みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

百音、晴れて気象予報士に!『おかえりモネ』モネを導いた菅波光太朗の「学習メソッド」2021.7.13

主人公、永浦百音(清原果耶)、愛称”モネ”が、宮城県登米にある森林組合に勤めながら気象予報士を目指す物語、朝の連続テレビ小説『おかえりモネ』

今週、第9週「雨のち旅立ち」の冒頭では、モネが三回目の気象予報士試験に挑み、見事合格し、晴れて気象予報士になった姿が描かれた。

モネが天気に魅せられ、ほんの興味から気象予報士試験に合格するまでに至ったのは、間違いなく、いつの間にかモネにとってかけがえのない人になっている医師、菅波光太朗(坂口健太郎)のおかげだろう。

 

 

 モネが、参考書を買ってまだ頭を悩ませていた第5週「勉強はじめました」

その冒頭で、お盆休みを終え登米に戻るバスで、モネと菅波は偶然乗り合わせた。

思えば、ここからモネは菅波に導かれていた。

菅波は難解な参考書を読むモネに、参考書ではなく絵本を勧める。

勉強というと「難しい」「やりたくない」というネガティブなイメージを持ってしまう人が多いのではないだろうか。それが勉強における挫折の一番の要因かもしれない。

その勉強ができない人への解決策の一つ「興味から始める」を菅波はモネに提示したのだ。

 

絵本は、子供でも分かるように書かれている。だが、内容が「気象」に関する事であれば、それは立派な参考書だ。

菅波は、森林組合に戻った時、モネにこう言った。

「ただ目の前にあるものを不思議がったり、面白がったり、そういうところから深めていけばいいんじゃないですか」
子供が絵本を見て、不思議がるのと同じように、勉強も身近な「なぜ?」から始める。
そうすれば、自ずと意欲がわき、その「なぜ」が分かった時、達成感も得られる。

 

絵本を手にし、一人読み始めていたモネに成り行きで勉強を教えることになった際も、菅波は一環として「なぜ」を解決する事を大事にした。

「なぜ雲はできるのか」「何が空気を温めるのか」「ってかなんで」

次々に出てくるモネの「なぜ」の応酬にも、

「まずは雨が降る仕組み、空気が冷やされると水や氷が表れる。

 その一つの事だけを考えるようにしましょう。他の事は考えないでおきましょう。」

と声をかけた。

 

興味を持つこと、「なぜ?」を持つことは勉強の取っ掛かりとしては最適だ。

だが、モネのように次々と疑問符が浮かんでしまうと勉強が進むどころか、沼にハマって抜けられなくなって、また参考書をやみくもに読んでいる時と同じになってしまう。

だから、「なぜ」を一つに絞り、一つずつ向き合わせる事が学習にとってこれまた大事な事だ。

また、「なぜ」をある程度で止める事も同時に必要になる。

雲が出来る仕組みを説明するにあたり、必要な「飽和水蒸気量」というキーワード。

空気中にどれだけ水分を含めるかを示す値の事を言うが、モネはこれに対しても「なぜ」を繰り出した。だが、そのキーワードについて完璧に理解しようとすると、とてもじゃないが無理だ。

そのため、興味をある程度で引き留めて、勉強としての知識として納得させることも必要なのだ。

そうやって配慮する必要はあるが、「興味から始める」事、そのおかげでモネは苦手な勉強に打ち込めたのだろう。

 

www.nhk.or.jp

 

そして、もう一つに大事になるのが「実践的な理解」だ。

これは、理科系に限る話かもしれないが、「なぜ」から生じたその疑問に、理論で分からせるのは案外難しいことだ。

絵本が、”絵”という手法を使うように、菅波も体感としての理解をモネに促したのだ。

飽和水蒸気量を、コップに氷を入れ、それが溶けて水滴がつく様子をもって説明した事がその例だろう。

極めつけに、理解できれば、「そう!天才」としっかりと褒める。

菅波は、どこでこんな教育術を身に着けたのだろうか。

 

 

これらの勉強方法は、どれも勉強が苦手なお子さんに悩まされる母親や、モネのように勉強ができない学生への一つの助け舟になったはずだ。

つい最近まで、TBS系列日曜21時に日曜劇場『ドラゴン桜』が放送されていたが、その中で伝説と呼ばれた桜木先生の桜木メソッドに負けず劣らない菅波メソッドが、モネを気象予報士へと導いたのではないだろうか。

専門性の高い勉強になり、自分から他者の教えを乞うようモネに指導した菅波は、まさに桜木のように、頼りになる”先生”だった。

「物事がうまくいかなくて落ち込んでいる時、僕は何かしら新しい知識を身につけるようにしています」

菅波のこの言葉にあるように、行き詰った時は何か興味のある事を勉強してみるのもいいかもしれない。

 

 

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「キュン」とは「そばに誰かがいる温かさ」『着飾る恋には理由があって』コロナ禍の「火ドラ」が魅せた新たな一面 2021.7.8

6月22日に最終回の放送を終えたTBS系火曜ドラマ『着飾る恋には理由があって』

主演を川口春奈が務め、その相手役を横浜流星が演じるということもあり、放送前から多くの期待の声が挙がった。

 

それもそのはず、本作が放送されたのはTBS系火曜22時。

近年のTVドラマの潮流の一つ、「火ドラ」であるからだ。

通常、ドラマファン以外は出演している役者目当てでドラマを観る事が多いが、「火ドラ」に関しては、「火ドラ」そのものが一つのブランドとして、視聴者を集めている。

先日、結婚を発表した新垣結衣星野源夫婦の出会いにもなり、”恋ダンス”が大きな話題になった『逃げるは恥だが役に立つ』もその一つだ。

「火ドラ」の特徴として語られるのが、「胸キュン」をメインテーマに据えている作品が多い事だろう。

上白石萌音主演で、”魔王”佐藤健との恋が描かれた『恋はつづくよどこまでも』

森七菜主演で、エリートコンビニ社長との恋が描かれた『この恋あたためますか』

など、「火ドラ」作品においては、主演女優が共演俳優と繰り広げる「胸キュン」ラブシーンが、SNSを中心に話題になっている。

だが、本作は、そんな「火ドラ」とは違った新たな一面を魅せてくれた。

www.tbs.co.jp

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三角関係における”奪い愛”ではない、二人だけのてんびん”釣り愛”

本作は、インテリアメーカーに勤め、広報部において、世間に対して大きな影響を持つ者を指すインフルエンサーとして働く真柴くるみ(川口春奈)と、不要な持ち物を減らして、必要最小限のものだけで暮らすミニマリストで、キッチンカーで店を営む藤野駿(横浜流星)が、カウンセラーで駿のはとこ寺井陽人(丸山隆平)や、画家を目指す羽瀬彩夏(中村アン)らとシェアハウスで暮らす中で、恋や仕事に悩む姿を描いたドラマ。

 

”シェアハウス”と言えば、某フジテレビの恋愛リアリティ番組が思い出され、「火ドラ」では定番の、”ヒロインを巡る三角関係”など、恋の駆け引きが、中堅俳優たちによって少しビターに描かれると視聴者は想像しただろう。

『恋つづ』では、上白石演じる七瀬と佐藤健演じる天堂の間に割って入ろうとする来生晃一(毎熊克哉)

『恋あた』では、森七菜演じる樹木に恋し、中村倫也演じる浅羽としのぎを削った(?)新谷誠(仲野太賀)

というように、過去の「火ドラ」でも、ヒロインを中心とした三角関係において、ヒロインとの恋は成就しないが物語を盛り上げる名キャラ、言い方は悪いが”当て馬”と言われるキャラが注目されている。

