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今の私を作っていた「教科書」2022.2.28

最近、部屋の整理をすることがあった。最近といっても一年前だ。というのも私はこの文章を下書きにして一年も放置していたからだ。一年越しに完成させてみる。

私自身、綺麗好きな方なので、掃除は嫌いではないが、やり始めると、なかなか止め時が分からなくて大変だ。

主に整理していたのは、学生時代の教科書。小学生、中学生、高校生の時に使っていた教科書など「もうとっくに捨てたわ!」そんな人もおそらく多いと思う。だが、私はどうも物が捨てられない人間で、ずっと取っておいていた。

まぁさすがに、そろそろ捨てなきゃと整理をしていると、何の変哲もない国語の教科書に気を引かれた。

掃除や整理する時に困るのは、止め時が分からないのともう一つ、気づいたら本を読んだりして脱線してしまう事だ。整理するときに陥るド定番だろう。そんなド定番に漏れる事なくハマり、私は、国語の教科書に足を止めて読み始めてしまった。

最初は「どんな文章が書いてあったっけ?」と確認程度で読み始めたのだが、次第に「え!こんな文章もあるんだ!面白そう!」などと本の世界、いや教科書の世界に飲み込まれてしまっていた。

まぁ、そんな教科書を引っ張り出して来て、その世界にのめり込むなんて、正直私以外にいるのかという感じであるが、教科書に載っている文章は、なかなかに私好みの哲学的なものが多い。「哲学?」となっている人に分かりやすく説明すると、”自己”に関する事だったり、”コミュニケーション”に関する事だったり、、そんなところだ。

 

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学生時代の国語の問題集の1ページ。教科書もそうだが、書き込み魔だった。問題を解く前に、段落に番号を振り、問題文に線を引く、そして文章を読みながら内容をまとめて空白に書いていく。これが私の現代文必勝法だった。

「相手を自己の立場の原点としてのみ考える拡散型自我構造を持つ日本人には最も異質なものである」

そんな一文で終わるのは鈴木孝夫氏の『相手依存の自己規定』

この文章では近頃の若者が「自分のありのままを打ち明けられる、相談できる相手が誰もいない事」に悩んでいるという話題から始まり、鈴木氏が担当していた大学の講義でそれを生徒に伝えると笑いが起きたという一節で幕を開ける。

どうも読み進めると、アメリカでは「個人が、本当に個人である部分は、他人に言えない部分」であって、それを打ち明けるなど、個人としての自分を危険に晒すようなものだと考えるらしい。そのためアメリカ人からすれば、日本の若者の悩みはむしろ「それでいいのに。何を悩んでいるんだ」と感じ、笑いが起きた理由がそこで明らかになる。

私も、共感を求める、分かって欲しいと思う、そしてそれが充足されない事に悩むタイプなので生粋の日本人だなと思った。

というように案外、教科書には、大人になってから読んでも「お~~!!」という事が書いていたりする。

 

「中学生くらいになると、まず家族や周りの人間に対して批判的になる傾向がみられる」

こちらは竹田青嗣氏の『「批評」の言葉をためる』の一節。この文章では「批判」と「批評」の違いが語られ、「批評」こそが大事な能力なのだと述べられている。

「あの歌いいよね」「分かる~」「昨日のドラマ見た?あの展開はないよね。」「あれはないわ。」

好きか嫌いかでやり取りされるこんな会話は、「批判」でしかなく、そこから「あの歌、~~って歌詞が素敵だから良いよね」とか理由が入ってくると、「批評」に近づいていく。そして「批評」は竹田いわく「自分なりの価値基準の根拠を明確にして、物事を評価すること」だという。それが出来るようになると、「趣味が同じ」「好きなものが同じ」人だけでなく、趣味が違う人、”好き”が違う人とも仲良くなれるのだと。なぜなら互いの「自己ルール」、価値基準を交換し合い調整し合えるようになるから。

そんな「自己ルール」は自分では確認できない。相手とのコミュニケーションの中で、自分がどういう理由で何を好きだと判断しているのかを知るというのだ。

そして、「自己ルール」つまり自分自身を理解するには、「批評」が必要であり、「批評」を行うには、自分の価値基準を表現するための言葉が自分の中にたまっている必要がある。という結論で締めくくられる。

私のブログはもうすぐ3周年。ありがたい事に記事を褒めてもらう事も度々だ。自分でも「文章を書くのは得意なんだ」と自信を持って言えるようになってきた。だが、私は物書きに多い「読書好き」という要素を持っていない。じゃあどこで培われたのだろう?

そう思った時、今回の記事のオチが決まった。そうだ。「国語の授業が好きだったから」だ。そこで私は、批評に必要な言葉を蓄積した。だから、ドラマや音楽から多くの事を感じ取れ、それを言葉で表現できる、そしてそこに自己を内在させられるのかもしれない。そして生きられている。

ブログを書くようになって、たまたま見つけた学生時代の教科書。そして、今、文章を書いているから、昔「教科書」と向き合ったからこそ、今この瞬間、「教科書」の豊かさに重要さに気づいた。なんだかとても逆説的な体験をした気がする。

こうやって、色んなエンタメを楽しめているのもあの頃の「教科書」があったからなのかもしれない。

「学校で習う勉強なんて役に立たない」

なんだか今はそんな定型文をしっかりと否定できる気がする。その真意に気づけているのは、あの頃の勉強が役に立っている証拠そのものだから。

 

あれ。ところで整理は??

まぁいっか。

 

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