的に薄くなっていきます。

私が感じていた惨めさや劣等感、孤独感は、もちろん父に植え付けられたものでもありますが、自分自身が意図せず植え付けていたものだったのです。

だから、誰に何かを言われた訳でも、攻撃された訳でもないのに不安になる、怖くなる。惨めになる。孤独になる。

そして社会人になって今までのやり方ではうまくいかなくなる。そしてうまくいかないどころか「仕事が遅い」「積極性がない」「頭でっかち」という悪い評価を受けるようになるのです。

今までは、存在しないリスクに怯え、それのせいで存在しない不安や惨めさを感じたりしていましたが、そういう架空のリスクに対しての行動が、実際の失敗に繋がってしまったという訳です。

そんな悪い評価の中、最悪なのが、「協調性のない」「反抗的」というものでした。

 

それは、今まで”失敗”を恐れ完璧でいることに固執してきた事で、失敗に対する対処法を知らないため起こったものでした。

失敗した時、通常ならば、失敗するのが普通、大したミスはそうめったにない。だから大抵のミスは体裁上「は~い。すみません」と謝れば良い。

そんなところだと思います。

簡単に言うと「とりあえず謝っておけばいい」

当然、ミスについて、反省して次に失敗しないようにしなければなりませんが、過度に落ち込みすぎることはない。それが実際自分のミスでなく不条理な場合もあるからです。

ですが、私の場合、失敗をした時、どんなミスであってもとんでもないミスをしたと捉えてしまいます。

これまでは表面上であっても完璧にこなしてきた、そして失敗や弱みは悪だと知らぬ間に思い込んでいた。だからこそ、一つのミスの重さが人とは全然違うんです。

そして、そのミスは、自分の存在を否定されたかのようなものに感じられるてしまうのです。

そうなるとどうなるか?

 

もちろん、辛い苦しい気持ちになりますが、通常のように「謝らない」

いや「謝れない」

だって、謝れば、自分の存在が否定されてしまう。だから認めるわけにはいかない。

だから結局、謝ることなく「でも~だったから」などと反抗する。

それが、相手に対して「謝っておけばいいのになぜ、言い訳をするんだ。反抗的なやつだ」という風に思わせてしまうのです。

これが「協調性のない」「反抗的」とされてしまう理由です。

 

私は小学校の頃、「ナルシスト」と言われたり、母親にも「あなたは何を言っても言い返す」と言われたことがありました。

自分自身「我慢してるし、周りのために動いてるし...」と全然、納得できなかったのですが、おそらくそういうことだったのでしょう。

 

 

ちなみに以上のような、今までは何とかうまくいっていたが、環境が変わりどんどんうまくいかなくなることを

「早期不適応スキーマ」と言うそうです。

(私もまだカウンセラーさんから聞いたばかりなので、少しばかり勉強してみたいなと思っている最中です。)

ja.wikipedia.org

 

ということで今回はここまで。

今回は私の「サバイバルスキル」について、そしてそれがどんな風に自分を縛ってしまったのかをお話しました。

父親からの暴言や家庭環境も辛いですが、一番は自分が「良かれと思って」

やっていることが、自分の首を絞め続けていたということでした。

次回は、今回もチラッと触れましたが、社会や他者との溝(みぞだけに?)、感覚の解離についてお話できればと思います。

今回も最後まで読んで頂いた方には感謝でいっぱいです。

ありがとうございます!

是非次回も読んで下さい!!

 

ヤングケアラーの「私」の話 ① ~依存がもたらす痛み~ 2021.9.13

皆さん、こんにちは!こんばんは!

このブログの筆者、みぞ!です!!

ちょっとでも読んだ事がある方、いつも欠かさず呼んでるよ~って方、この記事ではじめましてです!って方、

皆さんいつもありがとうございます!!

どんな形でも私の思いに触れてくれているのをとても嬉しく思っています。

 

ブログを開設したのは2019年。

ですが、本格的に更新を始めたのは約1年とちょっと前です。

最近は朝ドラ『おかえりモネ』を重点テーマとして記事を更新していますが、これまで雑談のようなものから、音楽やTVドラマに焦点を当てたものまで、約30の記事を執筆してきました。アクセス数も2500近い数字を記録しており、何だか感慨深い限り。

総アクセス数で2500は、ビジネス的?には、塵のようなものですが、それだけ読んで貰えてると思うだけで胸がいっぱいになってます。

 

さて、前置きが長くなっても良くないので、そろそろ本題に。

今日は折り入って皆さんに伝えたい事がありまして。

いつもブログを見て下さっている方はもうお気づきかと思いますが、今回の記事は普段とは違う「話し言葉」でお話させて貰っています。

何故かというと、伝えたい事とは「自分自身」の事だからです。

 

 

これまでも、様々な記事で広範に私自身のパーソナルな経験や思いの一部分を語ってきました。というかこのブログが「素敵...」と思ってくれている方がいるなら、その私自身の考えからなる作品への切り口に興味を持ってもらってるのかなと勝手に感じています。

 

ですが、自分自身に関して赤裸々に話す事はありませんでした。

それは、自分の事を「隠すべきもの」と感じていたこと、そして「それと向き合いたくなかった」と思っていたからです。

 

ですが、この二年ほどコロナ禍で皆が鬱々とした感覚を共有する中、私自身が経験したこと、感じている事を共有することで、同じような境遇にある方、そうでなくとも「苦しさ」を持っている方の手助けになりたい!と思った。

そして皆さんという”外”に対しての言葉として、自分を語る事で向き合わねばならないと今、思ったこともあり、今回、つらつらとお話しようと思いました。

 

まぁ実を言うと、大学卒業後、仕事をする中で色々思うところがあって、 

「あぁこのままじゃダメなんだろな...今何とかせねば。」

と思い、今回の記事やらに至っています。

ですので、自分の思いを言葉にすることで整理し、自分自身の心の整理の一環としても書いていきたいと思います。

 

Twitterなどで仲良くして下さってる方には、少々ごまかしたり嘘をついたりしてしまったこと申し訳ないなと感じていました。後ろめたさを感じる必要なんてないのだろうけど、なんだか言いづらくて。ごめんなさい。

そういう方にこそ、読んで受け止めてくれるといいなぁと感じてます。

 

 

 それでは少しずつ書いていこうかな。

 

 ヤングケアラーって何?アルコール依存症って何?

