みぞ!のみぞ知る世界!!

とにかく自由に好きなことについて書いていきます。

あなたの心の「色」は??2021.2.1

 

先日(下書きで温めていて年を越してしまった...(笑))『荒ぶる季節の乙女どもよ。』というドラマが最終回を迎えた。

このドラマは「性」に翻弄される女子高生の日常を描いた物語だ。

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主要な人物は「文芸部」という部活のメンバー5人。

なかなかの曲者集団で、学校では厄介者扱いされている。

そんな5人は文字通り、文学を愛しており、一方で「性的なもの」を忌避していた。

ある日、性行為を表す「SEX」という言葉が話題に挙がり、物語は始まる。

今回話題に挙げるのはその物語の最終回でのあるやり取りである。

 

ある生徒が妊娠したことに、学校は怒り心頭で、彼女を退学させ、生徒全員に男女交際を禁じることになる(随分、横暴だが)

そんな折、「性」を酷く忌避していた文芸部の部長も、ある男子生徒と交際していた。文芸部は部長を守るため、学校に立てこもることになる。

 

このまま学校と「戦う」か、それとも「話し合う」か、各々が悩む中、

人質にとられていた顧問の教師がある提案を行うのだ。

 

「色鬼をしましょう。」

 

色鬼とは、鬼となる人が色を一つ宣言し、その色のものに触っていれば鬼には捕まらず触っていない人は鬼に捕まってしまうというルールの鬼ごっこっだ。

彼は色鬼を行う理由も続ける。

 

「色には主観と客観が曖昧なところがある。だから各々が自らの視点で色を判断しなければならない。その中で自然と自らを晒しあうことになるから話し合いと同じ効果があるんじゃないか?一応、戦いでもあるし」

 

確かに不確実なものだ。例えば、信号機。色自体は緑なのに、皆、青と呼ぶ。青も緑も、同じようなものを集め、「青!!」「緑!!」と名付けたに過ぎない。

青と緑の区別が曖昧になるのも何もおかしい事ではない。

 

主人公の和紗は、幼馴染の泉と気まずい関係にあった。

互いに、それぞれの好意に気づき、交際に至ったのだが、「性」を意識しすぎて、お互いに気まずい状態になってしまった。

そんな二人も先生の提案した色鬼の中で、心を開放していく。

宵闇どきに、校舎の廊下で対峙する二人。

和紗はずっと辺りが良く見えない暗いところにいる気がしていた。

そこに月の光が差し込む。

その瞬間、自分たちが暗がりにいたのではなく、青の中にいたと気づくのだ。

「この色が欲しい」「この色だ」

二人とも、同じ色を求めた。

その瞬間、いろんなモヤモヤが溢れ出す。

 

「これからもずっといたいから、あんまり急いで変な感じになるのが嫌」

「好きだしかっこいい、かわいいと思うけど、性欲とかとイコールにならない。」

そうやってモヤモヤを全て吐き出し終わると、和紗はこう呟くのだ。

 

「これから何度も不安になると思う。でも泉とおんなじ気持ちとおんなじ言葉私はちゃんと持ってるんだって分かったから、不安になっても、それを思い出せばきっと大丈夫」

 

そしてドラマの最後。カラフルな沢山の色のペンキをぶちまける文芸部。

 

青というより真っ白

白と言えば純潔の白。穢れがなく心が清らかなさま

異性との性的な交わりがなく心身が清らかなこと

ウェディングドレスが白なのは、あなた色に染まるためとか言う。

これからいろんなことを知ったら私たちどんどん汚れていくのかしら?

そうは思わない。 

校舎を牛耳ってた青が、白い光に照らされたら、色だらけになった。

これだけの色が青の下に眠ってた。

染まっていくのでも、汚されるのでもない。新しい気持ちに照らされると自分でも気づいてなかった自分が元々持っていた色がどんどん浮かび上がってくるんだ。

 

こんなセリフでこのドラマは終幕する。

 

このドラマは「性」に翻弄されるドラマであったが、「」という点で、とても考えさせられるところがあった。

主人公たちの心に靄が立ち込めていた時に、行われた色鬼。

赤... 青... 黄....

彼女たちが求めた色は、そんな簡素なラベルで表される色ではなかった。

 

現代社会では、常に「自分は何者か?」と問われ続ける。

それは自分の心の「」を聞かれているのと同じだと思う。

だが、日々変わり続け、自分でも表しきれない心の内を、簡単に表せるはずがない。

赤も、青も、緑も、黄色も、白も、黒も、月の光の色も、太陽の色でも、青春の青でも、時によって場所によって、気分によって色んな色が湧き出ては溶け混ざり合って、

「心」になっている。

そして、何かを感じる度に、新しい色が心の内から滲み出す。

 

このドラマの主題歌。三阪咲さんの「友よ恋よ」

youtu.be

この主題歌もドラマにぴったりだった。

なんとなくで 動き出した世界 友も恋も 傷つきたくないの

惨めな感情に さよならできたら

「あなたの心の色を教えて?」

ヘタクソでいい

物語終盤、色鬼を通じて、自らの思いを晒し合った主人公たち。

色鬼を教えた先生が言ったように、色は曖昧だからこそ、心情がダイレクトに反映される。

だから、自分が好きだと思う色、それが互いに一致すれば、その二人の心も重なり合うのではないだろうか。

そして、違っていたとしても、その互いの色が混ざり合って新たな色が生まれていくのではないだろうか。

 

今回、このドラマで感じたのは、「」は、ただの指示語ではないという事だ。

自分の心の矛盾も、やり切れない思いも、モヤモヤも、全て「心はカラフルだから!これでいい!!」と正当化することが出来る。

そして互いに「この色好きだ!!」と思えれば、それだけで通じ合う事ができる。

そんな風に、好きなもの、嫌いなものを伝え合って、自分の心のキャンバスを色鮮やかに彩りたいものだ。

 

では、今日はこの辺で。したっけー!!

