私の「好きな人」 2021.3.30
気づけば、2021年も3か月以上が経ち、もう新年度だ。新しい環境での生活が始まる人もいるのではないか。だが、未だに目に見えないウィルスとの戦いは続いている。
「コロナなんて少しすれば誰も気に留めなくなる」
そう昨年の今頃は思っていた気がする。
皆、ここまで長引くとは思っていなかっただろう。
コロナがもたらすほとんどはマイナスな事ばかりだ。だが、その中でも良い事も多少はある。その一つが様々な事を考えるきっかけになっているという事だ。
今回はその中で、思っている事を一つ書き記しておく。
過去のブログと内容が重複するところも多々あるが、是非読んでいって欲しい。
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「優しい」は当たり前?
コロナ禍になり、奇しくも人の良い部分よりも悪い部分がよく目につくようになった。
皆、どこかで誰かの批判を背に生活している。日々そんな鬱々とした感じがする。
自分の都合が良い時は「コロナなんて大丈夫」と口にし、都合が悪くなれば「コロナうつるから」と凶器を振りかざす。
「コロナ」という便利な言葉が、世の中を締め付け苦しめている。
だが言葉が、人を苦しめる存在になってしまう事は、コロナ以前から日常に溢れていた。
私の母は昔からいつも「人には優しくしなさい」と口にする。
私も幼少期からそれを聞き、「そうなんだ」と信じ疑わなかった。
だが、いつしかその「優しさ」という言葉が自分を苦しめ始めた。
「自分は優しくしているのに、なぜ私は損をするのだろう、
惨めな思いをするのだろう。」
私はずっと「人に優しくする事」は当たり前の行為だと思っていた。
それ故に、少しでも悪意を目にしたり、自分が晒されるととても苦しくなった。
「優しい」人間である事は当たり前じゃない。
子供の頃、誰もが、誰かに教えられた「優しさ」を忘れず、諦めずに生きている人は特別なんだと。そういう人はすごいんだと。もっと褒められるべきことなんだと。
そう気づいたのは、意外にも最近の事(なのかもしれない)
なぜ、それに今気づいたのかというと、自分が大人に近づいたからなのだと思う。
大人になれば、何かしらの利益を出す事、意味のある事をする事が一番になる。
それに「優しさ」は直結しない。むしろ邪魔になる時だってある。
だから、皆、いつの間にか諦めて「優しさ」を捨てていくんだと。
「優しい」って当たり前じゃない。
「優しい人」ってどんな人?
女性が好きな男性のタイプを聞かれると大抵、
「優しい人」
とそう答える。
「優しさ」という概念は、素晴らしいものだが、同時に都合の良い言葉でもある。
「優しくあるべき」「人には優しくしなさい」
そうは言うけど、何が優しいのか?なぜそうあるべきか?皆、意外とよく分かっていない。私が今「素晴らしい言葉」と言ったように、皆なんとなくで認識している。
そうだ。いつの間にか「優しさ」は中身を失い、都合よく使われる飾りと化している。
だから、「『優しい人』ってありきたりじゃないの(笑)」とそれを聞いた男性は、
呆れたりする。
好きなタイプを聞かれ、女性によって答えられた「優しい人」は、価値を喪失した「優しさ」なのかもしれない。
でも、私は「優しさ」ってそんな薄っぺらな都合の良い言葉で終わらせたくない。
「優しい人」は当たり前じゃないと言ったが、そう当たり前じゃない。
決してありきたりに皆が持っているものじゃない。
だから、「優しい人」ってどんな人なのかしっかり自分で考えて、
「 私の好きな異性のタイプは、優しい人だ。」
そう「優しさ」という概念を大事に使いたい。
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「想像力」=「なんとなく」というニュアンスを感じる力
私の思う「優しい」人はこんな人だ。
まず、「想像力」を持っている事だと思う。
私はとてもこの言葉を愛用している。
だが、これも便利な言葉で、人によって捉え方は千差万別。
だから自分の考える「想像力」を少し紐解いてみる。
まず「物事の”ニュアンス”を大事に感じ取れること」だ。
世界は一つの側面では語り尽くせない。
同じ曲を聴いても「あったかい」「優しい」「ちょっと切ない」と沢山の様々な言葉によって表される。
一つの言葉で形式的に物事を表す、捕捉することは出来ない。
