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「無関心」に奪われる私たちの心 映画『図書館戦争』レビュー

 先日、Amazon Primeで、『図書館戦争』シリーズが3作品同時に配信を開始した。

劇場版2作とTVSP1作の計3作からなる『図書館戦争』シリーズ。

有川浩の小説が原作の本作品。実写映画だけでなくアニメや漫画というマルチメディア展開もされた人気シリーズだ。

私自身、公開当初から作品自体に興味はあったものの、映画館に足を運ぶことなく時が過ぎてしまった。だが、つい最近、脚本を担当していた野木亜紀子のあるツイートを見かけたことを機に観ることになった。

 

さらっと、「脚本の野木亜紀子」と綴ったが、今回『図書館戦争』が配信されるというツイートを野木が行っているのを見て初めて、野木が本作品の脚本を担当していると知った。思えば1作目が公開された2013年当時、既にドラマ大好き人間ではあったものの、「脚本家が~」などという専門家的(オタク的)視点まではなかった。また野木をしっかり認識し始めたのも2018年『獣になれない私たち』だ。そのため、知らなくて当然である。

今回の『図書館戦争』以外にも、「え!これ野木氏だったのか!」と思う作品は多く、松本潤主演の爽快探偵ドラマ『ラッキーセブン』なんかもその一つ。

こういう過去作にまで遡って新しい発見ができるのも、長くドラマを好きでいる人故の楽しみだと思ったりもする。

 

www.tbs.co.jp

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野木の作品は、フィクションとしての都合の良さが無かったりだとか、キャラクターが作品を成立させる駒としてではなく、”生きている”という感じがするという点で、『獣になれない私たち』視聴後、好んで作品をチェックするようになった。

先日も『空飛ぶ広報室』を完走し、次に『重版出来!』を観ようと思っているそんなところである。

野木のインタビューを一部引用した、記事も書いているので、「まだ見てないよ!」という方は、この記事の後にでも是非とも見ていって欲しい。(少し長いが

mizomone7118.hatenablog.jp

 さて、少し脱線してしまったが、そんな野木が手掛けた作品ということもあり、期待値を上げて、視聴したのだが、実際その期待に沿った素晴らしい作品であるとともに、野木作品らしく、様々な思いが心の内から自然と出てくる作品であった。

そんな『図書館戦争』のストーリーはこんな感じだ。

1988年公序良俗を乱し、人権を侵害する表現を規制するための「メディア良化法」が制定される。法の施行に伴い、メディアへの監視権を持つメディア良化委員会が発足し、不適切とされたあらゆる創作物は、その執行機関である良化特務機関(メディア良化隊)による検閲を受けていた。この執行が妨害される際には、武力制圧も行われるという行き過ぎた内容であり、情報が制限され自由が侵されつつあるなか、弾圧に対抗した存在が図書館だった。

実質的検閲の強行に対し、図書館法に則る公共図書館は、「図書館の自由に関する宣言」を元に「図書館の自由法」を制定。あくまでその役割と本の自由を守るべく、やがて図書館は自主防衛の道へと突き進んだ。これ以降、図書隊と良化特務機関との永きに渡る抗争に突入していくことになる。

時代は昭和から正化へと移り、図書隊は激化する検閲やその賛同団体の襲撃によって防衛力を増す。それに伴い、拡大解釈的に良化法を運用し権勢を強めるメディア良化委員会との対立は、激化の一途をたどっていた。

時を同じくして正化26年(2014年10月4日。高校3年生の郁は、ある一人の図書隊員に検閲の窮地から救われる。幼少時代からの大好きな本を守ってくれた図書隊員との出会いをきっかけに、郁は彼を“王子様”と慕い、自分も彼のように「理不尽な検閲から本を守りたい」という強い思いを胸に、図書隊の道を歩み始めた。

そして、メディア良化法成立から30年を経た正化31年(2019年)。郁は、自身の夢である念願の図書隊へと入隊を果たしたが、指導教官である堂上篤は、郁が目指した憧れの図書隊員とは正反対の鬼教官だった。男性隊員にも引けを取らない高い身体能力が取り柄の郁は、顔も名前もわからない王子様を慕って人一倍過酷な訓練をこなしていく。一方、堂上は、5年前に自らの独断が起こした「ある事件」を重く受け止めていた。