皆さんは「ヤングケアラー」や「アルコール依存症」という言葉をご存じでしょうか。

「自分自身」の話と言いながら、まずお話しなければならないのは私の家族の話。

私の親は「アルコール依存症」を患っています。そしてその子供である私は、「ヤングケアラー」と呼ばれる存在です。

 

はじめに、前置きですが、私の文章は親を否定したり恨んだり批判したりするものでは一切ありません。確かにそういう「怒り」とか「悲しみ」のようなものは文章から感じられるかもしれませんが、私は「誰もがそうなってしまう可能性がある。」ということを伝えたい、そして自分が自分自身と向き合うために書いていきます。

なのでバッシングはご遠慮下さい。お願いします。

 

 

まず、「ヤングケアラー」

最近注目を浴び聞いたことがある人もいるんじゃないでしょうか?

 

f:id:mizo0118:20210818153317p:plain

 (出典: 厚生労働省 https://www.mhlw.go.jp/stf/young-carer.html)

 

まぁ平たく言うと「親などの近親者の世話をする子供のこと」を言います。

「ヤングケアラー」という言葉は聞いたことがあっても「介護」のイメージが強いんじゃないでしょうか?私もつい最近までそう思っていました。

ですが、少し前からカウンセリングを受けるようになり、そこでカウンセラーさんに「みぞ!さんもヤングケアラーだね」と言われて初めて、「私ってそうなんだ。」と認識しました。

 

「親の世話をする」と言いましたが、私の場合、具体的に生活の世話をしたり、家計を支えたりと言った事はありませんでした。なので、いわゆる親の世話もしてバイトで家計を支え遊ぶ時間もない状態の人に比べれば、私は少し事情が違うのかなぁと思います。なので相対的に見れば、私はまだ楽な方かもしれません。

後々、書いていきますが、私が苦労してきたのは、主に、メンタル面です。

 

www.e-healthnet.mhlw.go.jp

 

アルコール依存症

昔はよく「お前アル中やな」的な感じでフランクによく言ってましたが(今でもスラング的にはある)、今はギャンブルや薬物と同じように”依存症”として定義されています。

 

アルコール依存症」というと、それこそ「アル中」と言っていた頃の

「一升瓶を持って常に酔っぱらっている酒好きのおじさん」

というイメージが、一番皆さんの認識に近いのでしょうか。

ですがそのイメージは当事者家族としては全く違います。

 

具体的には...

酒好き → 好きで飲んでいるとは限らない(主に酔いによるメンタル維持が目的)

一升瓶を持って → 一升瓶は持ってないし一見普通

おじさん →おじさんに限らず若い人も女の人も誰でもなり得る

という感じです。

うちの親も、最初は仕事のストレスをお酒で紛らわす程度の感覚だったようですが、徐々に「ストレスを感じる→お酒を飲めば解決」という思考回路ができてしまい、通常のストレス耐性やストレス対処のプロセスが崩壊し、精神バランスを立て直せなくなり、思考に歪みが出てきたという感じでした。

また、うちの場合、幸い?なのか暴力を振るわれることはありませんでした。まぁそれがあると、なかなか一緒に住むのすら難しいですよね。

 

ですが、逆にここまで聞くと「本人が一番しんどい」というのが透けて見えないでしょうか?好きでお酒を飲むならまだしも、ストレスを解消するために飲んでいて、いつの間にか呑まれた。

依存症は精神疾患の一つでもありますが、ここが精神疾患の難しさだと感じます。

どれだけ周りが自分が迷惑を被っても、大手を振って非難することが出来ない。

私の苦しみの原因もそれが大きかったように思います。

 

それを踏まえて、ここからは私の実体験をお話していこうと思います。

 

依存が心を頭を、全てをおかしくする

そんなアルコール依存症の父親を持っていて何が辛いか。

まず、家では休みになると昔から些細なことで、父親が怒鳴り始めます。お酒やそこから派生したお金の話が多かったかな。

 

お酒でストレス解消をする事。

それはつまるところ、ふわふわしたあの何とも気持ちよい感覚でごまかしてやろうという事です。なので根本的解決というより、アルコール物質を得た時の高揚感を得るためにお酒を飲むのだろうと思います。(直接聞いてないから分からないけど)

でも、お酒が切れると強烈にしんどいですよね。二日酔いとか想像すると分かりやすいですかね。

すると、また仕事のストレスにそのしんどさが追加される。となると、

仕事のストレス→お酒→体調優れないまま仕事→そのストレスでお酒.....

という無限ループに入ってしまい、ほぼ毎日家に帰ってこなかったです。それでも仕事には行っていたので、良かったのか悪かったのか。

家にいなさ過ぎて、小学校の頃は「私の家、片親だったかな」という認識すらあったくらいです。

私自身は、幼く特段意識することはなかったのですが、そりゃ毎日そんな生活してると、ちゃんと仕事するのも厳しくなってくる。お金もなかなかにヤバヤバな状態が続く。

 

そんなこんなで、母親も何とか症状が良くなるようにと手を尽くすのですが、休みの日は「戦場」になります。

ずーっとお酒飲んでると、思考回路としてよく分かんなくなるんでしょうね。

嫌な事、逃げたい事、ストレスの全部の処理をアルコールに頼るから、そもそも考えられなくなる、内省できなくなる。

でもそれがダメな事だっていう自覚は自己嫌悪としてはあるんだと思う。だからそれにアルコール無しで耐えられない。だから、アルコールが入っていないときは、少し何かがあると高圧的になります。

高圧的になるしかない。

だからなのか、父親が怒鳴るのは、筋が全く通っていないものばかりでした。

 

