「無関心」に奪われる私たちの心 映画『図書館戦争』レビュー
先日、Amazon Primeで、『図書館戦争』シリーズが3作品同時に配信を開始した。
劇場版2作とTVSP1作の計3作からなる『図書館戦争』シリーズ。
有川浩の小説が原作の本作品。実写映画だけでなくアニメや漫画というマルチメディア展開もされた人気シリーズだ。
私自身、公開当初から作品自体に興味はあったものの、映画館に足を運ぶことなく時が過ぎてしまった。だが、つい最近、脚本を担当していた野木亜紀子のあるツイートを見かけたことを機に観ることになった。
今まで劇場版二作の同時放送はあったけど、三作続けて観られるのは今回が初!配信のタイミングが合うように辻本Pが頑張ったらしい。おつかれさまでした🙇
— 野木亜紀子:|| (@nog_ak) 2021年5月2日
今作は有川ひろ先生原作のSF……といっても我々の世界とほんの少し違うだけのパラレルワールドで、何が違うかと言えば……#図書館戦争 https://t.co/Oqh7cgsOIN
さらっと、「脚本の野木亜紀子」と綴ったが、今回『図書館戦争』が配信されるというツイートを野木が行っているのを見て初めて、野木が本作品の脚本を担当していると知った。思えば1作目が公開された2013年当時、既にドラマ大好き人間ではあったものの、「脚本家が~」などという専門家的(オタク的)視点まではなかった。また野木をしっかり認識し始めたのも2018年『獣になれない私たち』だ。そのため、知らなくて当然である。
今回の『図書館戦争』以外にも、「え!これ野木氏だったのか!」と思う作品は多く、松本潤主演の爽快探偵ドラマ『ラッキーセブン』なんかもその一つ。
こういう過去作にまで遡って新しい発見ができるのも、長くドラマを好きでいる人故の楽しみだと思ったりもする。
野木の作品は、フィクションとしての都合の良さが無かったりだとか、キャラクターが作品を成立させる駒としてではなく、”生きている”という感じがするという点で、『獣になれない私たち』視聴後、好んで作品をチェックするようになった。
先日も『空飛ぶ広報室』を完走し、次に『重版出来!』を観ようと思っているそんなところである。
野木のインタビューを一部引用した、記事も書いているので、「まだ見てないよ!」という方は、この記事の後にでも是非とも見ていって欲しい。(少し長いが
さて、少し脱線してしまったが、そんな野木が手掛けた作品ということもあり、期待値を上げて、視聴したのだが、実際その期待に沿った素晴らしい作品であるとともに、野木作品らしく、様々な思いが心の内から自然と出てくる作品であった。
そんな『図書館戦争』のストーリーはこんな感じだ。
1988年、公序良俗を乱し、人権を侵害する表現を規制するための「メディア良化法」が制定される。法の施行に伴い、メディアへの監視権を持つメディア良化委員会が発足し、不適切とされたあらゆる創作物は、その執行機関である良化特務機関(メディア良化隊)による検閲を受けていた。この執行が妨害される際には、武力制圧も行われるという行き過ぎた内容であり、情報が制限され自由が侵されつつあるなか、弾圧に対抗した存在が図書館だった。
実質的検閲の強行に対し、図書館法に則る公共図書館は、「図書館の自由に関する宣言」を元に「図書館の自由法」を制定。あくまでその役割と本の自由を守るべく、やがて図書館は自主防衛の道へと突き進んだ。これ以降、図書隊と良化特務機関との永きに渡る抗争に突入していくことになる。
時代は昭和から正化へと移り、図書隊は激化する検閲やその賛同団体の襲撃によって防衛力を増す。それに伴い、拡大解釈的に良化法を運用し権勢を強めるメディア良化委員会との対立は、激化の一途をたどっていた。
時を同じくして正化26年(2014年)10月4日。高校3年生の郁は、ある一人の図書隊員に検閲の窮地から救われる。幼少時代からの大好きな本を守ってくれた図書隊員との出会いをきっかけに、郁は彼を“王子様”と慕い、自分も彼のように「理不尽な検閲から本を守りたい」という強い思いを胸に、図書隊の道を歩み始めた。