では、今作はどうか。

 

真柴には、会社の社長である葉山祥吾(向井理)という憧れの人物がいた。

「火ドラ」の定石通りならば、この葉山と駿が、真柴を巡ってバトルするはず。

だが、葉山は物語序盤で失踪。物語後半で戦線復帰するものも、駿の様子を伺いながら、発破をかける、真柴と一緒にディナーに行くなどはあったものの明確な”奪い合い”はなかった。その上、最終回では、真柴に「(真柴の)片思いじゃなくて俺も好きだった」と好意は伝え、清々しい表情で、海外へ行ってしまったのだ。

「もう一人、男はいるじゃないか!」

そう、駿のはとこ、愛称”ハルちゃん”との奪い合いも想像できた。

だが、こちらも物語序盤で、真柴がハルちゃんのカウンセリングを受けたことで、「カウンセリング相手は恋愛対象から外す」と、早々に恋のライバル候補から降りた。

 

結論から言うと、過去作ほどの三角関係も奪い合いもこの物語では描かれなかったのだ。それが、過去の「火ドラ」とは違う点の一つだ。

では、今作はどのように恋を描き、視聴者の心を掴んだのだろう?

フォーカスされたのは、真柴と駿という二人の関係。

二人が片方ずつに乗ったてんびんの釣り合いを丁寧に丁寧に描いたのだ。

 

「好きかもしれない」→「好き」を繊細に描く”スロー”ラブストーリー

真柴と駿の二人の関係が、非常にゆっくり描かれたのが今作の特徴だった。

「好きになる」事は、メタ的に言えば、視聴者にとっては自明の事だ。

だって「恋愛ドラマなのだから」

それ故、「好きになっていく」プロセスは描写として省略されやすい。

「あっ!気になる!」→「好き」という流れが早々に済まされ、前述した三角関係などの恋の駆け引きに、描写が割かれる。

実際、恋がこじれたり、揉めたりするのは手っ取り早く物語に刺激を与えることが出来る。展開が単調で、視聴者が飽きる前に、新しく事を起こすのがベターだろう。

だが、今作は「気になるなぁ...」→「好きかもしれない」→「好き」という”二人”だけの恋愛のプロセスを、ゆっくり、丁寧に繊細に描いた。

第1話、第2話は、「好き」という感情はあっても口には出ない「好きかもしれない」段階。(話題になった”冷蔵庫キス”は突発的な事故感があり、それは「好き」ではない)

 

第3話では「かもしれない」が「好き」に大きく近づく事を予感させるセリフがある。

それはシェアハウのメンバーでキャンプに行った際に、真柴と駿が二人になった時のこのやり取りだ。

真柴「藤野さんって私の事、好きなのかもね~」

駿「そうだね。多分好きだね。」

このセリフ、筆者は放送時、悶えた。こんないじわるな言い方があるのかと。

このセリフは真柴の「好きかもしれないけど、あなたはどうですか」と、まだ不確かな好意を伝え、同時に相手の好意も知りたいという意図が込められたとても尊い言葉だと感じた。

そして第4話では、これと対になるセリフがる。

駿「もしかして豆しば真柴さん、俺の事好きなのかもね」

真柴「そうだね。多分好き。」

 同じ事を今度は、駿が真柴に問う。

 

youtu.be

第3話該当部分1:10~ 第4話該当部分1:30~ (TBS公式Youtubeチャンネルより)

 

これによって二人が通じ合っている事が、明確になり、”好き同士”になっていく事を予感させた。だが、まだ”予感”なのだ。「好きかもしれない」が形をもって、「好き」になった。この少しの心の動きを4話かけて描いた。とてつもなくゆっくりだ。

 この後も、価値観の違いや、真柴はインフルエンサーとして、駿はミニマリストそして料理人としてそれぞれの悩みから、互いにぶつかり離れる事もあるが、その中で、「やっぱり一緒が良い」と親密度が徐々に上がっていく。

本作はそのような点において、過去作にはないスローなラブストーリーであった。

そしてそれは恋する二人の心情が、丁寧で繊細に描かれていることでもあるのだ。

 

コロナが可能にした「キュン」の再定義「火ドラ」のデジタルデトックス

ここまで、本作が過去の「火ドラ」とは異なる路線を走った事を紹介した。

では、どういう経緯で、これまでの「火ドラ」からの脱却が行われたのか。

それには間違いなく、今の情勢が関係しているだろう。

新型コロナウィルスの蔓延だ。

 

本作のプロデューサー新井順子は、インタビューにおいて、コロナ禍のドラマ制作に関してこう語っている。

 

やっぱりコロナの影響が大きいんでしょうか。ヒリヒリしたものをそんなに観たくないのか、人に出会えない分、恋愛ができなくなってきている感じもあると思うんです。学校に行けなかったり、イベントがなくなったり、いろんな規制がある中で、テレビの中だけは夢見たい、恋がしたい。現実にはなかなか遭遇しづらくなったラブストーリーを体感できる、というのが大きくあるのかな。

料理シーンは包丁を毎回持って帰る横浜流星の練習の賜物|Real Sound|リアルサウンド 映画部

 

過去の「火ドラ」は、「胸キュン」要素を重視し好評を博する一方で、どこか”理想”の物語という、フィクション性の高いドラマに仕上がっている印象も強かった。

だが、コロナ禍の今、視聴者の心により寄り添えるドラマを作るべき。そして人の繋がりを感じてほっこりして欲しいという思いがあったのだろう。

そんな中、「火ドラ」らしさを保ちつつ、視聴者に寄り添う身近な作品を...と考える中、注目したのが、「キュン」とは何か?であった。

 

キュンってなんだろうと思って、「キュン」って検索しました(笑)。でも今回は、ドキッとするような「キュン」だけじゃなくて、“そばに人がいることは、すごく温かいのである”っていう、癒される「キュン」も表現できたらなと。

料理シーンは包丁を毎回持って帰る横浜流星の練習の賜物|Real Sound|リアルサウンド 映画部


このドラマのキーワードとしても掲げられていた「うちキュン」

冒頭、「火ドラ」の特徴は「キュン」だと言ったが、これまでの「キュン」は前述したように、どこか荒唐無稽なそれ自体が一つのパフォーマンスのように感じられた。

SNSでの話題作りの要素も含み、繰り返される壁ドン、キス、キス、顎クイに嫌悪感を示す人が一定数いたのも事実だ。

そんな中、今作では、「そばに誰かがいる優しさ・温かさ」も「キュン」ではないかと、そう定義し、その点を重点的に丁寧に描くことで、コロナ禍の「火ドラ」として視聴者の心を掴んだ。

 

Your story

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そして、「SNS」も今作の大きなキーワードの一つでもある。

主人公、真柴がインフルエンサーとして活動する上で、「着飾る」自分でいる事の是非が、駿との触れ合いの中で問われた。

「火ドラ」もそんなSNSでの反響の大きさを一つの強みにしてきた。

「火ドラ」の恒例とも言える「恋〇〇」「〇〇恋」という略称。

それもSNSでの呼びやすさ(ハッシュタグにおける使いやすさ)なども考慮されていると思われる。

『恋はつづくよどこまでも』は「恋つづ」、『この恋あたためますか』は「恋あた」

というように、現にその作品、「火ドラ」を象徴付ける看板のようになっている。

だが、今回はその点でも少し違った。

「恋」というワードは入っているが、実際に公式からアナウンスされた略称は「着飾る恋」

「恋〇〇」や「〇〇恋」と違って、語感があまり良くない。

これまで、「火ドラ」を見てきた視聴者は、その略称に引っかかりを覚えたのではないだろうか。

劇中では、駿が真柴に「デジタルデトックス」を勧めた。

SNSの「いいね」や反響を気にしない生き方。

そう、今作では「火ドラ」自体の「デジタルデトックス」、つまりSNS重視のドラマ制作に対する問い直しになる作品だったのだと思う。

SNSをしながら見るのも良いけど、この作品は真柴や駿と同じ空間にいるような気持で見て欲しい」

前述したスローで丁寧なストーリー展開や描写、そして劇中で流れる音楽。

そのどれもが、視聴者のそばに真柴や駿がいるかのような錯覚に陥らせた。

 