 

 

 
 

 

「普通」を疑い「芯」を育てる。2020.10.9

朝ドラで感じた過去の「異質な普通」

 私は朝、いつも観る番組がある。それは「朝の連続テレビ小説」だ。通称”朝ドラ”と呼ばれているのは皆、ご承知だろう。

その朝ドラ、現在は往年の作曲家、小関裕而をモデルにした「エール」が放送中。

音楽をテーマにしたドラマという事で、毎日楽しみに観ている。

www.nhk.or.jp

コロナウィルスの影響もあり撮影が遅れていたが、物語は佳境に向かっている。

舞台は、戦時中に移り、主人公の裕一が戦争に加担する曲を作りながら、苦悩する姿が描かれている(今後、より描かれていくのだろう)

「戦争」というのは、今を生きる私には「惨く恐ろしい絶対に起きてはならないもの」という漠然としたイメージでしかない。

そのため、ドラマの中で、裕一の義理の姉、吟が「戦争なのだから」「お国のため」と苦しみながら気丈に言い放つ姿に「なぜそこまでして」と浅はかながら思ってしまう。

そんな吟に対して、音は一貫して「音楽は人を幸せにするもの」「みんな違っていて当たり前」と答える。

私は当然ながら、音に共感した。だが、このドラマは音、裕一といった「音楽」に親しんでいる人間にスポットが当たっており、戦時下では、吟の意見が「普通」だったのだろう。

私は、違和感を持ちながら、その違和感こそ戦争の異常さなんだと何となくだが感じた。

「常識」よりも「良識」を

 その後の、情報番組の「あさイチ」も私の朝の常連番組。博多華丸大吉の二人、近江アナウンサーのやり取りがとても穏やかな気持ちにしてくれる。

私事だが、先日、「推し」特集の際、『推しのどこが好きかを考えることは、自己理解につながる』と心理カウンセラーの方が言っていたのだが、私が以前、ブログに書いた意見とほほ同じだったので誇らしかった(笑)

www1.nhk.or.jp

 

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金曜日のコーナーは各界の著名人をゲストに迎え、トークするプレミアムトーク

今日のゲストは漫画家のヤマザキマリさんという方だった。

代表作は「テルマエロマエ

代表作を聞けば「あ~あれを書いた人か!!」となるのではないか?

 

ヤマザキさんはイタリアの方と国際結婚され、お子さんもいるそう。

若いころから世界中を飛び回って、コロナ前まではイタリアと日本を行き来

(とはいってもほぼ日本にはいなかったそう)しているそうだ。

 

私は根っからのインドアかつ、地元大好き家大好き人間。それ故、海外旅行、留学の類は興味がない。そして引っ越しすら戸惑いが生じる部類の人間だ。

母譲りなのか、母も同じ性格で、TVを観ながら「この人はそれができる人よね」と言っていた。

 

多くの話の中で、コロナ禍でのご主人との話題に。

イタリアと日本ではコロナ対策、そして感染状況、メディアとの向き合い方全てが違い、たびたび電話で言い合いになってしまったという。

その時、ヤマザキさんはメディアで言っている情報、つまり世の中(日本)での「普通」を疑い、過去の感染症流行(パンデミック)に関する本を読むという行動を起こした。

それ以降、その知識を元に自ら情報を咀嚼し、ご主人と話し合われ、ご主人もその変化に気づき、お互い歩み寄ることができたそう。

 

ヤマザキさんが世界中を回っていて感じられたのは「普通なんてない」という事。

地理的にも日本とイタリアでは制度も、そこに生きる人間の考えも違って当たり前。

まさに、世界中を回られているヤマザキさんならではの説得力!!と言わざるを得ない。当たり前の事だが、限られたスペースで生きる我々が忘却してしまう事の一つだと思う。

これは先に紹介した「エール」の話でも同じ。時間軸上、過去と今。もちろん異なっている。だから違和感を感じていても、当時は「戦争に勝つためになら何でもする」という「常識」がそこにはあった。

 

そんな中で、ヤマザキさんが取った方法は「常識ではなく良識を持つ」こと。

自分に入ってくる「普通」をそのまま持つのではなく、自らの中で様々な道具を用いながら咀嚼し、自分の中で判断する。大事なのは「常識」を保持することではなく、普遍的に数多ある「常識」と対峙し、自分の中と融和させる能力(良識)を持つこと。

私はそう解釈した。

 

母は「この人は行動力があって才能があるから大成してこうやって言えるんだ」と言う。性格によると。だがそれも世の中の「常識」故の考え方なのではないだろうか。

”芸能人だから” ”賢いから” ”外国じゃないから” ”昔じゃないから”

人は「常識」を糧に判断を行う。でもそれが形だけになっちゃ意味がない。

確かにここは外国ではないし、戦時中でもない、そして私はヤマザキマリさんでもないし、推しのような立派な人間でもない、地位も名誉もない。

だけど、それは他者の考えを咀嚼せず、自分としての意見を放棄することではない。

時間、空間、環境、地位、性別。

その違いを了解した上で、それに向き合い、それぞれの「常識」と対峙し、そこから自分の「良識」を鍛えていく。

「~から」と思考停止するのではなく、自分の内に取り込み、自分の芯となる考えを強くしていく。

それが大事なのではないかと思った。

自分自身も「私はインドアだし、大人しいほうだしコミュ力ないから~」と自らの意見を放棄することが多かったのだが、性格はどうあれ、他者と向き合える芯だけは持とうと最近思っている。大人しかろうがコミュ力が高かろうが最終的に強いのは、「良識を持つことだ」

ゲートをウェイウェイしていこうぜ!!!

本筋はここまでだが最後に、それでも「私は海外なんか行けない。そんな勇気ない。」という人に対してこの動画をお勧めしたい。

youtu.be

こちらは、私の好きなYoutuber瀬戸弘司さんと、俳優石井正則さんの対談であるが

めちゃめちゃめちゃに長いので、時間があれば全編見て欲しい(私と同種の人間にはとても響く内容だと思う)

まぁ端的に言うと動画の1:29:06頃。

日々、小さなゲートをウェイせよ!

である。まぁ要約すれば、日々、小さなことでもいいから「いつも」とは違うことをしよう!ということである(笑)(なぜ”ゲート”を”ウェイ”なのかは動画を見観よ)

外国に行けなくてもいい。日常にありふれる「常識」に向き合い、考え、その気づきから自らの「良識」となる芯を育てていってほしい。そう自戒も込めてそう思う。

 

(最後まで読んでくれてありがとうございました!!したっけー!!)

 

当たり前なのに「違い」は見えない 2020.10.4

 久しぶりにブログを書く。書く書くと言いながら、何でも「ちゃんと」やろうとしてしまう性分、更新できずにいた。歌詞分析系のブログは、形式を決めて「ちゃんと」書こうと思うが、思ったことを書きたくなれば、これからはサラッと書きたいと思う。

 

さて最近、いつも行かないような場所に行くことが多くある。用事でその場所に行くのであって、その場所に目的がある訳ではないのだが、知らない電車で、知らない場所に行くと思うこともあるものだ。

「うわぁ田舎だなぁ~」

恥ずかしながらいつもこれである。凝縮すれば本当にこれで済んでしまう。でも、その度にいかに自分が恵まれた立地に住んでいるのかということを実感する。

これは人によっては嫌味に聞こえるかもしれないが、純粋に「気づき」なのである。

私は、今の家に住み始め目立った引っ越しをしていない。そしてまあまあ都会に住んでいる。そのため、他者が別の場所に住んでいると聞いても、「そういう事実があるんだ」というレベルでしか考えていなかった。だが、よくよく考えるとその街に何があって何がないのか、それはその人の生活に、そしてパーソナリティに影響している。