人だってそうだ。
性格を聞かれて、「真面目な性格」「社交的」などと答えるが、それはほんの一側面でしかない。人は、ミルフィーユみたいに何層にも様々な要素が重なって、形作られているはずだ。
だから言葉によって迂闊に世界を分断してはダメだ。
多面的にニュアンスを感じ取ろうとするというのは、自分の感じる感情や起こった事象に対して、意味付けをしすぎないことでもある。
つまり、「なんとなく」とか「なんか」とか「たまたま」とかそういうものを、ありのまま受容することだ。
なんとなく好き、なんか良いとかそういう気持ちを持っておくこと。
理由が分からなくても好きでいいし、良いと思ったらそれでいい。
そんな態度こそ、ニュアンスを感じ取るということ。世界を分断せずに包括して捉えようとする心構え。
そんな態度は、誰に対しても「優しい」人の心構えであると思う。
「想像力」=Yes/Noどちらでもないグレーゾーンを許容する力
またニュアンスを捉える事は「Yes/Noどちらでもないグレーゾーンを大事にできる」ことでもあると思う。
人間は、物事をYesとNoのどちらかで考えたがる。
「良いか悪いか」「好きか嫌いか」「賛成か反対か」
でも、世界は0と1でというような二進法では出来ていない。
それをしっかり理解し、二進法ではなく無限大で考えられる人は、世界を、人をしっかりと認識できる。それは、ニュアンスを捉えることと同等に「優しさ」に直結する。
コロナ禍に放送されたドラマ『姉ちゃんの恋人』
有村架純演じる桃子と、林遣都演じる真人のほっこりする恋愛が中心に描かれた。
真人は、過去に恋人を暴漢から助けるため、暴漢を撃退しようとし、ある理由から傷害事件の犯人として服役していた。だが、あくまで正当防衛の行為で、真人自身は、優しい青年だった。
そんな真人と付き合う事を決めた桃子が、親友のみゆきにそれを相談した第6話。
そのシーンのみゆきの言葉に私は胸を打たれた。
私は反対する。応援もしない。でも私が反対したからって言う事聞く必要もない。(中略)
反対する人を説得させるには幸せになるしかない。だから必要なんだ。
悔しかったら私に「だから言っただろ」って言われないようにしろ!
『姉ちゃんの恋人』第6話より
「好き」だからこそ、幸せになって欲しいと思っているからこそ、「反対」する。
「意見の同じ人=好き」となりがちだが、違っていてもその違いは必要で、「=批判」にはならない。大事なのは、表層ではなく中身だ。
「反対」という形を取っていても、相手を「思いやって」の行動なのだ。単純に「違う」ことが「嫌い」や「悪い」に繋がらない。
また「違うけど気が合う」という関係性、「理解」の大切さを感じた歌詞がある。
mihimaru GT の『マスターピース』という楽曲の一節だ。
好きな本も 趣味も まるであわないけど
君だけだよ うなずいてくれたのは
mihimaru GT 『マスターピース』より
「好きな本も趣味も」合わないのに、頷いてくれる。理解してくれる。
たった二行の歌詞だが、私の思う「優しさ」を体現してくれているとても好きな歌詞だ。この曲は全編通して素敵なので、是非曲を聴きながら見て欲しい。
よく「共感力」が大事だとか言うが、私は、「理解」する事こそ一番大事にすべきものではないかと思う。
他者の全てに共感できるなんてことは、滅多にない。だけど共感できないことの全てが批判に繋がるかと言えば、そうではないと思う。
「自分には分からないけど、その人はそう思うんだ。大事なものなんだ。」
そうやって、曖昧なままそっと横に置いておいてくれる。
分からないという事を理解する。
共感でも批判でもないグレーゾーン。
そういう「理解」という態度が人間関係において「優しい」という状態を作り出すのではないだろうか。
「想像力」=「分からない」を分かろうとする力
「理解」の態度は、自分は分からないけど否定はしないというスタンスだとしたが、
そこで特に大事にな要素は「分からない」という事実に対する積極的肯定だ。
形式的な言葉で物事を分断してしまうのも、「これは良い」「これはダメ」で判断してしまうのも、自分が「分かった気でいたい」からなのだ。
SEKAI NO OWARIの楽曲の一つに『プレゼント』という曲がある。
2015年に「NHK全国学校音楽コンクール」の課題曲にも選ばれた一曲であるが、