そして、メディア良化法成立から30年を経た正化31年(2019年)。郁は、自身の夢である念願の図書隊へと入隊を果たしたが、指導教官である堂上篤は、郁が目指した憧れの図書隊員とは正反対の鬼教官だった。男性隊員にも引けを取らない高い身体能力が取り柄の郁は、顔も名前もわからない王子様を慕って人一倍過酷な訓練をこなしていく。一方、堂上は、5年前に自らの独断が起こした「ある事件」を重く受け止めていた。
やがて、郁は懸命な努力と姿勢が認められ、全国初の女性隊員として図書特殊部隊に配属される。そして、堂上のもとで幾多の困難な事件・戦いに対峙しながら、仲間とともに助け合い、成長していくこととなる。
「平成」ではなく「正化」という元号が制定されていたり、”メディア良化法”なる法律が制定され、人々の表現の自由が著しく損なわれているといった点で、SF要素を含む極めてフィクション性の高いお話であることがストーリーから見て分かるだろう。
あらゆるメディアに検閲がかかり、発禁になる。言うなれば言論弾圧。そんなことが何の違和感もなく、抵抗もなく行われている世界。
設定だけは以前から何となく知っていたのだが
「そんなめちゃくちゃな事起こらないでしょ。さすがに感情移入できない。フィクションすぎる。」とも正直思っていた。
それもそうだ、そんな検閲・言論弾圧がまかり通っているだけでも、現実的ではないのに、それを行う際、場合によっては武力行使を伴うというのだ。
「そんな事ありえない」
そういう現実との乖離があるという印象もあり、作品に触れずにいたのかもしれない
今日この頃まで見なかったのかもしれない。
実際、そのイメージは一変するのだが。
無関心が異常な世界を作り出す
ここまで、全然「感情移入できない」「フィクションすぎる」などと言ったが、それはこの世界があまりにも異常だからだ。
明らかに言論弾圧であるメディア良化法なる法律が、成立してしまっているという事。
検閲のためだからと武力まで行使する事。
そのどれもが、まるで戦時下の社会情勢だからだ。
戦時中がいかに異常性に満ちていたか、”狂った”状況だったかは義務教育の中で、誰もが認識していることだと思う。
一致団結して敵国を倒す。戦争のためなら何でもする。
国のために死ねる事を誇りと思え。
戦時中に使われたそういった言葉に対し、違和感しか感じないことがその証拠だ。
だが、そこには現代に生きる私たちと同じような感覚を持っていた人も少なからずいたはずだ。なのに、戦争に突き進み最悪の状況が生まれてしまった。
そう、現実でもあり得ないと思われる異常性が見逃された歴史が確かにあるのだ。
それを踏まえると、この物語がただの戯言ではないと思えてくる。
劇中では、メディア良化法を後ろ手に、検閲を行う武装集団、メディア良化隊。
そして、その検閲に抵抗する図書館の武装部隊である「図書隊」の二つの組織の対立が描かれている。
表現の自由を守るために、あくまで専守防衛のために武装を強いられた図書館。
表現の自由が脅かされる事態、本が燃やされる異常な事態。
図書館が武装する事も異常であるが、そのような状態に対して何もしない訳にもいかないだろう。この状況においてその行為自体に理解はできる。
だが、劇中において、市民の図書隊に対する考えには冷ややかなものが多い。
「そこまでして本を守る意味が分からない」
「たかが本で、戦争紛いの事を行うのはおかしい」
これに対して少しミクロな視点に考えてみた。
私自身、”読書好き”ではない。
読書そのものは嫌いではないし、好きな方でもある。
だが、実際そこまで本は読まないし、正直無くても生きていける(テレビがなかったら生きていけないけど)
そういう、本にはそこまで興味がない。
そんな人からしたら武力抗争に至ってまで、本を守る意味が分からなくても不思議ではない。
だが、マクロに見てはどうだろう。
劇中で、図書隊の司令、仁科が、「本を焼けば、しまいに人を焼くようになる」と度々口にする。
本は思想であり、人の心、人の存在そのものでもある。
そういった考えから出る言葉であろう。
本が奪われる。
それは「本がなくなる」という事実に留まらない。
現代に至るまで生きてきた全ての人々の思いや英知がなくなる。
それは、今を生きる人々の思想や知識自体が否定されることでもある。
そう考えると、「どうでもいい」とはとても思えないはず。
だが、人々は「私には関係ない」という考えで、現実から目を背けた。
考えるのをやめた。
劇中世界では、そんな小さな無関心が、メディア良化法を成立させた。