だから、自分とは明らかに「違う」のだともっと認識しておかなければならない。

それは避けられない差。直視しておかなければならない差。

 

知らない場所に知らない電車で。そんなある日の事。私はその「違う」のだという事を認識することがあった。

それは用事を終えて、帰路に就く時の事であった。

私の座っていた座席の後ろで怒鳴り声が突然聞こえた。どうも巷では聞いていたが、「自粛警察」なるもののよう。

マスクを着けずに咳をする老人に、罵詈雑言を浴びせていた。

確かにこのご時世、「マスクを着けずに咳をする人」に憤るのも分かる。

だが、見知らぬ他者に武器を突き立てるような事をする事をしてはアウトだと思う。

そんな事があって「この人はどんな環境で、何があって何がない場所で育ったんっだろう...?」と考えてしまった。

だけど確かなのは罵詈雑言を老人に浴びせた彼は「違い」を認識していなかったのだろう。それは咳をしていた老人も例外なく。

 

その後、お昼を食べたのだが、そこでも「違い」を感じた。

私は、チェーン店であっても、注文したものを持ってきて貰えば「ありがとうございます」と言うようにしている。というか自然とそうしている。

お店の人は「ご注文はお決まりですか?」だとか、私の良く行く定食屋さんでは「ご飯のおかわりはあちらです!」など様々声をかけてくれる。

だが、周りを見ているとそれに対して会釈すらしない人が結構、多い。

チェーン店で、食券で、となると確かに今はそうなのかもしれない。

ただ、それでも私は「リアクションぐらい取ればいいのに...」と思ってしまう。

これも「違い」

 

私は普段から、自分は「普通」だと良くも悪くも思っている。もちろん普通ではない要素もあるが、いわゆる「常識」があるというか。うーん。難しいが意識せず世間と「同じ」であると自明の状態にいると言えばいいか。

だが、上述のような出来事で、それが勘違いだと気づかされた。

 

気に入らなければ無言で去ればいいのにと思う人に対して、罵詈雑言を吐く人。

少しでも感謝の意を伝えようとする人もいれば、事務的に終わらせる人。

私はどうも「共感性」が人より高いのかもしれない。

後者の行動を取る人々は、その「共感性」が低いのかもしれない。

良いか悪いかではなく、何も感じない。

だから、それが良いか悪いかも主観的な感覚的なものでしかないのかもしれない。

だが、「違い」の存在を理解しておくことだけは確かだと思った。

思ったより「同じではない」

だから、「好きだ!!」と思える。つまり「自分と同じだ!!」と感覚的に思える人はもしかするとすごいことなのかもしれない。そう感じた。

「違い」があるはずなのに、「同じ」に感じる。

今日からでも、そんな「同じ」と思える人ともっと話したいと思った。

「違い」を大事にして。

 

 

 

「青春」は一つじゃない 2020.8.15

 皆さんは「青春」という言葉を聞いて何を想像するだろうか?

私は、最近仲良くしているTwitterのフォロワーさんから『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている』というアニメを猛プッシュされているので、この作品が思い浮かぶ。

まぁというのは冗談ですが(ブログの導入ネタに使ってすみません。早く見ます)

世間の大多数が共通して持っている「青春」とは、授業が終われば練習に精を出し部活三昧、気になるクラスの女の子に恋して告白したりあわよくばデートしてみたり、友達とカラオケで一日中騒いだり、とにかくキラキラした楽しいイメージだと思う。

今回はそんな世間の「青春」とは違う、「青春」を描く曲を見つけたので少し紹介したいと思う。

 

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【曲との出会い】


ハンブレッダーズ「DAY DREAM BEAT」Music Video

 

ハンブレッダーズというバンドが奏でる「DAY DREAM BEAT」という曲が紹介する1曲である。

「あれ?」

そう思った人は私のことをよく知っている人だと思う。

私はいわゆる「邦ロック」と呼ばれる音楽をほとんど聴かない。

昔からロックバンドの熱いノリが少し苦手で(今はそれも一つの表現方法だと思っているから偏見はないのだが)、男性ボーカルの曲もあまり聞かない。

つまりこの選曲はみぞにとってかなり異端。

ではなぜこの曲を知ったのか。

 

この曲に出会ったのは、つい1週間前。音楽との出会いはいつも突然だ。

今の世の中、動画配信サイトの波に乗れば、波と共に沢山の曲たちに出会える。

昔の人々は、レコードショップに立ち寄り同じ事をしていたのかなと思うと、なんだか時代の流れを感じるが、実は私のこの曲との出会いはそんな昔ながらの出会いだった。

 

「ネバーエンディング思春期」

 

店内でこの1フレーズが書かれたポップを見てしまったのだ。

ズルい。ズル過ぎる。こんなのチェックするしかない。そう思い家に帰りyoutubeに潜った。そこで胸にズドーーーンと来たのがこの「DAY DREAM BEAT」である。

バンドの情報をザクっと見てみると、今年メジャーデビューだそう。おめでとうございます。そして大阪の方々だそう。なるほど。

そして、スクールカーストの最底辺から青春を歌いに来ました」

という台詞があるらしく、今回の曲もザックリ言ってしまえばそんな曲。

ここまで〇〇ペディアを参照したので適当に調べてしまってハンブレッダーズの皆さんには少し申し訳ないが、本題の曲の方で、愛を持って話すので許してほしい(?

 

 

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「青春」に対する反抗・孤独・疎外

http://j-lyric.net/artist/a05ddf7/l04479d.html

 (歌詞全文はこちら👆)

この曲は、冒頭で書いたように世間の「青春」いわゆる「アオハル」とは別の「青春」を描いている作品である。

この曲の何が良いか。それは歌詞に尽きる。

学校生活を送る学生なら一度は聞く”スクールカースト”という言葉。

世間では広く「陽キャ」と「陰キャ」という二つに分けられ語られることが多い。

意味としてはとても大雑把で「明るい人」⇔「暗い人」という感じである。

私も学生時代、「陰キャ」と罵られたことがあった。

世間では大きく「陽キャ」と「陰キャ」に分けて語られる。

私はこのような乱暴な人物規定には否定的だが、今回は説明上、都合よくこの言葉を使う。あらかじめご了承を。

いわゆる「青春」はそんな陽キャが満喫するもの。逆に「青春」を謳歌できるものが陽キャと言われる。学生時代「陰キャ」と言われまくった私はずっとそう思っていた。

その論理で行くと、陰キャと言われる人は、「青春できない人」と規定される。実際、私も「青春」したかと言われたら開口一番に「NO!!!!!!」と答えるだろう。

だから間違ってはいない。そう。間違っていない。

だが、この曲は、そんな論理に対して「クソっくらえ」と放つ。

 