その曲の一節にこんな歌詞がある。
「知らない」という言葉の意味 間違えていたんだ
知らない人のこと いつの間にか「嫌い」と言っていたよ
何も知らずに 知ろうもしなかった人のこと
どうして「嫌い」なんて言ったのだろう
流されていたんだ
「知らない」ことは怖いから 醜い言葉ばかり吐き出して誤魔化して
自分のことまで嫌わないで
SEKAI NO OWARI『プレゼント』より
人は「分からない」ことが、「知らない」ことが何よりも怖い。だから何かにつけて「言葉」という道具で、簡単に分かりやすいように作り変える。だけど現実は何も作り替わっていない。自分の認識が変わっただけだ。見ないようにしただけ。例外は自分が勝手に除外しただけで、そこに存在する。
だからこそ、「分からない」ということをしっかり受け止めなければ、本当の「優しさ」にはたどり着かない。「分からない」をダメなものだとして、取り繕いたくなるが、それは一番ダメだ。勝手に分かった気になってはならない。
「分からない」ものは考え、「知らない」ものは知ろうとする努力をしなければ、根本的解決にはならない。
自分にとっては「優しい」ことでも、相手からすれば「迷惑」になっているかもしれない。だからこそ、相手の考えや思いは「分からない」のだという事を前提に寄り添うべきだ。
分からない事を、分かった気にならずしっかりと分かろうとする事、それが「優しさ」
ここである言葉を紹介する。
悲しいけど仕方ないよ、って言うのじゃなく、仕方ないけど悲しいよねって寄り添うことがしたい
— うらら (@salley_ulala) 2018年1月30日
仕方ないことは頭でわかってるんだから改めて言って追い討ちかけることなんかない
頭ではわかってるのに止められない「悲しみ」っていう感情の方にこそ、人の温もりが必要だと思ってるのです
愚痴をいったり悲しみを吐露することを「よくないよ」とか「損だよ」とかって封じる人もいるけど、辛いや悲しいは見ないふりしても消えない。それが終わったことだとしても。悲しいけど仕方ないよ、じゃなくて、仕方ないけど悲しいね、って、言ってもらって初めて泣けて浄化できたりするんだよ。
— うらら (@salley_ulala) 2020年2月4日
これは昨年解散した音楽ユニット「Salley」のうららのツイート。
ふとTLで見たツイートだったのだが、何だかとても腑に落ちた言葉だった。
「悲しいけど仕方ない、ではなく、仕方ないけど悲しい」
「仕方ない」「そういうものだ」
そう分かった気になる、現実を諦めてしまう事は、日々に溢れている。
だが、そこで現実を横に置き、感情をありのまま受け止める。
「なんとなく」悲しい、「なんか」悲しいという感情に意味を求めず、
素直に受け止める。
その姿勢でいられれば、他者にだけでなく自分にも優しくできる
また、元乃木坂46の橋本奈々未のある言葉も、とても好きな言葉の一つだ。
不幸なことこそ誰かが笑ってあげないと本当に不幸になっちゃう
(2016年9月5日放送『乃木坂工事中』「橋本奈々未に聞かせたい!乃木坂不幸話グランプリ」より)
不幸なことがあれば誰もが心配し同情する態度を取る。当然のことだと思う。
だが、考え方によれば、他者が追い打ちをかけて「不幸」の烙印を押しているとも捉えられる。
「不幸」な出来事に直面した時、当の本人にそれを笑って済ませることは容易ではない。そんな時に誰が笑ってあげられるのか。それは他者だろう。
不幸な事が起こって、その人が「不幸だ」と負の連鎖から逃れられなくなっても、他者はそれを否定し、カジュアルなものとして笑うことができる。
他者の「不幸」を軽んじて「あざ笑う」のではなく、「不幸」に寄り添い、思いやりを持ち「笑ってあげる」
「不幸」=悪 とは捉えず、多様なアプローチを持つことは、グレーゾーンの許容とも言える。
ここまで、私が思う「優しさ」を3つの「想像力」から述べた。
私は、文中で紹介した二曲と、二つの言葉から「優しさ」を感じた。
その「優しさ」を、自分なりに解釈し濃縮したのが「想像力」という視点だった。
皆が、このような「優しい人」であって欲しいと思うし、私もそうありたいと思う。
だが、「優しさ」は今の世の中とても難しいものになっている。
それは、冒頭で述べた通りだ。
その時必要なのは、「強さ」であり「信念」であり「芯」なのだと思う。
「優しさは強さ」=自分の芯を持つこと