実際、父親は、自分が迷惑をかけていると分かっていても、それを負える程のメンタリティをもう持っていませんでした。

それ故に、周りを悪者にして自分の弱さを隠し、自分はちゃんとしてると思いこもうとするのかな。

何を言っても「否定されてる」「指図されてる」と言われます。

最近も「ダラダラしてるだけの出来の悪い息子に言われたくない」や「子どもになぜ指し図されないといけないのか」などと私自身もそのメンタル維持のための道具として罵倒され、なかなか苦しかったなぁ。

 

「何も分かっていない」「お前のせいだ」「金を出せ」どれもキツイ言葉ばかり。

今はお酒は飲んでないですが、些細な事で怒鳴られるのは変わってなく、それは「自分は断酒して頑張っているのに~」という気持ちから、私に対しても母に対してもつい強く口を出してしまうのだと思います。そういう点でもこの病気の難しさというのを痛感しています。

一度、そのプロセスやシステムが出来てしまうと、それを場合ごとに切り替えることができないのだと思います。というかそれを自分で認知できない。反射的なものだろうから本当に難しい問題です。

 

支えようとすればするほど傷ついていく

でも、そんなの関係なく一人の人間としては、傷つくし怖いし辛い訳です。

特に昔はまだ子供ですからね。そんな事情や理由は分かんないです。

本人が「ダメな事」「申し訳ない」と思っていても、それを受ける方は、理由もなく攻撃を受けるようなものです。

当時の私は「怒鳴り声」自体が恐怖になってしまいました。それは今も続いています。

幼少期の経験はずっと残るものです。今も怒鳴り声自体が苦手で、呪いとして残っています。

もちろん「意味はないしそういう症状だし」と今は分かり切っているのですが、やはり怒鳴られると、どんどん「自分が悪いのかな...?」という気持ちになってきます。

それによって、今も潜在的に「惨め」な気持ちや、劣等感というのも残って私の足を引っ張ります。

 

 それは母も同じで。

母親も必死で支えようと、居酒屋まで行き、連れて帰ろうとしたり、何とかしていましたが、やればやるほど、体力や自尊心が奪われていきました。

「依存症だから」「本人の辛さがそういう形で出てしまっている」とたかをくくっても、やっっっぱり、怒鳴り声や棘のある言葉は痛いし辛い。思っている以上に人の心に残るし、深い傷になります。それが「傷つける」意図が直接無かったとしても。

だから、言葉って凶器になるんだなと幼少から身をもって感じていました。

それを知れたことは良かったのかなとは少しばかり思います。

 

「なんでこんなに頑張ってるのに責められないといけないのか」

よく母親はそう言ってました。自分もそんな風に思う事ばかり。

 それに自分としては「頑張って支えようとしている母がなぜ、責められなきゃいけないんだ?」と子供の頃は、とても辛かったです。二重苦というか。

やっぱり自分が愛着ある人が罵倒されるのを何もできず見るのって辛いじゃないですか。だから今も、怒る時は、なぜか泣いてしまいます。

 

 というように、ただただ「アルコール依存症の人が悪い」では済ませちゃいけないのだけど、自分がそう思えば思うほど自分が背負わなければならない、辛くなっていくという事。

本人は苦しんでる。でもそれが攻撃的なものとして自分たちに襲い掛かる。でも責められない。でもしんどい。しんどい母親を見てもしんどい。

あらゆる板挟み、矛盾の中、それでも解決しない深刻な問題だなと思います。

そして辛かった。

そういう意味でも、これから全5回の記事に分けて少しでも「そういう事」があるって事を知って貰えたらなと思います。

 

今回は、ここまで。

次回は、そんな状況で、ここまで私がどう対処したのかお話できればと思います。

読んで下さりありがとうございました。

 

「世代」の音楽の消失 2021.8.14

つい最近、ある音楽番組を見かけた。その番組は、世代ごとに人気の曲を取り上げるというよくありがちなものだった。

だがそこで、ふと思った。「世代」で音楽を語ることは現代においてはもはや不可能なのではないだろうか。

その番組では、令和・平成・昭和と元号ごとに世代を分けて紹介していた。

昭和や平成初期において、ジャンルごとのストリームはあれど、ザ・ベストテンMUSIC STATIONなどの音楽番組が人々の音楽シーンの中心だった。

だが、徐々にインターネットやSNSの発達などの情報革命が進み、TVだけが音楽シーンを引っ張る存在ではなくなった。それどころか今や、SNSでの話題を追随する存在になっている。

 

そんな中で令和になった現代では、完全に、音楽のメインストリームはSNSに移った。

特にコロナ禍になって以降、ライブ活動を始めとするこれまでの音楽活動が制限されたことから、SNSにおける音楽発信が影響力を強めた。

『香水』の瑛人、『ドライフラワー』の優里など多くのミュージシャンが、短期間でヴレイクする様子がそれを表しているだろう。

誰もが情報を手に入れることが出来る。そして発信することが出来る。

自分の好みの音楽を自分で探し楽しむ。

それは音楽シーンの多元化を意味する。

 

これまでは、ジャンルごとのストリームがありつつも「J-pop」と呼ばれるジャンルを中心とした社会を構成する人々ほとんどが共通して持つメインストリームが存在した。だが現代においてはそのメインストリームは各々が、SNSを通じて構成するコミュニティの中に存在する。それを各々が共有し合う事で、常にアップデートされている。

このような状況ではもはや、社会の成員皆が共有しているメインストリームを前提とした「世代」による分類はあまり意味をなさない。SNSで作られるコミュニティの複数に渡り、連続的に”拡散”していくその大きな流れを、TVが疑似的なメインストリーム(以前の意味での)として取り上げているにすぎないのではないか。

 

 

確かに、自らが音楽をつくり発信でき、様々な音楽と出会えそれを共有し、コミュニティを形成することが容易な現代はとても素敵だと思う。

だが、筆者は、子供の頃感じていた皆がその音楽を共有しているという一体感、それこそ「世代」と称されるその感覚が現代では感じにくくなっているのが、少し寂しい。

 