歌詞の中の主人公は、世間の「青春」とはかけ離れた存在。だけど、決して「青春できないダメな奴」ではない。

モラルがひどく欠如した電車を飛び降りて

生活指導の奴らの包囲網を抜けて

このような歌詞にあるように、世間に対する「反抗心」のようなものを持っている。私は普段からキュンキュンソングをばかりきくような人間なので純粋に「あぁロックだから使えるワードだな...!!」と思ってしまった。

二番の歌詞にも、

終業のベルで一目散 牢獄を抜け出した

一緒に帰る友達がいなくてよかったな

とある。学校を「牢獄」とまで表現するのには「反抗心」もあるが、「孤独感」「疎外感」というようなものが込められてる気がする。これに関しては、私も経験があるので、余計に共感を覚えた。クラスの多数に無視されて、学校に居場所がないと一刻も早く出たい。そんな気持ちに毎日なっていた。直接無視してなくても、「沈黙する大多数」それが一番怖いとも思った。

そんな中でも、私には数人友達がいて、とても助かった。だがこの歌の主人公は、「一緒に帰る友達がいなかった」まさに孤独。だが、それを「よかった」と評するのだ。

 

その理由が、この歌の題名にもある「DAY DREAM BEAT」に繋がる。

 

牢獄の外に広がる自分だけの「宇宙(青春)」

「一緒に帰る友達がいなくてよかったな」と言うのは、強がりでも恨み節でもない。

一人でないと経験できない自分だけの「青春」があったからなのだ。

ひとり 登下校中 (1番)ヘッドフォンの中は宇宙 

         (2番)ヘッドフォンの中に夢中

 

これは、この曲のサビの歌詞であるが、主人公は一人、「音楽」という宇宙に身を沈める。彼(彼女)は、学校にはない「青春」をそこで味わい尽くすのだ。

それが、主人公が「陰キャ」と言われようが、学校の中での「青春」を謳歌できなくても誇りを持っている所以なのだ。

私も、思い出せば、学校を耐えきって家に帰ってすぐさま再放送のドラマに入り浸ったり、音楽を聴いたりばっかりしていた。

そのおかげか、あまり辛かった思い出というのが残っておらず、「あのドラマ、観てた時懐かしいなぁ...」とか「あぁこの曲聴くとあの頃の雰囲気思い出すなぁ...」とかそんな気持ちで思い出すことが多い。

そしてこの曲は、私の経験と違い「登下校中」に音楽に触れている。その点もこの曲のセンチメンタルなところ。

 

「学校」というのは、普遍的な常識の権化のようなものだ。社会学上では「国家のイデオロギー装置であるとも言われる」それ故に、均質性を重視する日本社会では、「陽キャ」「陰キャ」という乱暴な人物規定が意外にもうまくハマってしまう。

それは「家」も同じで、その教育を受けている以上、なかなかその常識にとらわれて、自然と乱暴な人物規定が為されることも多い。

(ex.「一人で遊ばないで、友達をつくって遊びなさい」など)

 

そうなると、主人公にとって何物にも縛られない場所というのは自然と「登下校中」になる。まさに音楽が現実と混ざり合い「宇宙」となるのに最適な空間という訳だ。

 

誰にも経験できない自分だけの「青春」を作り出すビート

歌詞中には、そんな「宇宙」での音楽について主人公の熱い思いも描かれている

(1番)幾千回 脳内でリピート再生

  余すことなく丸暗記したミュージック

(2番)億千回 脳内でリピート再生

  好き嫌いの次元じゃなくなったミュージック

私も「好き嫌いの次元でなくなった作品」というのはいくつかあるので、とてもこの表現に惹かれる。

(1番)唇だけで歌う 自分の歌だとハッキリわかったんだ

(2番)音も出さずに歌う 君が歌うから世界は輝くんだ

 これは先ほど紹介したサビの残りの歌詞なのだが、「君」というのはその曲を歌う「アーティスト」と捉えられる。その人がその言葉をそのメロディーで歌うから意味があるんだ。そんな音楽の「人に寄り添う」という本質が垣間見える歌詞だと思う。

自分の居場所。それは、登下校中に音楽によって作り出された架空の「宇宙」であっても、確かにその空間を作り出す音楽の向こうには確かに「誰か」がいる。誰かが味方だよ。と言ってくれるそんな優しい歌であると私はこの曲を聴いて思った。

 

ロックだから、カースト最底辺だからこそ書ける「肯定」ソング

 ここまで歌詞をピックアップしながら、私の意見を交えながら文字を紡いできた。

私がピックアップした歌詞は一部なので是非、曲を聴きながら歌詞を見てほしい。

最後にこの歌詞を取り上げて、結びとしたい。

たった一秒のあの旋律が たった一行の言葉遊びが

揺蕩う僕の光になったんだ

自己啓発本みたいな歌に騙されんな

大人になればわかるなんて嘘だ

このフレーズが私個人的には、一番グッと来た。

特に「自己啓発本みたいな歌に騙されんな」という歌詞にはロックならではの、社会へのアンチテーゼを感じる。

私も、学生時代、いじめられていた時に「自分がダメだからいじめられるのかな」と思っていた時があった。それ故に、不安で自己否定の連続で、何かに頼りたくて、自己啓発本を読んでいた。だけど、何も響かず、何も力にならなかった。

 

今、私が好きな曲も、自己啓発本のような理路整然とした綺麗ごとではなく、非合理でも寄り添ってくれる、「”頑張れ”じゃなくて”頑張らなくていいよ”」そう言ってくれるような曲が多い。実際、私を救ったのは自己啓発本ではなく、そんな音楽だったのだ。

 

「大人になればわかるなんて嘘だ」そう、この世の中で正しいとされていることの全部が必ずしも正しいとは限らない。「若いうちは苦労すべき」という言葉があるが、自分で選んだわけでもない誰かに強いられた苦労なら、絶対にすべきではない。だから逃げてもいいんだ。そう強く思う。

 

私が今回、この曲を聴いて、歌詞を読んで思ったことは主に3つだ。

まず「青春」の形は一つじゃないということだ。「私は全然、青春できなかった...」と嘆く人、嘆くこともできない人いると思うが、もしこの曲の主人公のように、”自分の歌”に出会えそこで素晴らしい自分だけの感覚を味わえたなら、それは紛れもなく「青春」だ。そしてそれは他の人には経験できない素晴らしい経験。劣等感を覚えず、違う形の「青春」として誇りを持ってほしい。

 

また、学校や家庭に一人も味方がいなくても、一人じゃない。音楽やドラマなどの作品は所詮、作り物、虚構、架空だと揶揄する人もいる。だが、その裏にはそれを作った人が確かにいて、そんな人たちはあなたの味方だ。だから、そういう作品に出会う機会があればいいと思う。今の世の中、冒頭にも言ったようにSNSで、曲を通じて、普通なら出会えない素晴らしい人にも出会える。だから絶望してしまったら何でもいいから自分の好きな作品の世界に頼って欲しい。そう思う。