 

 「胸キュン」な場面、最大の武器はSNSでの反響

そんな「火ドラ」が、コロナ禍の今、そのスタイルを脱却してまで伝えたかったのは、

「日常の何でもない営み」こそ、何よりもドラマチックで「キュン」とする尊いものだという事。

当たり前に出来ていた皆でお酒を飲むこと、話す事、ふざけ合う事。

そんな事が、遠くに行ってしまった世の中。

SNSで人と関わる事に不自由を感じていなかった私たち。

それが、人とは連絡が取れるのに、辛くて悲しくて不自由な気持ちになる。

SNSの「いいね」や文字でのコミュニケーションは、誰かが横にいてくれることには勝てない。

この作品は日々の中で、何気なく繰り返される対面のやり取りの温かさ、そして便利に使用されているSNSは実は希薄なものだという事を、ドラマの内側からも外側からも教えてくれた。

 

そして、タイトルの「着飾る恋には理由があって」

このタイトルには、SNSや見えない誰かの声のために自分を繕うのではなく、近い未来でそばにいたい人、そんな人のために、ありのままの自分を大事にしよう。

そんなメッセージが表されている。

本作のような新たな一面を持つ「火ドラ」作品が生まれたのは、ある意味「コロナのおかげ」だ。

「コロナのせいで」ではなく「コロナがあったから」

気づけた、変われるという希望や強い決意を視聴者に与えたる作品でもあった。

コロナ禍はまだ終わらない、だがもうすぐ終わる。

それまできっと「火ドラ」が私たちの心に寄り添ってくれるだろう。

 

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繋ぐ「音楽」巡る「音楽」出会う「音楽」2021.7.5

繋ぐ「音楽」

先日は、女優としても活躍している上白石萌音のライブへ。

とてもとても良かった。”良かった”という言葉ではとても言い表せない程。

彼女のライブ自体に関する感想は、Twitterを覗いて欲しい。

今回は、久々に「ライブ」に行って感じたことをちょこっとだが綴っておきたいと思う。

 

私がコロナ以前、最後にライブに行ったのは2019年の11月。

今回のライブはおよそ1年半ぶりであった。

 

 

私がライブに初めて行ったのは、10年程前。母が好きなアーティストのライブに付き添いで訪れたのが最初だ。

初めてのライブはライブハウスだった。母も私もライブハウスが初めての経験だった。

当時、「暗い」「危ない」「お酒の場」というネガティブなイメージをライブハウスに持っていた母と私だったが、そのイメージは瞬く間に払拭された。

ライブハウス、コンサートホールという空間の不思議な力に魅了されたからだ。

不思議な力。具体的には、その”一体感”だ。

 

先日のライブでは、4年前に行った彼女のライブとは打って変わって女性、特に高校生や主婦世代がメインファン層になっていた。

筆者は20代男性である。女子高生とも主婦の方とも同じ空間を共にする機会はめったにない。普段は交わらない人々だ。

だが、ライブ会場ではそこにいる全員が「上白石萌音の音楽を聴きに来ている」という共通点を付与される。

つまり、ライブ会場においては「そこにいる」という事自体が、世代や、立場などの違いを飛び越えるのだ。

普段、関わる事のない、自分とは”違う”と距離を置いていた人々が、一気に近くなる、

ライブ後の余韻が残る帰路のあの皆”同じ”という感じ。

そういうライブの一体感を、久々に身を以て感じた。

異なる世代、立場の人が、一瞬で一つになれる空間。

そんな空間、ライブ会場以外にはなかなか存在しないのではないか。

 

日常では、様々な”違い”からいろんな苦しみ悩みが生まれる。

そんな”違い”を包摂してくれる、多様性の許容を疑似的に教えてくれる理想の空間がライブ会場なのだ。

うまく言葉に出来ないが、声も出せない中、手拍子とペンライトを暗黙の了解で、合わせる会場の空気感に感動し、ブログに綴ろうと思った。

音楽がこれからも多くの人の世代や立場という隔たりを超えて、人を繋げる存在であって欲しいと願い、コロナが収束し、よりライブが一体感を増す空間になることを願うばかりだ。

 

巡る「音楽」

先日、日本テレビで8時間にも渡る音楽特番が放送された。

夏になると各局、音楽特番を放送するのはいつの間にか毎年恒例の流れになっている。(以前は年末だけだった気がする)

今年は、コロナ禍ということもあり、正直なところ、収録パートやVTRのコーナーが多く、少し満足できないところもあったが、”音楽は止まらない”というキャッチコピーにふさわしい素敵な番組であった。

その中では、有名人や歌手の思い入れの曲を本人に紹介してもらうコーナーがあった。

その中には、今をときめくシンガーソングライター、あいみょんも。

あいみょんと言えば、曲のストックがとてつもなく多いことで有名(私の中では)

若者にも、場合によっては若者音楽に難色を示すお父さんお母さん世代にも、定評のあるミュージシャンの一人ではないだろうか。

そんな彼女が、挙げた曲は、小沢健二吉田拓郎の楽曲だ。

皆さんは”小沢健二” "吉田拓郎”を知っているだろうか。

 

あいみょんが若者だけではなく、広い世代に愛される所以の一つは、その音楽性のルーツが、小沢健二吉田拓郎など、親世代の馴染みのあるアーティストにあることだ。

どんな有名ミュージシャンでも、昔好きだった音楽はあるだろうし、聴いていた音楽はあるはず。そうでないと音楽家を目指そうとは思わない。

となると、その人の作る音楽には、そういう昔聴いていた人の音楽のエッセンスが大なり小なり染みついている。

そして、それを聴いた人が、音楽を始める...

というように、いわば音楽は巡っているのだ。

 

「えー吉田拓郎って誰??」「えー小沢健二って誰??」と言っていた若者が「あいみょんの音楽のルーツだって!!聴いてみたらめっちゃいいんだけど!!」という流れになる、その流れ、私は大好きだ。

なぜなら音楽が巡っている事を実感するからだ。

 

現代では、”最新”の楽曲、”再生回数”の多い楽曲が消費されやすい構造が、サブスクリプションサービスなどで出来上がっている。

だが、曲はその程度の指標では測りきれない。

そういう指標では巡り合えない、楽曲がまだまだある。

それ故に、音楽性の連関の中で、”口伝え”のように、音楽を知っていくそのプロセスはとても大事で、素敵なものだと感じる。

指標によらない、感性からの出会い。そういう音楽体験を失いたくないなと思う。

 

また、そういう過去のものへの関心は、過去を生きた人々、つまり自分より上の世代への関心でもある。

無関心は、無責任で理由のない悪意、否定のもとだ。

そういう意味で、過去の音楽は、世代を超えたコミュニケーションをも可能にする。

そんな可能性にも期待していたい。

 

いずれは私たちが聴いている音楽が、誰かにとってのルーツになる。

そんな未来の音楽も楽しみだ。

音楽は人と共に巡ってゆく。

 