皆、一度は聞いたことがあるのではないだろうか。
「優しさは強さ」
この意味、私はずっと分からなかった。なんとなくそうなんだろうと思っていた。
だけどこれが、「優しい」の本質的な概念だと思う。
「想像力」を持っているだけでは「優しい」ことを保持することは難しい。
「優しさ」は「悪意」「暴力」などの言葉の真反対に存在すると思う。
「悪意」や「暴力」のタチの悪い点が、それ単体で強い力を持っている事。
だから、「優しさ」ではとても対抗できないし、対抗するにはこちらも「悪意」を持って闘うしかない。
だが、本当にそうなのか。
「優しさは強さ」と言われるのは何故か?
それはそれ自体には力がないのに、力を持つことだ。
よく分からない言い回しになってしまったので、私の過去の体験談(?)を例に話を進めていこうと思う。
私は中学生の頃、同級生にいじめられていた。「気持ち悪い」「消えろ」そんな言葉を吐かれて、暴力も受けた。
だけど、必死に耐えた。だが、その頃は、まだ「悪意」に対抗する道具を持ち合わせていなかった。
だから私はただただ、孤独になり、相手に対抗するために、自分の存在を維持するために心の中で、他者への憎悪を募らせた。
その一方で、「自分は弱い」と自己否定を繰り返すようになった。
別に不幸自慢をしたい訳ではない。でもこんな日々を何年間か過ごした結果、一時期、「私はこの世で一番不幸だ」というような思想に陥っていた。
この頃の、私は「想像力」も足りていなかったが、自分の「芯」がなかった。
他者への憎悪、他者への恐怖が自分の行動原理だった。
それ故、自分がどう思うかではなく、他者にどう思われるかが行動の基準になっていた。それが私が拗らせてしまった大きな要因だ。
「優しい」状態でいることは非常に難しい。だから「悪意」に接しているといつの間にか、自己を否定し、「優しさ」という形だけになって苦しむことになる。
冒頭で述べた形骸化した言葉の一つになってしまう。
否定された自己を保つために、相手を批判し、「自分の苦しみ」を相手にも味あわせようとする。自分の存在を正当化するために。
そして次第に批判すること、他者と同じに染まること自体が目的になってしまう。
そんなのは「優しさ」でもなんでもない「悪意」よりもたちが悪い「優しさ」の姿をした「悪意」だ。そうなってしまっては最悪だ。
「優しさ」は不安定なものだ。「想像力」を持って人に接する。それは相手を簡単に否定したり、形式的に便利な概念で判断をしないこと。
それは非常に面倒くさいし、難しい。
1つの確かな何かに依拠されたものではないのだから。
だからこそ、それを持ち続けられる人は強い。
「優しい人でいる!!」
という信念、願望、理想、それ自体を優しさを成り立たせる存在にしているから。
自分の中にある思いを信じ抜ける芯の強さが「優しさ」には必須。
「優しさ」は誰に何を言われても、誰かを否定せず、とにかく自分を信じることで成り立つ。ある種、「覚悟」でもある。
それ故、価値があり、強い。
その態度が、Yes/Noで決めつけない、違っていても否定しないという「想像力」に繋がっていく。
『仮面ライダークウガ』EPISODE41「抑制」で、主人公五代雄介は、「綺麗事こそ、現実にしたい。ホントは綺麗事がいいんだから」と言っている。
私は主人公五代雄介こそ、まさに「優しい人」だと思う。綺麗事が通じない「暴力」と、「暴力」でしか抗えない状況の中、自分の理想が綺麗事だと自覚しながらも、
綺麗事を実現させるために戦ったのだから。
「優しさ」がどれだけ難しくても、綺麗事なのだとしても、それを諦めない。
それが大事なのだ。「優しさ」を思うだけではなく、信じる事。それがあって初めて、それが機能し価値を持つ。
優しくいるための「好き」
だが、何もなしに「優しさ」を信じる事はやはり難しいし、独りよがりになってしまう。そんな時にあるのが「好き」と言う感情であり、好きなもの自体だ。
私は、いじめを受けたり家庭環境で色々あったりと、「好き」を我慢することが多くあった。だが、「好き」という感情は、人間にとって最大でかけがえのない唯一無二のものだと思う。
「好き」は誰に否定されても、絶対だ。相手を傷つけ自分の「好き」を押しつけない限りは絶対だ。
2018年に放送されていた東京モード学園のCM。このフレーズが私は大好きだ。
イヤならやめちゃいましょう!