 

そして、この世は、そんな単純ではないということ。「陽キャ」「陰キャ」で割り切れやしないし、自己啓発本や学校で教える常識は、あくまでも多数の常識に過ぎない。だからそんなものに惑わされず、想像してほしい。考えてほしい。一つの理屈に頼る人間より、考えられる人間の方が素敵だ。自分の思いを大事に育ててほしい。そう思う。

 

何だか誰に説いているのかわからない文で結びになってしまったが、私自身に対する戒めのつもりでも書いたので特に気にしないで欲しい。

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あとがき・・・今回も長々と読んでくれた方ありがとうございました!!前々回のブログ更新後、「歌詞の考察見る前に、歌詞を読んでおきたい!」という意見を頂いたので、URLを始めに掲載しました。そして、以前は、共通項でまとめて何曲か紹介しようと思っていたのですが、なかなかまとめる作業が膨大なので、今回は1曲だけで、歌詞を全部取り上げるわけでもなく、ピックアップして文章のまとまりと、ブログの作業効率を意識しました。

さあ、今回の曲は本当に私に馴染みがない曲です(笑)ですが、とても素敵な曲だったので取り上げさせてもらいました。たまには邦ロックも良きです。

ロックだからこそ使える強い言葉や崩した言葉が、学生時代の何とも言えない気持ちを表していましたし、なんだか清々しい印象でしたね。

 

では皆さんまた会いましょう~!!したっけ~!!!

 

【みぞのfavorite songs】

 

3.ハンブレッダーズ「DAY DREAM BEAT」

「推し」は自分を映す鏡 2020.7.28

 以前、このような記事を書いた。

mizomone7118.hatenablog.jp

結構前に書いたかと思えば、二か月ほど前...

コロナ以降、時間間隔が狂っているのだろうか...

ずばり言うと、今回はこの記事の焼き回しである(きっぱり

私は自分の書いた文章にあまり納得がいかないことが多い。

自分の考えや思いは文字にした時に、頭の中にある時の鮮度のようなものが失われてしまうと思っているのがその理由。

そのため、よく自分の書いた文章を見返して「うーーーん」と言うことが多い(笑)

なので今回は、内容が少々被るだろうが、「あ!ブログに書こ!」と思ったことをそのまま書いてみる。

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「自分の事を表現しろ」と言われると皆さんどうだろう?

平たく言うと「自己紹介」というやらだ。

小学校、いやもしかしたら幼稚園から呪いのようにつきまとう

「ジコショウカイ」

私はあまり好きではない。みんな嫌いな気がする。なかなか「好きだ!やりたい!」と積極的に言う人はいないだろう。

名前....出身地....学校....学年....

この辺まではいけるのだ。テンプレートの最低限の情報。

だが、それ以降何もないのだ。何を言えばいいかというお手本が。

「好きな食べ物」「好きな映画」「自分の性格」「特技」

まぁ無数にある。

人間「なんでもいい」というのが一番困るものだ。

「なんでもいい」と言うが、的外れなことを言えばヤバいやつ認定されるし、余りに印象的なことを言いすぎると、その後ネタにされる。全然なんでもよくない。

(乃木坂46白石麻衣さん。私はデビュー初期から知ってるのだが、初期に言っていた「マヨラー星人」なる謎の設定を思い出す。ファンの間ではひそかにネタにされる。まさにやっちまったパターンである。)

 

 

そんなこんなで「自己紹介」が嫌になる。間違った選択肢を選べばホントの自分とは違う自分像が伝わってしまう。

そうであるなら「私は特に言うことないです」と言う方が幾分マシだと思ってしまう。

 

そもそも自分のことをわずか3分も無い自己紹介で分かってもらうなんて無理だ。

だが、自己紹介は文字通り自己の紹介。そのため他者からすればそれを聞き自分を認識する。そしてイメージを固定する。なんたる不条理...

 

「自己紹介」は就職活動の時期、「自己PR」なるものに変貌する。

「自己紹介」は「あんまり言うことないですね...ははっ(笑)」で済ませられたけど、こういう自分を他者に分かってもらうことを目的とする場合はやらざるを得ない。

しかも、自分の「長所」を「経験」を根拠に、端的に言わなければならない。

 

「ハードすぎる...」

 

そんな数分で自分のこと表せやしないのに、評価されるのだ。地獄である。

もはや「自己紹介」が「自己PR」と名前を変え、ゲームと化しているため、就活サイトやらキャリアアドバイザーとかいう人たちは「どうすればゲームを攻略できるか?」に絞って、戦略を学生に教え、学生もゲームクリアを目指した「自己PR」をつくる。

 

「もはやそれ「自己」じゃなくね?」

 

そんな声が聞こえてきそうだ。私もそう思う。自己紹介も大概だったが、自己PRとまでいくと、もはや「自分を表現する」から若干、いや大幅に逸脱している。

 

私も、ホントに「自己PR」考えることが嫌なのだが、一つこんな風にしなくても、楽しく自分を表現できる方法を思いついた。

 

ずばり!!

 

「推し」に対する愛から学ぶ!!!

 

である。

 

完全に「推し」が存在する人向けの方法。「推し」がいないという方には申し訳ない。

「推し」は作るものではなく、出来るものなので無理強いはできない。

そういう方は参考程度に見てほしい(?

 

さて、どういうことかというと、「推し」とは手堅く言うと「自分の好きな人」「自部の応援する人」「自分の尊敬する人」という感じである。

これで「推し」という概念を完全に語り切れたとは思っていないが、今回は許してほしい。

まぁ軽く補足すれば、

・日常のように当たり前に存在する

・遠いけど近い家族のような(オタクの主観MAX感覚)

というニュアンスだろうか。

 

 

自分で自分の事を表現するのは難しいというのは、言葉の限界という問題もあるが、

「客観的に自分を認識できない」というのが大きい気がする。

 

自分が当たり前にしていること。それは自分には分からないもの。

大抵それがその人の個性であり、長所であることが多い。

 

それを認識するために「推し」はぴったりなのだ。

 

「推し」はザックリ言うと、自分の「尊敬するものを持っている人」「好きだと思うものを持っている人」「目指したい目標」と言える。

であるならば、自分の価値観そのものではないか。

「推し」のレベルには届いていないにしろ、自分の価値観に近いものが知らず知らずのうちに鏡のように投影されているのだ。日々、推しのようになりたいと思っている人であればなおさらである。

 