出会う「音楽」

このブログでは、筆者自身が音楽に救われている経験から、音楽には様々な力があると語ってきた。

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音楽には色々な作用があって生きる上で、自分を助けてくれるものだという、過去に記事で述べた意見は変わっていないのだが、ふと思う事があった。

「誰もが音楽に出会うことが出来るのか?」

「誰もが音楽にライフスキルとしての価値を見出せるのか?」

という疑問だ。

前述した上白石萌音のライブで感じたことの一つにこんなことがあった。

 ライブのチケット代は大体、会場やアーティストによっても様々だが、3000円から9000円ぐらいが一般的だろうか。

筆者含め、ライブに行ったことのある人からすれば、「妥当だ」という感覚だが、よくよく考えれば、まぁ安い値段ではない。

その値段で、音楽を聴こうと思えることは案外、普通の事ではないのかもしれない。

そう、今回のライブ終わりに思った。

筆者含め、音楽に親しみがある人は、何気なしに音楽と出会っているが、そのきっかけがない人だっているかもしれない。

音楽には生きる上で助けてくれる拠り所になる存在だと、過去のブログでも述べたのだが、それも、文化的資本が十分でなかったり、心理的側面でその余裕すらない人には無力、というよりその力が及ばない。音楽を聴くことすらできない。

 

そのように思うと、音楽が身近に聴けること、出会えることはとても幸せなことなのだと実感する。そして、その反面で、音楽に出会えない人もいる、音楽がライフスキルとして作用しない人もいるのだと思うのだ。

 

また、音楽は身近にあるのに、日々流れ続ける情報の海のしぶきの一つとして消費してしまう人、そんな一曲一曲に込められた思いに気づかない、思いを巡らせることが出来ない人もいるのではないか。

 

コロナ禍の今、音楽どころではない、そんな声もある。そんな人もいる。

辛い時に音楽を享受できるという状況が当たり前ではない。

それを実感して、音楽に出会えて、音楽に思いを馳せられる自分は幸せ者だという事を改めて感じさせられた。

 

 

未知とカキ、そして百音と天気『おかえりモネ』モネの視界を照らした「繋がり」という光 2021.6.14

主人公の永浦百音(清原果耶)、愛称”モネ”が気仙沼登米といった、海や山の中で、「天気予報」という魔法に導かれていく物語。連続テレビ小説『おかえりモネ』

第3週「故郷の海へ」では、地元の幼馴染との久しぶりのやり取りが描かれる中、モネが「役に立つ」事に拘る理由が、2011年の3月11日の回想と共に描かれた。

www.nhk.or.jp

その第3週とは打って変わって、第4週は「みーちゃんとカキ」と題された。

「~とーー」というタイトルからは、生田斗真主演で、モネを演じる清原も出演していた2019年放送の『俺の話は長い』が思い出される。そのイメージから「今週は、息抜き回なのだろうか」とも思っていたが、その予想は良い意味で裏切られた。

 

夏休みの自由研究としてカキの地場採苗に取り組む未知(蒔田彩珠)。そして、第3週で、寺を継ぐか悩んでいる様子が描かれていた三生(前田航基)は、結局永浦家にしばらく居候する事になり、モネの祖父、龍己(藤竜也)のカキの養殖作業の手伝いを半ば強引させられることに。

「みーちゃんとカキ」

そのタイトルの通り、今週の物語の中心にあったのは、未知の夏休みの自由研究である地場採苗。

”種ガキ”やら、”浮遊幼生”やら聞き馴染みのない言葉が、未知と龍己との間で交わされ、筆者も、モネや三生のように「???」という顔になったが、その取り組みの専門性と未知の真剣な眼差しから、未知の本意気が伝わってきた。

 

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未知の意見を尊重し、未知の研究を見守っていた龍己。だが、ある日、カキの原盤を引き上げるタイミングで意見が食い違い、言い争いになる。研究に関する判断は彼女に任せていたが、長年の勘が「ダメだ」と言ったのだろう、未知を思っての行動だった。

結果的に、龍己の予測が当たり荒天に見舞われたたため、船を急いで出し原盤を引き上げることになった。龍己は滅多に出ない夜、しかも荒天の海に出たことで、軽いけがをしてしまう。

 

その後の、家族の会話のシーン。第4週の見どころはここであった。

龍己や父、耕治(内野聖陽)に「子ども相手に~」「たかが高校生の自由研究」と言われ、思わず言い返す未知。

実際、悪天候におけるリスクを鑑みた龍己の判断が正しく、結果、未知は龍己を危険に晒すことになったため、そう言われても仕方がないが、それをもって全てを「子供の遊び」と言われたくはなかったのだろう。

 それに対して龍己や耕治は、費用面など現実的に不可能な事をしっかりと説明する。

その上で、「未知の夢にまで手が回らない」と諭した。

だが、それでも未知は反論した。

「さすが銀行員。お父さんにとっては返済が正義だもんね!!」と皮肉めいた言葉で。

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この一連のやり取りを台所から見ていたモネ。節々にモネの姿が差し込まれるのだが、ここの清原の表情。清原の演技力が光った。

簡単に形容すれば、「驚いた表情」なのだが、この表情には色々な感情が含まれていた。

未知と龍己の思いのぶつかりあい。それを見て、どちらも人を漁業を思っての事なのに、なぜぶつかってしまうの?という困惑が混じった驚き。

また、「役に立つ」事を見つけ、努力を順調に重ねているとずっと思っていた未知にも、様々な渦巻く思いがあった事に対する驚き。

色んな驚きが見えた。

 

これまで、未知はモネにとってのある種「目標」として描かれていた。

「地元の漁業の未来を守るため日々努力する妹」

自分の見つけられない「役に立つ」方法を見つけ、邁進している。

そんな妹に、モネは姉として誇らしく思うと共に、焦りも感じていたのではないだろうか。だが、実際は、違った。

未知もモネと同じように、どうすれば「役に立てるのか」

そう、2011年3月11日のあの日。津波を前に何もできなかった自分を悔やみ、考えてきたのだ。

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「役に立つ」とは、ある意味、エゴの塊なのだ。

「人の役に立つ」

それは何者でもない自分が、何者かになれる方法でもあるのだ。

それ故、他者との対話なしに、自分自身で背負い込み突き進んでしまうことも少なくない。今回の未知もきっとそうだ。

本当の意味で「役に立つ」とは何か、それは周りの人たちとの繋がりの中でしか確認できない。だから、龍己や耕治との言い争いも、未知にとっては通過儀礼だったのだと思う。独りよがりのヒーローにならずに済んだ。

 

通過儀礼であったのは、モネも同じだ。

「みーちゃんとカキ」が、百音のずっと雲に覆われていた「天気予報」に対する煮え切らなさに光をもたらしてくれた。

そういう意味で第4週は「みーちゃんとカキ」でもあり「モネと天気」でもあったのだと思う。

未知と家族のぶつかりあい、「役に立つ」方法が明確じゃない自分には何も言えない。けど、何もしないのは嫌だ。そう思って、父から貰った笛を思い切り吹いた。

それは未知が謝るきっかけになった。「役に立ちたい」というモネの思いを強くなった瞬間だった。

そして、地元でのやり取りで垣間見えた天気、そして木材。それが、龍己やサヤカ(夏木マリ)や朝岡(西島秀俊)が説いた、「山も海も空も全部繋がってる」をモネに体感させることになり、モネは「天気予報でなら役に立てる」とようやく確信を持てた。

 