思えば2000年代、2010年代前半はAKB48EXILE、嵐、SMAPといったグループが音楽シーンを席巻していた。

「あれは音楽じゃない」「口パクだ」「またAKBかよ」など、その状況に対する批判もあったが、今思えばそれも懐かしく思い出される。あの一体感が恋しい。

 

人間はないものねだりだ。

その頃は、「もっといろんな音楽が出てきて欲しい」と思っていたが、それが実現された今は、逆にあの頃当たり前にあった「誰もが知っている音楽」を求める。

情報が双方向的に高速でやり取りできるようになり、情報の送信者にも容易になれ、どんどん進歩しているのに、足りなさを感じてしまう。

 

また、SNSやインターネットの発達がもたらしたのは、情報の量や速度によるものだけではない。それは「可視化の強制」だ。

 

昔は、音楽の価値なるものはその人の感性により決まるとまだ言えたが、現代では、「いいねが多い」「再生回数がトップ」「TikTokで多くの人に使われている」など、数字としてその人々の反応が可視化されてしまう。

そして、前述したようにテレビはSNSの特に強いストリームを掴み特集する。それ故に以前より、音楽に相対的な優劣があるような印象を抱かせる仕組みが自然に出来上がってしまう。

 

また何より可視化の強制は、「感情の強制」なる現象を生んでいるのではないか。

「エモい」がその一つだ。

音楽は本来、定義されるものではなく、言葉とメロディで描かれる部分から、描かれない部分を受容者が補って(想像して)楽しむものだと思う。

そのため、その曲を聴いた時の印象は人それぞれだ。

だが、現在では、何としてでも一つの言葉で言語化してやろうという傾向が強い気がする。

「エモい」曲と表現することは、その時点で「エモい」という感覚が失われている気がする。

 

ここまでの文章を見返すと、とても懐古廚のようになっているが、現代の音楽のありかたや、消費形態を批判するわけではない。ただ、SNSやインターネットの発達で音楽の楽しみ方が多様化する中で、以前はあった音楽の一体感や表現されない「間」が消えつつあることに寂しさを覚えるという感じだ。

 

 

さて、何となく書き出した文であったが、書く中で、テレビが音楽のメインストリームをつくり、皆がそれをいちいち意味や数字を考えず、楽しんでいた頃の音楽を思い出したので最後に紹介して終わろうと思う。

それは、バラエティの企画で歌われた音楽だ。

 

youtu.be

とんねるずのみなさんのおかげでした』から生まれた矢島美容室の「ニホンノミカタ-ネバダカラキマシタ-」

お笑いコンビ「とんねるず」と気志團綾小路翔が扮す...ではなく、似た人物が歌っていた。当時はふざけて笑っていたが、歌詞を読んでみるとなかなか考えさせられる。FNS歌謡祭なんかにも出ていて、当時口パク疑惑が番組でネタにされていたのはよく覚えている。

 

youtu.be

22年間に渡り放送された『めちゃイケ

その中の「オファーシリーズ」と呼ばれる企画で、ナインティナイン岡村隆史が、EXILEのライブに乱入に近い形で参戦した。その時に生まれた「OKAXILE

2007年、2012年と計二回このコラボは実現したが、リアルタイムで見ていた時のあのトキメキは今も忘れられない。

 その様子が描かれたDVDも発売された。今でも欲しいなぁと思うほど、今でも大好きなコラボだ。

 

 

羞恥心

羞恥心

  • 羞恥心
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

当時大人気だった島田紳助が司会の クイズ番組『ヘキサゴン』で生まれたおバカユニット羞恥心の歌う「羞恥心」

他にも「泣かないで」や「我が敵は我にあれ」など、バラエティの枠を超えた良曲揃い。また番組に出演していた芸人などがユニットを組んで同じく曲を披露していた。

ちなみに私が初めて買ったCDは実は「WE LOVE ヘキサゴン」というヘキサゴンのアルバムだった。そういう意味でも思い出深い。

 

 最後に紹介するのが現在も放送中の『ロンドンハーツ』から。お笑い芸人狩野英孝が番組のドッキリ企画で「50TA」として謎に名曲を量産しまくった。

歌詞は意味不明、本当に意味不明。だが意味不明なのが良い。

歌詞を取り上げる事が多いこのブログで最も取り扱わないであろう楽曲が山ほどあるのが「50TA」だ。

だが、何が名曲かと言えばメロディだ。

狩野の作曲センス凄まじい。

感動系の「涙」、よく分からない系の「インドの牛乳屋さん」、盛り上がる系の「PERFECT LOVE」「ノコギリガール-ひとりでトイレにいけるもん-」など騙されたと思って色々聞いてみて欲しい。

 

さて、なんとなくで書いて長くなってしまったが、令和の時代、いつか未来で「あの頃流行ったやつね~」って、「なんとなく聞いたことあるな~」って皆でそんな感覚になれたらいいなと思うという小話であった。

 

【過去記事】

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

 

 

Twitterもやってます!フォローよろしくです!!

twitter.com

「自分のため」が「誰かのため」に『おかえりモネ』”東京”でモネが知る「役に立つ」の本当の姿 2021.8.11

 

東京編に入ってからの『おかえりモネ』3週のタイトルは、第10週「気象予報は誰のため?」第11週「相手を知れば怖くない」第12週「あなたのおかげで」と、そのどれもがとても具体的だった。

 

そんな第10週、第11週。前回の記事では、「伝える」ことの難しさを描いたと述べた。

だが、それと同時に第12週を含めたこの3週は、モネ(清原果耶)自身が東日本大震災を経験して以降、拘り続けてきた「役に立つ」の本質を問うものだったのではないだろうか。

 

第12週「あなたのおかげで」では、様々な登場人物の個人的な欲求や願望が隅々に垣間見えた。

モネの同僚である若手気象予報士の神野(今田美桜)は「報道キャスターになりたい」という夢を語り、モネにとって”師匠”とも言える朝岡(西島秀俊)は、あるきっかけから「スポーツ気象をやりたい」という思いを語った。