そしてもう一つ何が良いのかというと、なかなか表せない自分を、的確に表す言葉が簡単に見つかるということ。

「推し」を持つ人間は、尊さゆえに、「どうすればこの人(モノ)の素晴らしさを表現できるのか?布教できるのか?」考える。

それも尋常じゃないガチさである。

そのため、「推しは優しいところがいい」「推しは真面目で堅実なんです!」

「推しはカッコいい!」「推しは可愛い!」

なんて言葉では納得がいかない。むしろ憤りを感じるレベルである。

 

それゆえ、「推しのこのインタビューでのこの発言!!こういう言葉選び、繊細な感性が好き!」のように、自然と「経験」を根拠に、細かくニュアンスまで自然と表してしまう。

この流れを、「自己PR」に落とし込めば理論上は最強である。というわけだ。

 

 

まぁだからといって「推しには遠く及ばないから参考にならない」とかという意見もあるだろう。確かに「推し」は憧れでもある。だから私の投影なんておこがましいと思う気持ちも分かる。

だが、この方法があれば、「自己PR」を簡単に突破する鍵になる。

そして、そうやって「推し」への愛が応用されれば、さぞかし「推し」も

「推し」冥利に尽きるというものではないか,,,,(誰目線

 

結びになるが、今はまだ若い学生さんたちは、自分の中で思いつめすぎず、自分の思いをしっかり伝えられる人間になって欲しい(偉そうだなすみません)

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あとがき・・・いかがでしたか?私が若干キャリアアドバイザーみたいになってる文章でしたが(笑)「推し」についても書けて個人的には満足です。なんか就活の相談するキャリアセンターの人とかって痛いところ、プライベートの踏み込んでほしくないところまでずかずか入ってきて苦手なんですよね...その上、「就活」というゲームの攻略法としては正解なんだろうけど、「なんかなぁ~」と思ってしまうのですよね。

だから、入りとして自分の好きなもの・好きな人を自分を映す鏡として見て考えればいいんじゃないかなと思い今回は書きました!!

友達にこのアドバイスをしたら、すごく納得してもらえたので、良い方法だと思います!!

最後まで読んでいただきありがとうございました!!!

したっけー!!

 

 

イマ思うこと 2020.7.20

 これはTwitterに書くか迷ったことなのだが、ブログで細々と書く分にはいいかと思い書く。

 「自死は駄目だ」というのは定説で、私の周りからもそう聞こえていた。

確かにそれは一理あるけど、私は絶対じゃないと思っている。

もちろん、つらいなら相談してほしい、思いつめすぎず気晴らしをして欲しいとかってのはあるし、生きてもらうためにになんとかするべきというのは大前提。

だけど、現実それが無理な場合ってのはあって。それが無理だからしんどいってのも言えてしんどいから死ぬってのも言える。だから分かるところはある。

だから、「社会には生きたくても生きれない人がいるのに」と言う人いるけど、「??」となる。社会の誰とも知らない存在の話なんか考えるはずないじゃんって。

ただただつらくてどうしようもなくて選んだ道をそんな風に言うなよって思っちゃう。

 

 人間、忙しくなったり、誰かに罵倒されたりしたら心もだけど頭がバグを起こす。

そのバグは一瞬でも「死ぬ」って選択肢を選んでしまう場合もある。

だから「なんで今?昨日まで元気だったじゃん?」ってのもそういうバグがあるんだよっていうこと。

 

 優しくて強くあろうとする人は誰かに褒められると、「嬉しい」だけで終わらなくて、もっと頑張らなくちゃ。もっともっと。って思う気がする。

だから、自分のしたいこと、やりたいこと、思うことが、皆の期待と違うと自分を恨むし、自分を消そうとする。

 

 誰かに元気と勇気と笑顔を与えるそんな仕事をしている人が、つらい思いをして、悩み、その道を選んだというのは、やっぱりつらい。直接的に応援してる人は特に。

 

 なんだかこんな風に数日いろいろ思っていた。だけど、何を言っても、彼の死をオブジェクト化して、私が利用しているように感じて嫌になった。

たまたまその日に歌番組があり、偶然、親交のある方が何人か出演していた。

 

一組はおそらく直前に訃報を聞いたのだろう。神妙な表情で、演奏された。

普段は明るい曲なのに、寂しく聞こえた。

 

一人は、カバーソング特集と称して自身の出演ドラマの主題歌を歌唱。

涙を我慢して必死に歌を歌ってた。

 

どちらも、テレビを通じて、ドラマチックに見えた。フィクションとしての歌に、リアルな気持ちが入って素晴らしい歌唱だった。案の定、皆、絶賛しSNSで拡散した。

 

でも、それじゃダメだと思った。その裏には、想像できない悲しみがあるのに、ただの娯楽として見て。最低じゃん。なんだかこればかりは、音楽の可能性を恨んだ。

 

もう一人は、歌唱をしなかった。

普通だと思った。そんな状態で歌えない。そんな気持ちで歌う曲なんて今はないよ。

前の二組を、ドラマチックな歌唱で終わらせては駄目だと思った。

 

結論はないこの文章に。まとめちゃいけない気がする。ただ書き連ねておきたかった。

以上。

 

 

 

 

 

 

...「思い出」アップロード... 2020.7.7

 年を取ると、昔の事を思い出すことが多くある。過去の輝かしい栄光や、挫折。大きな出来事でなくても、友達と公園で遊んだ夏の日、好きな人に意を決して告白したあの瞬間、そんな何気ない瞬間をふと思い出す事があると思う。

その思い出たちは、いつの間にか思い出になっている。気づかぬうちにその何気ない一瞬が。

そんなキラキラとした思い出たちを入れておける宝箱が、作品たち。音楽やドラマである。

今回は、そんな「思い出」というキーワードを中心に、私のお気に入りの曲をいくつか紹介したいと思う。

歌詞の中で「音楽」と「思い出」の関係について語っている曲

まず、音楽というフィクションの中で、音楽自身と思い出について語っている作品を紹介したいと思う。

記事の初めに、音楽を「思い出を入れておける宝箱」と表現したが、これは1曲目に紹介する坂口有望さんの言葉から構想を得たものだ。詳しくは前回の記事でも紹介しているので、参照してほしいのだが、彼女は「歌詞は言葉にできない気持ちを収めておける”引き出し”」と表現しており、これをファンタジックにしたものが、”宝箱”という表現である(こうも自分で解説すると小っ恥ずかしいのだが(笑))

 

mizomone7118.hatenablog.jp

 

さて、ここでは二曲の曲を紹介するのだが、どちらもフィクション中で、フィクションを語る構図になっており、私「みぞ!」が大好きなプロットである...(それはどっちでもいい) 