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笛を吹いた後、自室で月に照らされながら空を見るモネの目には涙があった。

「役に立ちたい」と思いながら、未知たちと違い、具体的な方法を持たず、意見を言えない自分への悔しさ。

その翌日、龍己に、「天気を勉強したら皆の役に立つかな」と聞いたモネは

「将来、モネちゃんが天気読めるようになって、俺が一発勝負かける時はあんたに相談する」と龍己に言われ、視界が晴れた清々しい笑顔を見せてくれた。

 

第4週は、ゆっくりと「役に立つ」とは何かを人との繋がりの中で理解し、その方法が「天気予報」である事をはっきり確信した週であった。

まるでゆっくりと雲が流れ天気が変わるように、モネの心情も晴れやかになったのだった。

 

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百音にとっての「音楽」とは『おかえりモネ』震災とコロナ禍、裏テーマとして描かれる「音楽」 2021.6.9

宮城県気仙沼市の亀島で育った主人公、永浦百音(清原果耶)通称”モネ”が、偶然知り合った天気予報士の朝岡をきっかけに、「天気」に魅かれていき「天気予報士」を目指す連続テレビ小説『おかえりモネ』

3週目「故郷の海へ」では、モネが「音楽」を辞めた理由、そして中学時代の思い出が描かれた。

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カキに転生した(?)祖母、雅代の初盆のため、モネは故郷に帰港。

これまで漁師見習いである”亮ちん”こと亮(永瀬簾)がモネの幼馴染として登場していたが、他の幼馴染もようやく私たちに姿を見せてくれた。

個人的に、女子の寝床のシーンで、百音がうつ伏せ寝だったことに興奮した。

(筆者もうつぶせ寝であるため)

亮が、モネの妹、未知(蒔田彩珠)に以前「漁師への思い」を吐露していたように、皆それぞれ悩みを持っている。寺の息子である三生は、実家を継ぎたくないと、大学を放り出して現在、父親から逃げるように雲隠れしている。

 

筆者である私は、地縁が未だ強固なコミュニティで過ごした経験がないため、表面的でしかないが、彼らにとっての「親」「実家」「地域」というものは自身の「選択」を制限する、強いるものだと思う。

初盆に皆で集まり、わいわい近況報告をしたりお泊り会をしたり、そんな楽しい一面だけではない。苦悩も感じられた。

 

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モネもそんな理由で「選択」を強いられるのが嫌だったから、地元から離れたのか

そうではない事は、ここまで観ていれば察せられる。

モネだけでなく、亮や三生や未知、そして明日実(恒松祐里)、悠人(髙田彪我)にとって

ある種、選択を強いた出来事が10年前に起きた東日本大震災であった。

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中学時代の回想は、見ていて心が和む。モネを演じる清原は、幼い印象を与えるツインテールを披露。凛々しい表情を見せる彼女のツインテールは、ギャップ萌えを誘う。

「音楽をやっていた」「幼馴染とは吹奏楽部(?)で一緒だった」

という事は、これまでの描写で何となく察することが出来たが、まさか、部員0から、某超次元サッカーアニメのようにメンバーを集め、部を創設したとは思わず、驚いた。

(うち2名が亮目当てに加入しているところも何だか青春スポ根アニメのよう)

 

自ら部を創るため奔走するほど音楽が好きだったモネの転機になったのが、2011年3月11日。その日、音楽コースがある高校の合格発表のため仙台に渡っていたモネ。

結果は不合格。地元では、コンサートに向けての練習が行われており、モネの合否発表に胸をドキドキさせながら皆、練習に励んでいた。

付き添っていた父、耕治(内野聖陽)は、落胆するモネを励まそうとジャズクラブに誘う。お昼をそこで済ませ、店を出ようと立つモネの耳に、楽器の音が「ちょっと待ってよ」と鳴り響く。

その声を聞いたかのようにモネは演奏を聴いてから帰ることにする。

ジャズの人を陶酔させる雰囲気、混沌とした音楽の誘惑にモネは心躍らせ笑顔だったが、その瞬間、時計が14時26分を指した。

モネが心躍らせた音楽が、悪魔のような不吉なメロディに聞こえた。

 

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モネたちは震災後、数日間、故郷に帰れなかった。

ようやく帰港し避難所である学校に戻った彼女が見たのは、事態を受け止める間もなく避難所の手伝いをする幼馴染たち、そして不安の余りモネを見て泣きながら駆け寄ってきた未知であった。

筆者は、あの日まだ小学生であったが、テレビから流れる津波の映像が忘れられない。

だが、そんな私たちと変わらない子供たちが必死に避難所運営の一旦を担っていたという事実を今回初めて知った。このドラマは、大きな出来事の中に隠れた小さな出来事も伝える。

 

モネが島を離れた数日間。その数日間で様々な事が変わってしまった。

震災後、初めて顔を合わせた時の、呆然としながらも驚きを覚えている表情からも、

モネにとって部活の皆と「私」の間に、埋められない深い溝ができたように感じた。

『おかえりモネ』は、「天気予報士」を目指す物語だ。だが、その裏には、震災での体験があり、さらに言えば「音楽」があった。

 

モネは物語が始まった当初から「人の役に立つ」ことに固執している。

それは、自分が「役に立たなかった」、つまり1週目朝岡とのやり取りで度々口に出した「私はそこにいなかった」という言葉からも分かる、震災時に物理的に「いなかった」という出来事からの考えだろう。

だが、その一方で、今回、モネが中学時代、「音楽」のおかげで人の輪を繋げてかけがえのない仲間を得たこと、「音楽」が皆を笑顔にする事、言うなれば「音楽は人の役に立つ」場面が描かれたことで違う一面からもモネの心情を浮かび上がらせることになった。

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「音楽」の楽しさや、素晴らしさ、その価値を実感していた真っ最中のモネにとって、地震の瞬間に聴いていた音楽は、緊急地震速報以上のトラウマになってしまった。

そして、島に着き、音楽で繋がった仲間を助けられなかった事に、さらなるやるせなさを感じたのだと思う。何故なら、その繋がりをくれたはずの「音楽」が、自分が「そこにいなかった」原因だったから。

「音楽なんて何の役にも立たないよ」

父へ放ったこの言葉、それがモネが「役に立つ」に拘る本当の理由なのかもしれない。

 

コロナ禍の今、音楽はじめエンターテイメントは厳しい状況にあり、モネと同じような思いを抱いている人もいるかもしれない。

だが、私はそれでも「音楽」が無価値だとは思わない。

朝岡に教えてもらったのは、天気予報の有用性だけではない。天気の楽しさもだ。

参考書に目を細めながらも、幼馴染や家族の会話、そして空を眺め、楽しむことで天気予報士に近づこうとするモネ。

そんな彼女が、「天気予報」を通じて、いつか「音楽」の楽しさを思い出し、そして「音楽は役に立つ」とまた胸を張って言えることを切に願う。

 

【過去記事】

mizomone7118.hatenablog.jp

 

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『おかえりモネ』二人のヒーローが百音に教える「役に立つ」という事 2021.6.1

 早くも2週目までを終えた連続テレビ小説『おかえりモネ』

”海” 宮城県気仙沼市の亀島で育った主人公、永浦百音(清原果耶)通称”モネ”が、”森” 宮城県登米市森林組合で勤める中、様々な人々と触れ合いながら、”空”「天気予報士」という夢を見つけ、邁進する物語。

 今週3週目からは、モネが祖母の初盆のため地元に戻り、百音の同級生も登場する。

「何もできなかった」と時折、後悔の思いを漏らす3年前の出来事にも近づいていく。

 