そして、法律によって行われるメディアの弾圧が、人々から考える事、知識を得る事を奪っていくことになり、最終的に関心すら持つことのできない「非関心」を生みだすことになり、次第に異常性は、普通に変わった。
自分の好きなものだけを選ぶ現代。自分の好きなものしか目に入らない現代。
そんな今の社会では、自分に関係ないことに対する感覚は、日に日に鈍り、それこそ無関心が蔓延っている。そして一部では非関心に陥っている。
「どちらでもいいけど、皆が言うから批判しておこう」
「どちらでもいいけど、皆が良いっていうから良いんだろう」
「どうでもいい」「なんでもいい」という無関心だけならまだいい。
だが、その先の決断を他人に合わせて容易に行う非関心はとてもマズい。
SNSの普及によって拡大した、多数派至上主義は、いずれメディア良化法のような悪法を生み出し、劣悪な世界を生み出してしまうのかもしれない。
全体主義と呼ばれ、遠い存在と思われた戦時下の状況がなんだか近く感じる。
あり得ないと思っている世界が、人々の小さな無関心と、想像力の欠如で、気が付けば成立してしまうという事実。それが確かにあるのだと。
この作品は、それを”ありえない”が普通のフィクションという形を使う事で、視聴者に身を以て感じさせるところに意味があるのではないだろうか。
本というメディアが具現化する「表現の自由」
現代において「政治的無関心」や「若者の政治離れ」が叫ばれ始めてもう久しい。
この作品は、「表現の自由」という言葉、またメディア良化法という法律を始め、省庁、警察の思惑なども描かれ、政治色の強い作品になっている。
そういった点で、(政治的)無関心が起こすかもしれない政治の暴走に対する危惧を、無関心を超え非関心に至りかけている若者に、エンタメという形でなんとか届けようとしているとも言える。
無関心、そして非関心、ささいな事柄に対するものであっても、いずれは大きな問題へと波及する。
「政治的」と言うから堅苦しく感じるが、実際は私たちの生活に深く関係する事だ。
以前、ブログで野木のある発言を取り上げたが、ここでもう一度、その発言を引用したい。
ニュースやドキュメンタリーは観ないけどドラマや映画は観るという人はたくさんいます。エンターテインメントの形にすることで世の中に伝える、知ってもらうのは意義のあることであり、必要なことです。
逃げ恥脚本家語る「エンタメ共感競争」への異論 | 映画界のキーパーソンに直撃 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
「表現の自由」といっても、正直なところ、教科書で学んだ用語にすぎず、大事だとは思っていても、イマイチその本質を理解できずに皆いるのではないだろうか。
本作では、”本が火炎放射器で焼かれる”、”雑に回収され処分される”という目に見えて痛ましい描写がある。
そうそれが「表現の自由が奪われる」という状況なのだ。
本作は、「本」という長い間生活を私たちと共にしてきたメディアを用いることで、「政治的」と括られてしまう問題を、私たちの身近な場所にまで敷居を下げて考えるきっかけをくれる。
まさに、この作品は野木の「エンタメという形で伝える」を体現している。
それが『図書館戦争』の良さなのだと思う。
現代において、情報の器は、紙から電子メディアに移行しつつある。
コロナ禍においてもオンラインやリモートといった言葉が飛び交い、デジタル化の動きをより感じる。
電子メディアの情報に、物理的な質量はない。
それ故に、言葉や表現の価値も軽薄になりがちだ。
消しゴムで力をかけて消した一文字も、長押し一回で簡単に消すようになる。
劇中でのメディア良化法は、本だけでなく全ての表現に適用される。
だが、その中でも「本」を所蔵する「図書館」が反旗を翻したのは、ワンタッチで紡げる言葉でなく、力をかけて紡がれる一文字一文字の価値を証明する存在であったからなのかもしれない。
【総括】実写映画『図書館戦争』を見て
さて、ここまで『図書館戦争』という物語自体に関して語ったが、少しだけ、実写映画自体の感想を述べてたい。
映画の主人公は、榮倉奈々演じる笠原郁。
脚本の野木氏もツイートしているが、とにかく郁が可愛い。というか榮倉奈々が可愛い。うちの母親の個人的推し女優なのだが、榮倉奈々のイメージ、解釈通り!という配役だ。