坂口有望「radio」~いつか私の歌を聴かなくなる日が来ると思うの~

 1曲目に紹介するのがそんな坂口有望さんの2ndアルバム「shiny land」から「radio」

一般的に”アルバム”というものは、曲数がシングルと呼ばれるCDより多く10~12曲であることが多いのだが、一貫したストーリー性が重視されるのも特徴である。

1曲目からテンションを上げる、静かに始め後半にかけてアップテンポな曲に、などストーリー性には様々なパターンがあるが、この曲はそういう意味で異色の味付けをしてくる曲である。

 

radio

radio

  • 坂口 有望
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

いつか私の歌を聴かなくなる日が来ると思うの

時が経てば 恋をすれば 寄り添う音楽も変わる

”異色”と言ったのは、この最初の一節からである。今からこのアルバムを聴こうと再生ボタンを押すと流れてくる最初のフレーズがこれである。たまげた。皆さんたまげないでしょうか?(笑)アルバム最初の曲、最初のフレーズで「聴かなくなる日」を想起させる。まだ聴いてないのに。だが二節目も併せてみると、「確かに...!」と思わせられる。ここで、二番の歌い出しも見てみる。

いつかの青空も 忘れるような日が来ると思うの

時が経てば 恋をすれば 目に留まる景色も変わる

二番では打って変わり「景色」が挙がっているのだが、この構造からして、

「景色」≒「音楽」といった関係にあるのではと考えられる。

だけど私の歌を懐かしむ時が来ると思うの

急ぎ足で過ぎてく日々

いつのまにか忘れていたこと

再び一番の歌詞の続きに戻るが、ここで逆説の「だけど」が出てくる。

聴かなくなる日が来る。だけどきっとまた聴く。懐かしんで聴きたくなる。

もうサビでどんなことを言いたいかはお分かりだろうが、この曲を実際聴いているとサビですごく心が熱くなる。サビの歌詞。

Listen to the radio

あの日から止まっていた涙があふれだすうた

誰かのリクエス

Listen to the radio

この街のあちこちで響いてた

ワンフレーズが

また光って弾けた

一言「めっちゃいい。天才」と言いたくなるサビ。

この曲のタイトルにあるようにラジオがここで出てくる。聴こうと思って聴くことはなくなっていくかもしれない。でも、ラジオなら誰かの「聴きたい」で意図せず、あの思い出が、あの頃の景色、あの時の思い人の事が曲ととともに想起される。

まさに曲が宝箱。宝石があふれ出す。

サビは「Listen to the radio~」のリフレインなのだが、二つ目のサビフレーズは「音楽」自体の輝きについて語られている。「弾ける」というワード。個人的にすごいと思った。懐かしい曲を聴いたとき、「もうそんな曲、時代遅れだよ」と言っていても、すぐにその頃の気持ちにタイムスリップし、その曲の輝きを心の中で弾ける花火のように感じ浸るのだ。

音楽は聴いた人の思い出を、その頃の気持ちを宝石にしてそれをしまっておける宝箱になる。

この曲は、このフレーズで幕を下ろす。

いつか私の歌を聴かなくなる日が来ると思うの

遠い街で褪せることなく

また光って欲しいな

 私はこの曲を音楽の「思い出を収めておける宝箱」として価値を語る曲でもあると読み解いたが、このような見方もできると思う。有望ちゃん自身が、「shiny land」というアルバムを、一時期聴いてスクラップにするのではなく、いつか思い出して聴きたいと思ってほしい。いつまでも自分の曲が誰かの思い出と共にキラキラ光っていてほしい。というアーティストとしての願いが込められた曲でもあるのだと思う。

そういう意味でこの曲は、異色の1曲目でありながら、これ以上なくアーティストの純粋な思いが込められた素敵なスタートナンバーなのだ。

と締めようと思ったのだが、有望ちゃんは私の解釈以上の思いを込めていたようだ...

まだまだ想像力が及ばないようだ...私は....(笑)

私は、自分の歌が聴かれなくなるということを結構ポジティブに捉えていて。先生が生徒に「もう自分が注意せんくていいんやな」と嬉しく思うみたいな感覚。卒業というか。それって素敵なことやと思うんですよ。あと、このアルバムも“今のあなた”に寄り添うものであって、いつかまた聴いたときには全く違う感じ方をするかもしれないよってメッセージを、最初に伝えておくことを大事にしたかったんですよね。

https://www.uta-net.com/interview/2002_sakaguchi_ami_2

 リリース時のインタビューで「radio」について、こう語っている。

この例えというか、表現、私には出なかった。

私なりに言うなら、聴かなくなることでより輝きが増すというようなことだろうか...いや聴かなくなることでその思い出は宝石になりえるのかもしれない。

聴かなくなったことで、何とも思っていなかった石ころが、時を経て宝石に変わる。

そして大人になって聴けば、違う思い出ができ違う見方ができるようになる。

この曲は「聴かない」日々が、音楽やそれに紐づけられた思い出を輝かせる。

そんな事を思わせてくれる作品であった。

AKB48「君はメロディー」~遠い昔の記憶の彼方に 忘れかけてた2人のfavorite song~

一曲目から随分長々と書いてしまったが、次の曲も同じように作品中で、音楽を聴くことで思い出される懐かしい記憶というものを主題にしている。だがこちらはより恋愛の淡い思い出を語っている。

 

君はメロディー

君はメロディー

  • provided courtesy of iTunes

 皆さんご存じAKB48が2016年に発売した43枚目のシングル「君はメロディー」

センターは今やIZ*ONEで活躍されている宮脇咲良さん。ちなみに私の推しである上白石萌音さんの古くからの友人でもある(個人的すぎる情報) 

この楽曲は、10周年記念とした出された作品で、前田敦子さん、大島優子さん等、卒業メンバーもMVに参加しているという何とも豪華な仮面ライダージオウのようなレジェンド客演作品である(分かる人には分かる)

作詞は皆さんご存じ、秋元康大先生。どうしたらこんなに多くの曲の歌詞を短期間に書けるか不思議であるし、そしてなんでこんな乙女ソングを書けるのか全く持って分からない。だがそれがいい

作曲はyou-meこと成瀬英樹さん。私は成瀬さんの曲が好きなのでまた機会があれば紹介しようと思う。

さて前置きがまたまたまた長くなってしまったので本題に。

youtu.be

(MVは蜷川実花さんが担当。彩があって良い...!!)

 

この曲は、すごくざっくり言うと「失恋ソング」

だが、一言に”失恋”と言っても真正面から思いを伝えて敗れたタイプ、思いを伝えられずに友達以上になれなかったタイプなど様々だが、この曲はどちらかというと後者。

主人公は「君」に思いを伝えられなかった。そんな苦い思い出を持っている。

春の魔法に陽射しは変わって 人も街も明るめに着替えた

風に誘われ気づけば知らずに 僕は口ずさんでいた

一節目、情景が思い浮かぶフレーズ。最初に場面設定されると一気に世界観に入れる。場面が限定されすぎない抽象的な世界観の曲だとここで頭が切り替わる(曲によっては日常の一瞬を切り取る曲もある)

今年の春は、コロナウィルスがありなかなか季節感を感じることなく過ぎ去ってしまった印象だが、麗らかな春の気候と、様々な事の「始まり」という意味でも、心機一転する。それを「明るめに着替えた」と表現するの良い...(春服も明るめだし、気分も明るくなるという意味でよく考えられているな...!!)