朝岡の願望が明らかになった”あるきっかけ”とは、第12週で初登場した車いすラソン選手、鮫島(菅原小春)が朝岡に自身のサポートを依頼したことだった。

そんな彼女も、「1位でゴールしたい」「とにかく勝ちたい」という誰よりも強い欲求を持っていた。

 

 

朝岡は「スポーツ気象」にこだわる理由をはじめ、地球環境が過酷になっていく中で、これからインフラと同じレベルで大事になる気象情報の重要性を、身近に分かりやすく伝えたいからと語っていた。

だがその後、朝岡が大学時代、駅伝選手として走っていたこと、そして大事な大会で天候を読み間違い熱中症でリタイアしていたことが明らかになり、「スポーツ気象」に拘るホントの理由が、その大学時代の駅伝のリベンジだった事が発覚した。

 

また、神野は「報道キャスターになりたい」という思いと共に

「自分が人に認められたい」「有名になりたい」

そんな欲求の方がシンプルで嘘が無いとその言葉の真意を語った。

朝岡も神野も、自らの「したい」「やりたい」という個人的な欲求や願望を元に、気象予報士という仕事に取り組んでいる。

 

そしてそれは、「とにかく勝ちたい」と誰よりも強く語る鮫島もだろう。

鮫島のサポートを中心にするようになったモネはある言葉を鮫島から聞く。

 

「私が100%自分のために頑張ってることが、巡り巡ってどこかの誰かをちょこっとだけでも元気づけられてたら、それはそれで幸せやなと思う。」

 

鮫島は、車いすラソン選手として、様々な人の助けを借りている。だから、そんな「自分の大切な人」のために走ろうと思うのが自然だ。

だが、鮫島はあくまでも「自分のため」に走ると言った。

誰かの「役に立つ」こと「他者のため」でいることではないのか?

そうモネも思っただろう。

 

「私が100%自分のためにがんばってることがな、巡り巡ってどっかのだれかをちょこっとだけでも元気づけてたら、それはそれで幸せやなって思うんよ」

モネは鮫島の頑張る姿に心動かされました。#おかえりモネ #朝ドラ#清原果耶 #菅原小春 pic.twitter.com/mhiFuZ2Tsx

連続テレビ小説「おかえりモネ」 (@asadora_nhk) 2021年8月6日

 

 

モネは自らの欲求や願望を抑え込み、他者のために「役に立つ」事を一番に優先してきた。

東日本大震災のあの日以降、自らの「したい」であった「音楽」を優先したため、地元で被災した幼馴染や妹の傍にいられなかった。そして守れなかった。

「自分のため」ではなく「自分の大切な人のため」

それ以降、モネは”自ら”の「音楽」を捨て、”他者”の「役に立つ」事を何よりも大事にしてきたのだ。

では、それはいけないことなのか?「他者のため」だけを思って「役に立つ」事を追い求めてはだめなのだろうか?

その答えは、第2週「いのちを守る仕事です」で菅波がモネに言い放った

「あなたのおかげで助かりましたっていうあの言葉は麻薬です」

という言葉に繋がっていく。

 

mizomone7118.hatenablog.jp

 

第12週のタイトル「あなたのおかげで」を目にして菅波のこの言葉が浮かんだ人は多いのではないだろうか。

あの時、菅波から言葉の真意は語られなかった。モネも、そして視聴者も気になっていたことだ。

今回、「自分のためが誰かのためになればいい」という鮫島の考えや、神野や朝岡の心の奥にある「自分のため」という欲求に触れ、自分の考えに迷いを持ったモネが、菅波に相談する中で、ついに語られることになった。

 

「気持ちいいでしょ?単純に。全ての不安や疲れが吹き飛ぶ。自分が誰かの役に立った。自分には価値がある。そう思わせてくれる。

自分は無力かもしれないと思っている人間にとってこれ以上の快楽はない。

脳が言われた時の幸福を強烈に覚えてしまう。麻薬以外の何物でもない

そして”また言われたい”と突っ走ってしまう。その結果、周りが見えなくなる。行きつく先は全部自分のためだ」

 

mizomone7118.hatenablog.jp

 

 以前、私は第3週の感想記事で、

「役に立つ」とは、ある意味、エゴの塊なのだ。

「人の役に立つ」

それは何者でもない自分が、何者かになれる方法でもあるのだ。

 と述べたが、菅波の真意とニアミスというところだろうか。

 

震災で自分が役に立てなかった、いわばその無力さを自覚したモネにとって、「役に立つ」事は、表面上は「誰かのため」でありながら、自分が存在していいという事を実感できる「自分のため」のものに知らず知らずになってしまう危険性があった。

そして役に立とうと他者を優先すれば、自分の存在が疎かになる。それは自分の存在価値が相対的に薄くなるという事でもある。

「他者のために役に立ちたい」

そう思えば思うほど、自分が苦しくなる。

そしていつか、「誰かのため」の「役に立つ」が、自分を維持するための「役に立つ」になってしまう。

それを突き詰めた先には、自分が存在価値という”快楽”を得るためだけの「役に立つ」に変貌してしまう。 それは他者の気持ちを考えない身勝手なものであろう。

菅波は「無力である」と感じている、同じ感覚を持っているモネに、そういう「役に立つ」の危うさを伝えたかったのだ。

それが、あの言葉の真意だ。

 

「人の役に立ちたいとか、結局自分のため」

莉子に言われた言葉について考えているモネ。

一方未知も、研究で思ったような結果が得られずモネと同じように悩んでいました…。#おかえりモネ #朝ドラ#清原果耶 #蒔田彩珠 pic.twitter.com/uEquaf4rRB

連続テレビ小説「おかえりモネ」 (@asadora_nhk) 2021年8月3日

 

モネが台風接近を登米の家族に伝え、祖父である龍己(藤竜也)から「”モネのおかげで”、皆助かったよ」と感謝の電話を受けた時、それを聞いていた神野が言った

 

 