苦しいなら逃げちゃいましょう!
でも、好きなことだけは死んでも離すな☆
(東京モード学園2018年CMより)
この世には理不尽な「悪意」がそこら中にある。それが連鎖していく。
「~さんホントムカつくよね」「あの人どうかしてるでしょ」
そんな言葉が当たり前に飛び交う。時には愚痴ることも大事だと思う。
だけど、
「この前の推しめっちゃ可愛かったよな...!!」「あの曲、今ヘビロテ中!!」
なんて言葉をどうせなら交わしていたい。いやそうでなくちゃ。
現実で、なかなか嫌なこと、苦しいことから逃れられなくても、
「私は大人しいから」「私は引っ込み思案だから」
と自分の性格を言い訳にせず、「好きな人」が溢れる「好き」な生活を強く希求していたい。死んでも離さない。そのための妥協だけはしない。そんな人であれば、「優しさ」を信じることにも繋がっていくのではないだろうか。
mizomone7118.hatenablog.jp
私はこれから何があっても自分の思う「優しさ」を信じ、「優しい人」でいたい。
そんな人と関わっていたい。
大事にしたい「優しさ」は今、確かに心の中にある。
だから、大丈夫だ。
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(あとがき)
今回もここまで読んで下さってありがとうございました!!
ずっと「優しい」ってなんだろう?と考えているのですが、コロナ禍で、現段階での私の答えが出た気がして、書き留めました。
この内容は、自分の目標でもあり、理想でもあり、好きな人の事でもあります。
年齢=彼女いない歴の私。そろそろお付き合いしたい!!そう思う日々です(何の話
書いていても、「同じこと言ってるなぁ」と思ってたのですが、何度も言葉を変え、書き記す事で、自分の考える「優しさ」が分かってもらえる気もして(笑)
まとまってるようでまとまらない私の思う理想の人間像。
これを読んで、また誰かが何かを思ってくれれば...と思います。
私の考えの基本になっているのは、誰かの言葉や表現です。それを一人でも多くの人に伝える事もこのブログの一つの意味なのかなと思っています。
それ故、ここでもう一つ。
アイドルグループHKT48のメンバー豊永阿紀さんのあるブログ。
10代最後の日に書かれたブログなんですが、自分の誕生日前のブログとは思えないくらい、濃厚な内容で、最初読んだ時、度肝を抜かれたんですよね...
ここに書いてある生き方。
とても好きなので、皆さんにも紹介しておきます。
そしてそして、もう一つだけ。ドラマ『腐女子、うっかりゲイに告る』でのセリフ。
『真に恐れるべきは、人間を簡単にする肩書きさ』
『人間は、自分が理解できるように世界を簡単にしてわかったことにするものなのさ』
「好きなものを好きだって言える時間がいちばん好きだな」
さて今回、そして次に更新されるであろう記事は、私の学生生活の総決算みたいなものなので、次回もとても思い入れのあるブログになっているはず!!
是非次も読んで頂き、感想も送って頂ければ、とても嬉しいです。
では、したっけ~!!