 さて、先週2週目のタイトルは「いのちを守る仕事です」

2週目最後のモネが天気予報士の試験本を手に取るシーンで、たまたま開いたページに、書いてあったフレーズでもあり、2週目にモネが経験した出来事を表す言葉でもある。

 

2週目後半で、モネは地元の小学校の子供たちの山歩きと植林体験に付き添い、山に入るが、一人の男の子が山道を外れたため、モネは男の子と、後を追って下山することになる。だが、そんな最中、荒天に見舞われ身動きが取れなくなる。

どうしようもなくなったモネは、1週目に登米を訪れモネと面識のある気象予報士、朝岡に助言を求める。そして朝岡の天気予報に従い避難し、事なきを得たのだ。

 

「天気予報士」

1週目、モネは、森林セラピーのために山に入った時、朝岡が天気の変化をずばり言い当てた事に驚いた。

天気予報は、1時間のこと、さらに10分先の事なら正確に言い当てることが出来る。

私たちは当たり前のようにその天気予報と接しているが、よく考えると”魔法”のようにな不思議なものである。モネの驚いたあの顔が物語っている。

「未来が分かる」天気予報。

それを使う天気予報士は、魔法使いだ。

ここで、朝岡が、登米に来て訪れた「石ノ森章太郎ふるさと記念館」が思い出される。

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石ノ森章太郎といえば、仮面ライダースーパー戦隊の生みの親として有名であろう。

仮面ライダースーパー戦隊、彼ら「ヒーロー」は人々を守るため、正義のために悪と戦う。

私は、仮面ライダーが好きで約10年前からリアルタイム視聴を欠かさない。そのため、”石ノ森章太郎”というワードが出てきて、ニヤッとした。

そして、それと同時に2週目の出来事と「ヒーロー」が結びついて想起された。

そう、天気予報士も「ヒーロー」なのではないか?と。

未来を予測する特別な力を用い、自然(災害)という相手と闘い、モネと男の子の命を救った朝岡はヒーローだ。

そう考えると、2週目のタイトル「いのちを守る仕事です」も、ばっちりマッチしている。人々の命を守る、それはまさに仮面ライダースーパー戦隊のようなヒーローの代名詞だからだ。

 

 

モネのピンチに駆けつけたヒーローはもう一人いた。

森林組合の横にある診療所に勤める医師、菅波だ。

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菅波は、男の子が低体温症になってはいないかと、モネに電話をかけた。

その予測は当たっており、モネが急いで処置したことにより男の子は、無事に助かった。

朝岡と共に、菅波も「ヒーロー」だと言ったが、少しいじらしい人物だ。

森林組合に帰り、男の子の父親に感謝されたモネに、菅波は、

「駄目ですよ。真に受けちゃ。あなたのおかげで助かりましたっていうあの言葉は麻薬です」

と棘のある言葉を口にする。

確かに、モネ自身の力ではなく、二人のヒーローの助言のおかげだ。だが、モネ含め皆が助かってよかったと安堵していた際にその言葉は、少し場違いなのではないか。というかなんというかキツイ。

だが、そんな彼もただただいじわるで言ったようには思えない。その裏には「ヒーロー」なりの苦悩があるのではないか。

www.nhk.or.jp

いじわるな人物というのは、あくまで表面上の印象だ。

そして命を守るヒーローというのも同じだ。

ヒーローは、人々の命を守る正義の味方。素晴らしい存在という部分しか見えないが、その裏には、様々な葛藤や苦しみがある。初代仮面ライダーが、敵の力を用い生まれた。正義とは矛盾した悪から生まれた存在であることもその一つだろう。

現在放送中の、仮面ライダーセイバーの主題歌にもこんな歌詞がある。

「仮面に隠れた涙を見せずに」

youtu.be

菅波のモネに対する発言は、そんなヒーローの苦悩や葛藤といった負の側面を表している。ただただいじらしいのではない。彼もモネ同様、悩んでいるのだろう。

朝岡は、菅波と違い、いつも笑顔で、いじらしいとは縁遠い「ヒーロー」の鏡のような存在だ。だが、そんな彼にも仮面の裏に隠れた苦悩がある。

 

朝岡は、モネの「予報が外れたら怖くないか」という質問に
「天気には絶対はない。だから怖い。」と答えた。

あっけらかんとモネのヒーローでいる朝岡も「ヒーロー」である故の苦悩を抱えている。

仮面ライダーは必ず悪の結社に勝利するが、現実では必ず勝利するわけではない。

だが、現実でも「ヒーロー」は絶対を求められる。

医者ならば天気予報士なら人を救える。

その存在そのものが希望なのだ。

それ故、その重圧と、責任は強大。

人の”役に立ち”、人の命を守る感謝される一方、人に大きな失望と絶望を与えることになるかもしれないという恐怖も抱えなくてはならない。

菅波の「真に受けるな」という発言は、そんな救えなかった時に抱える責任を知っているからだと思う。過去の自分をモネに重ねて、いじらしい発言をしてしまったのだろう。

モネが理想とする「人の役に立つ仕事がしたい」という先にある、そんな「ヒーロー」

このドラマはそんな二人のヒーローが、「人の役に立つ」ことは充実感だけではなく、苦悩や重圧、責任を伴うのだと教えてくれているのだ。

 

そして、ここでモネの世話をしているサヤカ(夏木マリ)の言葉もより腑に落ちる。

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「死ぬまで、死んでからも役に立たなくてもいい」

「役に立つ仕事」をすることは、誰かのヒーローになる事でもある。

そしてそれには重圧や責任、苦悩が伴う。

だからこそ、無理に急いで役に立たなくてもいい。ただいるだけでもいいんだよ。

そういうサヤカの言葉が、モネに、そして視聴者に寄り添う。

サヤカの言葉がクッションになってくれるところがこのドラマの、良いバランス感であり心地よいところなのだ。

「おかえりモネ」はまだまだ始まったばかり今後に期待だ。

 

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「無関心」に奪われる私たちの心 映画『図書館戦争』レビュー

 先日、Amazon Primeで、『図書館戦争』シリーズが3作品同時に配信を開始した。

劇場版2作とTVSP1作の計3作からなる『図書館戦争』シリーズ。

有川浩の小説が原作の本作品。実写映画だけでなくアニメや漫画というマルチメディア展開もされた人気シリーズだ。

私自身、公開当初から作品自体に興味はあったものの、映画館に足を運ぶことなく時が過ぎてしまった。だが、つい最近、脚本を担当していた野木亜紀子のあるツイートを見かけたことを機に観ることになった。

 

さらっと、「脚本の野木亜紀子」と綴ったが、今回『図書館戦争』が配信されるというツイートを野木が行っているのを見て初めて、野木が本作品の脚本を担当していると知った。思えば1作目が公開された2013年当時、既にドラマ大好き人間ではあったものの、「脚本家が~」などという専門家的(オタク的)視点まではなかった。また野木をしっかり認識し始めたのも2018年『獣になれない私たち』だ。そのため、知らなくて当然である。

今回の『図書館戦争』以外にも、「え!これ野木氏だったのか!」と思う作品は多く、松本潤主演の爽快探偵ドラマ『ラッキーセブン』なんかもその一つ。

こういう過去作にまで遡って新しい発見ができるのも、長くドラマを好きでいる人故の楽しみだと思ったりもする。

 

www.tbs.co.jp

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野木の作品は、フィクションとしての都合の良さが無かったりだとか、キャラクターが作品を成立させる駒としてではなく、”生きている”という感じがするという点で、『獣になれない私たち』視聴後、好んで作品をチェックするようになった。