「人の役に立ちたいって結局自分のためなんじゃん」

という言葉も、菅波の言葉を踏まえれば腑に落ちる。

神野がそれを確かに意識しているかは不明だが、おそらく同じようなニュアンスだろう。そしてモネをここまで導いてきた朝岡も、「役に立つ」の危うさをしっかりと自覚している。

 

朝岡が、「スポーツ気象」に拘る理由が、大学時代の駅伝での失敗のリベンジであることは前述したが、その事を聞いた鮫島はモネにこう言った。

「朝岡さんの方が(自分より)100倍きつかったやろな。チームメイトのチャンスも、大学の伝統も潰してしまったんやから」

朝岡は「個人的な理由から」と言っていたが、大学や一緒に走ったチームメイトのためでもある。それはモネと同じく「自分の大切な人のため」の「役に立つ」だ。

 

だが、朝岡は菅波と同じく「他者のため」に自分を犠牲にするやり方の危うさを知っている。だからこそ、あくまでも「自分のための」リベンジと位置づけ、また「不特定多数の人々」を対象とした「気象の重要性を身近に感じてもらうためのスポーツ気象」という自分の「したい」「やりたい」を大事に持っている。

 

 

「復興はまだまだ」

そんな言葉を被災地の人からよく聞くが、モネの心も同じだ。

 

「お姉ちゃんは津波見てないから知らないでしょ」

いつか妹の未知(蒔田彩珠)に、モネはそう言われた。

そう、モネはあの日、「そこ」にいなかった。

それ故、実際に皆が味わった恐怖を知らない。

その得体の知れない恐怖に囚われ、そしてそれを「知らない事」自体にも苦しんでいる。

そして何より、あの時「守れなかった」「役に立たなかった」事が、「役に立たなければならない」という呪いとなり彼女を縛っている。

そこにいなかった人々には、その人たちにしか分からない心の傷があり、時間がその傷を癒すことはない。

 

そんな苦しみを理解しているから、そし手その傷がモネに自己犠牲的な「役に立つ」へ向かわせたことを理解しているからこそ、朝岡はずっとそんなモネを気にかけてきた。

第10週では、震災の影響が強く「自分の大切な人」のためという意識が強いモネに、「不特定多数の人々」との葛藤があることを教え、第11週では、水の危険性や自然の驚異を伝えることに囚われてしまっているモネに、「知ることで、恐怖や危険を避けられる」ことを教えた。

そんな一つ、一つも朝岡がモネに「役に立つ」とはどういうことかをモネに伝えていた瞬間瞬間だ。

 

mizomone7118.hatenablog.jp

 

 

 

第12週では、『おかえりモネ』の、モネの最終的なゴールが提示された気がする。

それは、鮫島の言葉にあった「自分が自分のために一生懸命やっていることが誰かのためになったらそれが一番いい」ということだ。

あの日以来、モネは自分の「好き」「やりたい」「したい」という欲求を抑え、「他者のために」、「役に立つ」事を何よりも優先してきた。

だが、自己を顧みない「役に立つ」は、それこそ「自分のため」の独りよがりなものになってしまう可能性を生む。

これからのモネに必要なのは「自分のため」に生きる事。自分を大事にすることだ。

「気象の楽しさを伝えたい」という思いはもちろん、あの日「役に立たない」と心の奥にしまいこんだ「音楽」もそうだろう。

そんな自分の「好き」「したい」「やりたい」を追求することで、いずれどこかの誰かの「役に立つ」事ができる。

 

思い悩む未知へ母、亜哉子(鈴木京香)が放った「あなたたちにはとにかく楽しそうにしててもらいたい」という言葉。

そして、序盤でサヤカ(夏木マリ)がモネに言った「死ぬまで死んでも役に立たなくてもいい」という言葉。

そんな言葉たちが、モネらしく「自分のため」に生きていくことを応援してくれる。

序盤でサヤカが言った言葉も何だか、今ならよく分かる。

「役に立つ」ことより「自分らしく」いることが大事だという事。

 

偶然にも、放送週に現実社会で行われた「東京オリンピック

コロナ禍での開催に、例年以上に選手たちには「国のために」「国民のために」というプレッシャーもあっただろう。

だが、今大会で初めて正式種目として採用されたスケートボードの選手は、皆、自らの「楽しい」という感情、「技を成功させたい」という思いが画面から爽快に伝わってきた。そして、それはコロナ禍で辛い思いをする多くの人々の心を救った。

 

 

現実社会の出来事ともリンクした第12週までの『おかえりモネ』

第12週までを終え、モネの心の傷と、それに伴ってモネを縛っていた「役に立つ」の姿を明らかにした。

そして自己犠牲を伴う「役に立つ」の危うさ、「自分のためが誰かのためになる」という可能性をモネに示唆した。

最終回まで残り2か月半。

モネが笑顔で「自分のため」にやったことで、誰かの「役に立つ」事を一視聴者として願っている。

 

【過去記事】

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

Twitterもやってます!!よろしくお願いします!!

twitter.com

 

 

報道気象で知る「伝える」難しさ『おかえりモネ』百音が直面する「誰に?」「どのように?」2021.8.6

第10週「気象予報は誰のため?」から、舞台を東京に移した朝の連続テレビ小説『おかえりモネ』

 

気象への興味から始まり「気象予報士」を目指すことになったモネ(清原果耶)の物語も、見事気象予報士資格を取得したことで、折り返し地点に来た。

 

さて、第10週からの舞台。東京。

いきなり「上京して大丈夫か...?」という視聴者の不安をよそに、祖父の知り合いの紹介で銭湯をリノベーションしたシェアハウスに住むことが決まり、気象に興味を持つきっかけとなった朝岡(西島秀俊)が勤め、モネが上京した理由でもあった会社”ウェザーエキスパーツ”にも採用が決まり、順調な滑り出し。

銭湯のオーナーである菜津(マイコ)、そしてウェザーエキスパーツの面々と、東京での新しい出会いもモネの新生活を後押しする。

 

 

また、多くの視聴者が驚いたのが物語の「スピード感の変化」であろう。第10週はモネが東京へ来た初日、その1日が1週間かけて描かれている。

上京初日、下見のために会社を訪れたが、登米に以前来ていた気象予報士の野坂(森田望智)と内田(清水尋也)と再会。採用前であるのにも関わらず、「人手が足らないから」とテレビ局に連れていかれ、報道気象の現場に放り込まれる始末。なんとかやり過ごし、一日を終えるのかと思いきや、深夜に呼び出されインフルエンザのため出れない夜番の人の代わりで、朝の番組にも付き合うという...