というのも、郁は、勝気で男勝りな性格、運動は好きだが、勉強はイマイチというキャラクター。高校生の頃に、検閲図書として取り上げられそうになっていた本を守ってくれた人を、王子様と呼ぶ乙女っぷりも持ち合わせておりキャラクターとして非常に魅力的だ。
アクション活劇だけど、ラブがコメってる作品です。ニヤニヤしながら見てください。榮倉さん演じる郁が無茶苦茶かわいい。岡田師範の堂上もかわいい。特にドラマSP。ニヤニヤ。#図書館戦争
— 野木亜紀子:|| (@nog_ak) 2021年5月2日
榮倉は今では、落ち着いた大人な印象が強いが、”若手女優”と言われていた頃は、とにかく「天真爛漫」が似合う女優だった。本作もそれに漏れず、誰もが好きになってしまう主人公を見事に演じていた。
そして、そんな高校生の郁を助けた王子様が、岡田准一演じる堂上。
とにかくカッコいい。後半につれ、郁が王子様の正体が、堂上だと気づき関係が近づいていく様は本作のキュンキュンポイントだろう。
周りを固める福士蒼汰、栗山千明、田中圭、土屋太鳳などのキャストも皆、個性豊かで生き生きとしていてとても心が満たされる作品であった。
そして全体としても、ここまで書いてきた「表現の自由とは?」などを問いかけながらも、図書隊と良化隊の武力衝突はなかなかの迫力であった。
アクション映画としても十分楽しめる。またそういったシリアスな面がある一方で、郁と堂上を中心としたムズムズする恋愛模様も描かれる。
シリアスとポップの程良いバランスはさすが野木脚本...!!と言わざるを得ない。
他にも語りたい事は山ほどあるが、最後に、、
図書館における本を巡る戦争というあり得ない状況を視聴者に提示することで、視聴者の興味を惹き、また、「本」と「武力」という実体の確かな存在で「表現の自由」「政治的無関心」といった概念的な取っつきにくい事柄に関心を向ける構成。
また、全体としてあり得ない状況があり得るかもしれないと視聴者に追体験させるロジックには非常に感銘を受けた。
改めて考える事、知識を得る事、ひいては想像力を持つことの大切さを感じさせられた作品であった。
今回は以上!!したっけ~!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あとがき
今回は思いつくままに『図書館戦争』3作品を観て思った事を書き連ねました。
本という存在。
私は本あまり読まないけどやっぱり電子書籍より紙の本がいいな。と思ってしまいます。劇中で本が破かれた、焼かれたり、銃でハチの巣にされているのが、とても心苦しかった。紙の本ならではの質感というか、平たく言えば愛着みたいなものがある気がして、電子書籍に移行できない組の一人です(笑)
本と言えば、皆さん、新聞は読みますか?
随分と読む方が少なくなっているようですが、私は就活を始めた頃から、毎日読んでいます。
全てを読むことは時間的に厳しいのですが、一面を俯瞰して見ると、大体のニュースの内容が入ってきて、そういう空間的に情報を概略的に把握できるのが、新聞の良さだなと思います。
その中で、”談話室”という新聞の読者が投稿するエッセイコーナーみたいなのが密かな楽しみです。老若男女、様々な人の文章が毎日読めるのですが、特に楽しみにしているのが、小学生から高校生までの子供さんの文章!
読んでみると感服するものばかりなんです。
文章は読みやすい構成になっているし、題材も身近な場面で、自分が考えたこと思った事を分かりやすく綴っていて、「すげぇ....」ってなることもしばしば。
そんなに若い子が新聞の一コーナーに文章を投稿して、私が見るのってすごい奇跡じゃない?って事をふと思いました。
読む人が少なくなっている新聞を、手に取って、かつ談話室のコーナーを見て、その上で「書きたい!」と思って投稿して、それが選ばれて、私が新聞を読んでそのコーナーを読むことで初めて、私のもとにその子の文章が届く。
そしてそれがとっっても素敵な文章。
そう思うとなんだかとても感動しちゃいませんか?
どこかの誰かが紡いだ一文字一文字には、想像できないくらいの偶然が、思いが乗っているのだと、『図書館戦争』、そしてこの新聞の寄稿コーナーで思わされました。
いつか、新聞の談話室に寄稿した少年少女にインタビューしてみたいなと思いました!!(笑)