先日も『空飛ぶ広報室』を完走し、次に『重版出来!』を観ようと思っているそんなところである。

野木のインタビューを一部引用した、記事も書いているので、「まだ見てないよ!」という方は、この記事の後にでも是非とも見ていって欲しい。(少し長いが

mizomone7118.hatenablog.jp

 さて、少し脱線してしまったが、そんな野木が手掛けた作品ということもあり、期待値を上げて、視聴したのだが、実際その期待に沿った素晴らしい作品であるとともに、野木作品らしく、様々な思いが心の内から自然と出てくる作品であった。

そんな『図書館戦争』のストーリーはこんな感じだ。

1988年公序良俗を乱し、人権を侵害する表現を規制するための「メディア良化法」が制定される。法の施行に伴い、メディアへの監視権を持つメディア良化委員会が発足し、不適切とされたあらゆる創作物は、その執行機関である良化特務機関(メディア良化隊)による検閲を受けていた。この執行が妨害される際には、武力制圧も行われるという行き過ぎた内容であり、情報が制限され自由が侵されつつあるなか、弾圧に対抗した存在が図書館だった。

実質的検閲の強行に対し、図書館法に則る公共図書館は、「図書館の自由に関する宣言」を元に「図書館の自由法」を制定。あくまでその役割と本の自由を守るべく、やがて図書館は自主防衛の道へと突き進んだ。これ以降、図書隊と良化特務機関との永きに渡る抗争に突入していくことになる。

時代は昭和から正化へと移り、図書隊は激化する検閲やその賛同団体の襲撃によって防衛力を増す。それに伴い、拡大解釈的に良化法を運用し権勢を強めるメディア良化委員会との対立は、激化の一途をたどっていた。

時を同じくして正化26年(2014年10月4日。高校3年生の郁は、ある一人の図書隊員に検閲の窮地から救われる。幼少時代からの大好きな本を守ってくれた図書隊員との出会いをきっかけに、郁は彼を“王子様”と慕い、自分も彼のように「理不尽な検閲から本を守りたい」という強い思いを胸に、図書隊の道を歩み始めた。

そして、メディア良化法成立から30年を経た正化31年(2019年)。郁は、自身の夢である念願の図書隊へと入隊を果たしたが、指導教官である堂上篤は、郁が目指した憧れの図書隊員とは正反対の鬼教官だった。男性隊員にも引けを取らない高い身体能力が取り柄の郁は、顔も名前もわからない王子様を慕って人一倍過酷な訓練をこなしていく。一方、堂上は、5年前に自らの独断が起こした「ある事件」を重く受け止めていた。

やがて、郁は懸命な努力と姿勢が認められ、全国初の女性隊員として図書特殊部隊に配属される。そして、堂上のもとで幾多の困難な事件・戦いに対峙しながら、仲間とともに助け合い、成長していくこととなる。

図書館戦争 - Wikipedia

「平成」ではなく「正化」という元号が制定されていたり、”メディア良化法”なる法律が制定され、人々の表現の自由が著しく損なわれているといった点で、SF要素を含む極めてフィクション性の高いお話であることがストーリーから見て分かるだろう。

 

図書館戦争

図書館戦争

  • メディア: Prime Video
 

あらゆるメディアに検閲がかかり、発禁になる。言うなれば言論弾圧。そんなことが何の違和感もなく、抵抗もなく行われている世界。

設定だけは以前から何となく知っていたのだが

「そんなめちゃくちゃな事起こらないでしょ。さすがに感情移入できない。フィクションすぎる。」とも正直思っていた。

それもそうだ、そんな検閲・言論弾圧がまかり通っているだけでも、現実的ではないのに、それを行う際、場合によっては武力行使を伴うというのだ。

「そんな事ありえない」

そういう現実との乖離があるという印象もあり、作品に触れずにいたのかもしれない

今日この頃まで見なかったのかもしれない。

実際、そのイメージは一変するのだが。

 

無関心が異常な世界を作り出す

ここまで、全然「感情移入できない」「フィクションすぎる」などと言ったが、それはこの世界があまりにも異常だからだ。

明らかに言論弾圧であるメディア良化法なる法律が、成立してしまっているという事。

検閲のためだからと武力まで行使する事。

そのどれもが、まるで戦時下の社会情勢だからだ。

戦時中がいかに異常性に満ちていたか、”狂った”状況だったかは義務教育の中で、誰もが認識していることだと思う。

一致団結して敵国を倒す。戦争のためなら何でもする。

国のために死ねる事を誇りと思え。

戦時中に使われたそういった言葉に対し、違和感しか感じないことがその証拠だ。

だが、そこには現代に生きる私たちと同じような感覚を持っていた人も少なからずいたはずだ。なのに、戦争に突き進み最悪の状況が生まれてしまった。

そう、現実でもあり得ないと思われる異常性が見逃された歴史が確かにあるのだ。

それを踏まえると、この物語がただの戯言ではないと思えてくる。

劇中では、メディア良化法を後ろ手に、検閲を行う武装集団、メディア良化隊。

そして、その検閲に抵抗する図書館の武装部隊である「図書隊」の二つの組織の対立が描かれている。

 表現の自由を守るために、あくまで専守防衛のために武装を強いられた図書館。

表現の自由が脅かされる事態、本が燃やされる異常な事態。

図書館が武装する事も異常であるが、そのような状態に対して何もしない訳にもいかないだろう。この状況においてその行為自体に理解はできる。

だが、劇中において、市民の図書隊に対する考えには冷ややかなものが多い。

「そこまでして本を守る意味が分からない」

「たかが本で、戦争紛いの事を行うのはおかしい」

これに対して少しミクロな視点に考えてみた。 

私自身、”読書好き”ではない。

読書そのものは嫌いではないし、好きな方でもある。

だが、実際そこまで本は読まないし、正直無くても生きていける(テレビがなかったら生きていけないけど)

そういう、本にはそこまで興味がない。

そんな人からしたら武力抗争に至ってまで、本を守る意味が分からなくても不思議ではない。

だが、マクロに見てはどうだろう。

劇中で、図書隊の司令、仁科が、「本を焼けば、しまいに人を焼くようになる」と度々口にする。

本は思想であり、人の心、人の存在そのものでもある。

そういった考えから出る言葉であろう。

本が奪われる。

それは「本がなくなる」という事実に留まらない。

現代に至るまで生きてきた全ての人々の思いや英知がなくなる。

それは、今を生きる人々の思想や知識自体が否定されることでもある。

そう考えると、「どうでもいい」とはとても思えないはず。

だが、人々は「私には関係ない」という考えで、現実から目を背けた。

考えるのをやめた。

劇中世界では、そんな小さな無関心が、メディア良化法を成立させた。

そして、法律によって行われるメディアの弾圧が、人々から考える事、知識を得る事を奪っていくことになり、最終的に関心すら持つことのできない「非関心」を生みだすことになり、次第に異常性は、普通に変わった。

 

自分の好きなものだけを選ぶ現代。自分の好きなものしか目に入らない現代。

そんな今の社会では、自分に関係ないことに対する感覚は、日に日に鈍り、それこそ無関心が蔓延っている。そして一部では非関心に陥っている。

「どちらでもいいけど、皆が言うから批判しておこう」

「どちらでもいいけど、皆が良いっていうから良いんだろう」

「どうでもいい」「なんでもいい」という無関心だけならまだいい。

だが、その先の決断を他人に合わせて容易に行う非関心はとてもマズい。

SNSの普及によって拡大した、多数派至上主義は、いずれメディア良化法のような悪法を生み出し、劣悪な世界を生み出してしまうのかもしれない。

ヒトラームッソリーニ大日本帝国

全体主義と呼ばれ、遠い存在と思われた戦時下の状況がなんだか近く感じる。

あり得ないと思っている世界が、人々の小さな無関心と、想像力の欠如で、気が付けば成立してしまうという事実。それが確かにあるのだと。

この作品は、それを”ありえない”が普通のフィクションという形を使う事で、視聴者に身を以て感じさせるところに意味があるのではないだろうか。

 