まさに、これまで働いていた森林組合とは全く違うスピード感と、その濃密な描写に視聴者も「上京したんだ...」とモネと同期した気分になったであろう。

 

朝岡は以前、登米でモネに、「大切なものを守る時間」を作る大切さを説いた。

臨時のニュースが飛び込み天気予報のコーナー自体が無くなったり、時間が短縮されるなどする、東京でも特に時間の流れが速いテレビ局を目の当たりにすると、そんな”時間”の大切さが記憶と共に説得力を増してくる。

朝岡から聞いたそういった言葉も、東京での濃密なモネの1日を見ていると、体感型アトラクションのように効いてくる。

 

mizomone7118.hatenablog.jp

 

そんな長い長い初日に、モネがコサメちゃんと傘イルカくんというキャラクターをパペットを操る事で演じるという大仕事(?)を為した事で、モネは正式に報道気象班で働くことになった。

仕事を始めたモネが、直面したのは、情報を「伝える」事の難しさだった。

 

 

第10週「気象予報は誰のため?」では、「誰に」伝えるべきかにモネは直面する。

内田が気象庁の発表より早く、東北地方での暴風を予測し、モネも地元の人間として「伝えるべきだ」と朝岡に伝えた。その後、朝岡たちは内容の変更を提案するのだが、不確定な情報である上に、より多くの人へ影響を与える黄砂の情報の方が大事だと、番組の責任者である高村(高岡早紀)に一蹴されてしまう。

最終的には朝岡の判断で、若手天気予報士の神野(今田美桜)のコーナーで彼女が”体感として”風の情報を伝えることで何とか、暴風の情報を伝えることができた。

 

モネが気象予報士を目指したのは、震災の時守れなかった「自分の大切な人を守る」ためだ。その思いはとても強い。

だが、実際、報道の現場では「不特定多数の人」を守るのか、「自分の大切な人」を守るのか、その葛藤が常にあり、それと闘う必要がある。

時に、「誰に」伝えるべきかを選ばなければならない。そんなシビアな状況があることもモネは肌で体感した。

また、”不確定な情報は出せない”というように、助ける術を持っていても、それを使えない事もある。

そのために「伝える」方法を何とか工夫しなければならないのだ。

そんな「どのように」伝えるかをモネに考えさせたのが翌週、第11週「相手を知れば怖くない」だ。

 

 

第11週「相手を知れば怖くない」では、開通したばかりのアンダーパス(交差道路の下に設けられた道路のこと)が、これまでに観測したことのない短時間の大雨により冠水したというニュースが報道気象班の元に届く。幸いにも、けが人や死亡者はなかったが、その出来事以降、これまで、森林組合での経験を生かした自然の「楽しさ」を伝える企画を提案していたモネが一転、自然の怖さや危険性を伝える事に必死になってしまった。

 

朝岡は、そんなモネに「里帰りした時に、子供を海に連れて行きたかったが、海は怖いと聞いて、海水浴に行きたがらない。両親(祖父母)が残念がっていた。海の怖さを伝える大切さは分かるが、身近に海に触れる機会が少ない子供たちには海の楽しさや豊かさを伝えて欲しい。」という視聴者であるある母親の声をモネに届け、

 

「人は分からないものを怖がります。でも逆によく知ってさえいれば、たとえ牙を向けられたとしても、傷つけられないように距離を置くことが出来る。相手を知るという事は恐怖と被害を遠ざけます」

「最初から怖いと思ってしまっては、近づき知る機会さえ奪われる。

そしてその結果に、得体の知れない恐怖と戦わざるを得なくなり間違った対処をする」

 

とアドバイスをする。

モネは、「自分の大切な人を守る」「役に立つ」存在を目指す以上に、「大切な人を守れない」「大切な人を失う」事に恐怖している。

それ故に、危険性を知らせる事ばかりに終始してしまっていた。

だが、それは、危険性をしっかりと認識できないままに、人々を余計に恐怖させてしまう事にもなりかねない。

朝岡は、ここでもモネが、経験した「恐怖」に理解を示した上で、それを「伝える」にはどうすればいいのかをモネに、報道気象に携わる先輩として教授したのだ。

 

 

このように第10週と第11週では実際に報道気象に関わる中で、朝岡を通じて間接的に触れてきた「気象予報士」の全体像が明らかにされると共に、「伝える」ことの難しさ

が描かれた。

だが、この2週で描かれたのはこれだけではない。

今日放送を終えた第12週「あなたのおかげで」を含めた、3週は、震災のあの日からモネの心にずっとある「役に立ちたい」という思い、そしてあの日背負うことになった心の荷物を可視化し、モネに突きつけたのだ。

気仙沼登米にいる時には、見えなかった気づかなかった隠していたそんなモネのパーソナルな部分。次回の記事では、第12週を中心に見ていきたいと思う。

 

 【過去記事】

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

 

Twitterもやってます!!フォロー待ってます!!

twitter.com

百音が見つけた「大切なものを守る時間」を作るとは?『おかえりモネ』菅波が肯定したモネの「迷う時間」2021.7.15

”モネ”こと、主人公の永浦百音(清原果耶)が、晴れて気象予報士試験に合格し、これからの展開がますます楽しみになってくる朝の連続テレビ小説『おかえりモネ』

 

そんな彼女を合格に導いたのは、モネの揺らぐ思いをずっと支え続けた菅波光太朗(坂口健太郎)の力が大きいだろう。

 

mizomone7118.hatenablog.jp

 