主人公にとっては、春になると思い出す曲があるみたい...

遠い昔の記憶の彼方に 忘れかけてた2人の favoriite song

なぜこの曲が浮かんだのだろう?突然に

思い出すのは遠い昔に誰かと二人で聴いてたお気に入りの歌。

おそらく相手は「君」なんだろう。(二人のお気に入りの歌って良いですよね~)

愛しさは いつも ずっと前から 準備してる

ノイズだらけのRadioが聴こえて来たんだ 歳月を超え

愛しさは常に心の中にある。遠い昔から。それが曲を聴いて呼び起こされた。

「ノイズだらけのRadio」とあるが、これは先ほどの曲と違い、比喩ではないだろうか。遠い昔の記憶。ずっと忘れていた、いや忘れようと封印していた記憶が徐々におぼろげながら、再現されていく様子が表されてるのではないだろうか。

「歳月を超え」というのも、少し大げさに感じるかもしれないが、それほど実感として遠いということ表しているとも取れる。

そしてサビに入る。

君はメロディー メロディー

懐かしいハーモニー ハーモニー

好きだよと言えず抑えていた胸の痛み

僕のメロディー 僕のメロディー

サビだけを覚えてる

若さは切なく 輝いた日々が蘇るよ

「僕」と「君」とのfavorite songは、「僕」にとっては「君」なのだ。

そしてそれは、「僕」自身の淡い記憶でもある。

そんな風に読み取れるサビ。

そのメロディーを聴くだけで、「君」を思い出す。非常に胸が熱くなる。

愛しい相手との思い出が宝石となって、ずっとその曲にはあった。

2人の関係が分からないから何とも言えないが、「輝いた日々」とあるから、

2人で遊んだ記憶、愛しく思っていた気持ちがそれに当たるのではないか。

一番はここで終わるのだが、この曲は二番以降、なぜ主人公である「僕」はここまで感傷的なのか、今の「僕」にとって「2人のfavorite song」はどういう存在なのかが見えてくる。

 

君と歩いたセンター街から 通りに抜ける青春に迷って

知らないうちに大人になってた 歌を聴くことなく

センター街でデートしてたのだろうか。なんだかすごくキュンとする。私にそのような経験がないから余計にそう感じる(笑)

 ここの表現、私自身もなかなか解釈が悩ましいのだが、おそらく、センター街から通りに抜けることが出来なかった。渋谷を想像すれば、人波に押され道に迷ってしまったかのようなイメージではないかと私は思う。つまり、2人の関係はどこかですれちがってしまった。「僕」には苦い記憶だということの言いかえということになる。

そして、そのまま気づいたら大人になっていた。

何を忘れてしまったのだろう? 新しいものばかりを探して

今の自分に問いかけるような あのMusic

知らぬ間に大人になっていたとあるように、「君」と別れてから呆然と過ごし、人生に迷うようになった。

そんな時にあの「favorite song」=「Music」を聴いた。

偶然はいつも教えてくれる 意味があると

思いがけない未来 眠ってた恋が目を覚ます

この「偶然」というのは1番の歌詞「なぜこの曲が浮かんだのだろう?突然に」とほぼ同義であると考えられる。つまり、迷える子羊と化した今の自分には、苦く思い出したくないはずの思い出が必要なのだ。意味があったのだ。思いがけず訪れたこの未来に、過去の恋が味方する。

甘いメモリーモリー

夢を見たグローリーデイズ グローリーデイズ

サヨナラに込めた永遠こそ僕の誓い

ふいにメモリーモリー

面影も鮮やかに 無意識にそっと

口ずさむ僕は今でもまだ

二番のサビ。ここで苦い思い出、「君」との恋について回顧し味わう。

振り返るように 君も思い出すだろうか?

あの頃 いつも流れた ヒットソング

ここで「君」へ思いを馳せる。そしてラスサビへ。

 

君はメロディー メロディー

懐かしいハーモニー ハーモニー

好きだよと言えず抑えていた胸の痛み

僕のメロディー 僕のメロディー

サビだけを覚えてる

ほろ苦い感情が 溢れ出す今も

1番サビとほぼ同じ歌詞ではあるが、「ほろ苦い感情」を肯定していることが分かる。

思いが伝えられなかったそのもどかしさすら、時が経てば、大切な宝石になる。宝物になる。

こんなメロディー メロディー

きっとどこかで  君だって

口ずさむだろう

思い出は時にはやさしい

口ずさむだろう いつの日にかあの頃のメロディー

そして この歌詞で締めくくられる。「僕」はなんだか清々しい、何か吹っ切れたような表情を見せてるような感じが私はする。

最後の歌詞「口ずさむだろう いつの日にかあの頃のメロディー」というところから、「君」との苦い思い出が昇華されて、かげなえのない心強い味方になったことが分かる。

さて、なんだかんだ、歌詞を全て追いながら読み解いてしまったがいかがでしょうか。

この曲からは、思い出は必ずしもプラスのものだけでなく、マイナスなものもありそれも宝石になり得るということを伝えていると思う。歌を聴かない期間を経ることで、何ともない記憶が思い出になり得ると前述したが、嫌な思い出も心強い思い出になることもあるのだ。

 

次回は、フィクションの中で語られる「音楽」と「思い出」についてから離れ、単純に「思い出」について曲中で語っているお気に入りの曲について見ていきたい。

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あとがき・・・ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます!! 前回のブログすごく好評をいただいてとてつもなく嬉しかったです!!私はもともと歌を聴いて、歌詞とか解釈するのが好きなのですが、文字に起こすとなるとなかなか大変ですね。省略してもいいのかもしれないけど、ワンフレーズだけでなく全部で一つのストーリーとして良い!!と思う曲にはどうしても全部書きたくなってしまってこんな感じになってしまいました(笑) 書こうと思ったら細々書けない人なので、一気に書くのですが結構時間かかってしまいました。今後、うまくまとめられるよう精進したいと思います...今回は前回のブログでいろいろ述べた、音楽の価値の一つ「思い出を記憶する」というところに焦点を当てて、お気に入りの曲と共に紹介しました。思いのほか、長くなりまさかの二部構成に!!(笑) 次回も見てくださると嬉しい!!コメントくれたらなお嬉しい!!!!ということで!!

したっけ~!!!

【みぞのfavorite songs】

1.坂口有望「radio」

2.AKB48「君はメロディー」