本というメディアが具現化する「表現の自由

現代において「政治的無関心」や「若者の政治離れ」が叫ばれ始めてもう久しい。

この作品は、「表現の自由」という言葉、またメディア良化法という法律を始め、省庁、警察の思惑なども描かれ、政治色の強い作品になっている。

そういった点で、(政治的)無関心が起こすかもしれない政治の暴走に対する危惧を、無関心を超え非関心に至りかけている若者に、エンタメという形でなんとか届けようとしているとも言える。

無関心、そして非関心、ささいな事柄に対するものであっても、いずれは大きな問題へと波及する。

「政治的」と言うから堅苦しく感じるが、実際は私たちの生活に深く関係する事だ。

以前、ブログで野木のある発言を取り上げたが、ここでもう一度、その発言を引用したい。

ニュースやドキュメンタリーは観ないけどドラマや映画は観るという人はたくさんいます。エンターテインメントの形にすることで世の中に伝える、知ってもらうのは意義のあることであり、必要なことです。

逃げ恥脚本家語る「エンタメ共感競争」への異論 | 映画界のキーパーソンに直撃 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

表現の自由」といっても、正直なところ、教科書で学んだ用語にすぎず、大事だとは思っていても、イマイチその本質を理解できずに皆いるのではないだろうか。

本作では、”本が火炎放射器で焼かれる”、”雑に回収され処分される”という目に見えて痛ましい描写がある。

そうそれが「表現の自由が奪われる」という状況なのだ。

本作は、「本」という長い間生活を私たちと共にしてきたメディアを用いることで、「政治的」と括られてしまう問題を、私たちの身近な場所にまで敷居を下げて考えるきっかけをくれる。

まさに、この作品は野木の「エンタメという形で伝える」を体現している。

それが『図書館戦争』の良さなのだと思う。

 

現代において、情報の器は、紙から電子メディアに移行しつつある。

コロナ禍においてもオンラインやリモートといった言葉が飛び交い、デジタル化の動きをより感じる。

電子メディアの情報に、物理的な質量はない。

それ故に、言葉や表現の価値も軽薄になりがちだ。

消しゴムで力をかけて消した一文字も、長押し一回で簡単に消すようになる。

劇中でのメディア良化法は、本だけでなく全ての表現に適用される。

だが、その中でも「本」を所蔵する「図書館」が反旗を翻したのは、ワンタッチで紡げる言葉でなく、力をかけて紡がれる一文字一文字の価値を証明する存在であったからなのかもしれない。

 

【総括】実写映画『図書館戦争』を見て

 さて、ここまで『図書館戦争』という物語自体に関して語ったが、少しだけ、実写映画自体の感想を述べてたい。

映画の主人公は、榮倉奈々演じる笠原郁。

脚本の野木氏もツイートしているが、とにかく郁が可愛い。というか榮倉奈々が可愛い。うちの母親の個人的推し女優なのだが、榮倉奈々のイメージ、解釈通り!という配役だ。

というのも、郁は、勝気で男勝りな性格、運動は好きだが、勉強はイマイチというキャラクター。高校生の頃に、検閲図書として取り上げられそうになっていた本を守ってくれた人を、王子様と呼ぶ乙女っぷりも持ち合わせておりキャラクターとして非常に魅力的だ。

榮倉は今では、落ち着いた大人な印象が強いが、”若手女優”と言われていた頃は、とにかく「天真爛漫」が似合う女優だった。本作もそれに漏れず、誰もが好きになってしまう主人公を見事に演じていた。

そして、そんな高校生の郁を助けた王子様が、岡田准一演じる堂上。

とにかくカッコいい。後半につれ、郁が王子様の正体が、堂上だと気づき関係が近づいていく様は本作のキュンキュンポイントだろう。

周りを固める福士蒼汰栗山千明田中圭、土屋太鳳などのキャストも皆、個性豊かで生き生きとしていてとても心が満たされる作品であった。

 

そして全体としても、ここまで書いてきた「表現の自由とは?」などを問いかけながらも、図書隊と良化隊の武力衝突はなかなかの迫力であった。

アクション映画としても十分楽しめる。またそういったシリアスな面がある一方で、郁と堂上を中心としたムズムズする恋愛模様も描かれる。

シリアスとポップの程良いバランスはさすが野木脚本...!!と言わざるを得ない。

他にも語りたい事は山ほどあるが、最後に、、

図書館における本を巡る戦争というあり得ない状況を視聴者に提示することで、視聴者の興味を惹き、また、「本」と「武力」という実体の確かな存在で「表現の自由」「政治的無関心」といった概念的な取っつきにくい事柄に関心を向ける構成。

また、全体としてあり得ない状況があり得るかもしれないと視聴者に追体験させるロジックには非常に感銘を受けた。

改めて考える事、知識を得る事、ひいては想像力を持つことの大切さを感じさせられた作品であった。

 

今回は以上!!したっけ~!

図書館戦争 THE LAST MISSION

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  • 発売日: 2021/05/01
  • メディア: Prime Video
 

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あとがき

今回は思いつくままに『図書館戦争』3作品を観て思った事を書き連ねました。

本という存在。

私は本あまり読まないけどやっぱり電子書籍より紙の本がいいな。と思ってしまいます。劇中で本が破かれた、焼かれたり、銃でハチの巣にされているのが、とても心苦しかった。紙の本ならではの質感というか、平たく言えば愛着みたいなものがある気がして、電子書籍に移行できない組の一人です(笑)

本と言えば、皆さん、新聞は読みますか?

随分と読む方が少なくなっているようですが、私は就活を始めた頃から、毎日読んでいます。

全てを読むことは時間的に厳しいのですが、一面を俯瞰して見ると、大体のニュースの内容が入ってきて、そういう空間的に情報を概略的に把握できるのが、新聞の良さだなと思います。

その中で、”談話室”という新聞の読者が投稿するエッセイコーナーみたいなのが密かな楽しみです。老若男女、様々な人の文章が毎日読めるのですが、特に楽しみにしているのが、小学生から高校生までの子供さんの文章!

読んでみると感服するものばかりなんです。

文章は読みやすい構成になっているし、題材も身近な場面で、自分が考えたこと思った事を分かりやすく綴っていて、「すげぇ....」ってなることもしばしば。

そんなに若い子が新聞の一コーナーに文章を投稿して、私が見るのってすごい奇跡じゃない?って事をふと思いました。

読む人が少なくなっている新聞を、手に取って、かつ談話室のコーナーを見て、その上で「書きたい!」と思って投稿して、それが選ばれて、私が新聞を読んでそのコーナーを読むことで初めて、私のもとにその子の文章が届く。

そしてそれがとっっても素敵な文章。

そう思うとなんだかとても感動しちゃいませんか?

どこかの誰かが紡いだ一文字一文字には、想像できないくらいの偶然が、思いが乗っているのだと、『図書館戦争』、そしてこの新聞の寄稿コーナーで思わされました。

いつか、新聞の談話室に寄稿した少年少女にインタビューしてみたいなと思いました!!(笑)