第6週「大人たちの青春」では、モネの父、耕治(内野聖陽)と母、亜哉子(鈴木京香)の馴れ初めを知る人物、”トムさん”こと、田中(塚本晋也)を中心に物語が進んでいった。

トムさんは病に侵されており、もう延命治療はしなくて良い。そう思っていた。

そんな折、モネや菅波、森林組合の人々とやり取りを交わし、自身の思いや耕治と亜哉子の馴れ初めをモネに話すなどする中で、まだ生きたいとも思っている胸中が明かされる。

 

その気持ちを知ったモネが、積極治療を望まない人に対しては深入りしないと言っていた菅波に発破をかけ、菅波がトムさんを訪ねるのだが、そこで、モネにとって菅波が必要であった事が分かる言葉がある。

菅波は、トムさんにこう言うのだ。

「本心なんてあってないようなもの、人間の気持ちなんてそんなもんです。でもいいんです。「一日でも生きたい」「もう終わりにしたい」と毎日言ってることが変わっても。固定概念や意地や罪悪感のために、結論を急ぐようなことはやめて、本当に自分がそうしたいと思う方にいつでも進路を変えられるような選択をしませんか?」

この言葉は、菅波の隠された本心でもあり、それはモネへとのやり取りの中でもそれが垣間見える。

 

「森や木の仕事もしたいし、尊敬するサヤカ(夏木マリ)さんを支えたい。それが自分のできることなのかも。でも、出会ってしまった。ものすごく心魅かれるものに。出会う人、皆が私を引きずり込もうとする。」

そう菅波に吐露したモネ。思えば、気象予報士試験を志してから、いや志す前からずっと迷ったり、悩んでいた気がする。

そんな時、いつもそばにいたのは菅波だった。

「誰かに話す事で考えがまとまるという事はよくある。」

そうモネの”迷い”を肯定することで、気持ちの整理の手助けをした事もあった。

第8週「それでも海は」で、幼馴染の亮(永瀬廉)、そしてその父、信次(浅野忠信)の心に未だに残る震災の傷に触れ、「何もできない」事に涙していたモネが菅波に電話した時も、

「(どういう訳か)さっぱり分からないので、大変不甲斐ないですが、建設的な回答は何一つ出来ません。ただ、回答できない分、聞くことは出来ます。何かありましたか?」

と、返答した。それを聞いたモネは、どこかとても救われたような表情だった。

 

菅波はモネに適当な叱咤をするのでも、慰めをするのでもなく、ただただ聞く事で、彼女に「迷う時間」を与え、彼女を助けていたのだ。

 

 

つい人は結論を急いだり、答えを一つに絞ろうと一人悩んでしまう。

だが、そこに「ゆっくりでいい。考えが右往左往してもいいよ。存分に迷えばいい。」と何も言わずそっと話を聞いてくれる人がいれば、どれだけ心強く、前に進めるか。

 

そして、菅波が「迷う時間」をモネに与えた一方で、もう一人のヒーローであり、モネの天気への興味のきっかけでもある朝岡(西島秀俊)がモネに伝えたのは「大切なものを守るための時間」だった。

 

第7週「サヤカさんの木」では、朝岡が、部下の気象予報士、野坂(森田望智)と内田(清水尋也)を連れて、再びモネの元を訪れた。

そこで、二人の気象予報士の実際の仕事ぶりをモネは初めて、目の当たりにした。

そこで朝岡が部下に説いたのが、気象におけるリードタイムについてだ。

「通常、リードタイムは短い方がいい。だが、気象は違う。私たちが提供するのは、起用にまつわる数字と、時間。備えるための時間を提供する事で、安全、快適、利益をもたらす。」

 

「リードタイム」とは、生産や物流において使われる用語で、製品が発注されてから納品されるまでの時間のことを言うそうだ。

気象におけるそれは、花粉が飛散するまで、河川が氾濫するまでの時間を言う。

要するに、それまでは、危険を予測し回避する時間が得られるということだ。

気象予報士は、その時間を気象予報によって生み出すことが出来る。

つまり、気象予報士は「大切なものを守る時間」を作ることで、人の命を守り、人の役に立つ仕事なのだ。

 

2011年3月のあの日から、これまで漠然と誰かの「役に立つ」事を念頭に求めてきたモネ。そんなモネは、とうとう「役に立つ」ための資格と方法を手に入れた。

ここまでモネの「役に立ちたい」という漠然とした思いを守り続けてくれた人、それは間違いなく菅波だ。

モネにとっての「役に立つ」人=ヒーローは、「大切なものを守る時間」=過去と向き合い自分と向き合い悩みながらも、そばで話を聞いて「迷う時間」をくれた菅波だったのだ。

そして、そのヒーローはモネがあの日から希求していた理想の姿に重なるのではないか。

誰かが悩んで苦しんでいるなら、話を聞き「迷う時間」を肯定してあげたい。

あの時は出来なかったけど、今度こそ自分の「好き」で誰かを守りたい。

あの時、駆けつけられなかった”時間”を作って、誰かの大切なものを守りたい。

モネの「ヒーロー像」が明確になった瞬間だった。

 

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

 

さて今週、第9週「雨のち旅立ち」を経て、次週からはモネが気象予報士として一歩を踏み出す。

本日の放送では、以前、気象予報士森林組合どちらを選ぶか迷っていたモネに「悩む前に資格を取らないと」と言っていた菅波が、モネが決意を決めた事で、菅波自身もこれまで通り登米で、今まで躊躇っていた訪問診療にかかることを決意した。

「僕は何かを考える前に手が動かないといけない」

モネを見て菅波も成長していく。支え合い媚びない二人の関係性がとても心地よかった。だがここから菅波とモネが男女としてどうなるか?やはり皆そこが気になるのではないだろうか。

これからはモネ自身がかつて失くした「音楽」と、かけがえのない存在「菅波光太朗」という「好き」を自分自身で「好き!!!」とありのままに言えるように、「大切なものを守る時間」を提供する存在として成長する事を願うばかりである。

 

 

【過去記事】

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

 

Twitterもやってます!!フォローよろしくお願いします!!

twitter.com