やがて、郁は懸命な努力と姿勢が認められ、全国初の女性隊員として図書特殊部隊に配属される。そして、堂上のもとで幾多の困難な事件・戦いに対峙しながら、仲間とともに助け合い、成長していくこととなる。

図書館戦争 - Wikipedia

「平成」ではなく「正化」という元号が制定されていたり、”メディア良化法”なる法律が制定され、人々の表現の自由が著しく損なわれているといった点で、SF要素を含む極めてフィクション性の高いお話であることがストーリーから見て分かるだろう。

 

図書館戦争

図書館戦争

  • メディア: Prime Video
 

あらゆるメディアに検閲がかかり、発禁になる。言うなれば言論弾圧。そんなことが何の違和感もなく、抵抗もなく行われている世界。

設定だけは以前から何となく知っていたのだが

「そんなめちゃくちゃな事起こらないでしょ。さすがに感情移入できない。フィクションすぎる。」とも正直思っていた。

それもそうだ、そんな検閲・言論弾圧がまかり通っているだけでも、現実的ではないのに、それを行う際、場合によっては武力行使を伴うというのだ。

「そんな事ありえない」

そういう現実との乖離があるという印象もあり、作品に触れずにいたのかもしれない

今日この頃まで見なかったのかもしれない。

実際、そのイメージは一変するのだが。

 

無関心が異常な世界を作り出す

ここまで、全然「感情移入できない」「フィクションすぎる」などと言ったが、それはこの世界があまりにも異常だからだ。

明らかに言論弾圧であるメディア良化法なる法律が、成立してしまっているという事。

検閲のためだからと武力まで行使する事。

そのどれもが、まるで戦時下の社会情勢だからだ。

戦時中がいかに異常性に満ちていたか、”狂った”状況だったかは義務教育の中で、誰もが認識していることだと思う。

一致団結して敵国を倒す。戦争のためなら何でもする。

国のために死ねる事を誇りと思え。

戦時中に使われたそういった言葉に対し、違和感しか感じないことがその証拠だ。

だが、そこには現代に生きる私たちと同じような感覚を持っていた人も少なからずいたはずだ。なのに、戦争に突き進み最悪の状況が生まれてしまった。

そう、現実でもあり得ないと思われる異常性が見逃された歴史が確かにあるのだ。

それを踏まえると、この物語がただの戯言ではないと思えてくる。

劇中では、メディア良化法を後ろ手に、検閲を行う武装集団、メディア良化隊。

そして、その検閲に抵抗する図書館の武装部隊である「図書隊」の二つの組織の対立が描かれている。

 表現の自由を守るために、あくまで専守防衛のために武装を強いられた図書館。

表現の自由が脅かされる事態、本が燃やされる異常な事態。

図書館が武装する事も異常であるが、そのような状態に対して何もしない訳にもいかないだろう。この状況においてその行為自体に理解はできる。

だが、劇中において、市民の図書隊に対する考えには冷ややかなものが多い。

「そこまでして本を守る意味が分からない」

「たかが本で、戦争紛いの事を行うのはおかしい」

これに対して少しミクロな視点に考えてみた。 

私自身、”読書好き”ではない。

読書そのものは嫌いではないし、好きな方でもある。

だが、実際そこまで本は読まないし、正直無くても生きていける(テレビがなかったら生きていけないけど)

そういう、本にはそこまで興味がない。

そんな人からしたら武力抗争に至ってまで、本を守る意味が分からなくても不思議ではない。

だが、マクロに見てはどうだろう。

劇中で、図書隊の司令、仁科が、「本を焼けば、しまいに人を焼くようになる」と度々口にする。

本は思想であり、人の心、人の存在そのものでもある。

そういった考えから出る言葉であろう。

本が奪われる。

それは「本がなくなる」という事実に留まらない。

現代に至るまで生きてきた全ての人々の思いや英知がなくなる。

それは、今を生きる人々の思想や知識自体が否定されることでもある。

そう考えると、「どうでもいい」とはとても思えないはず。

だが、人々は「私には関係ない」という考えで、現実から目を背けた。

考えるのをやめた。

劇中世界では、そんな小さな無関心が、メディア良化法を成立させた。

そして、法律によって行われるメディアの弾圧が、人々から考える事、知識を得る事を奪っていくことになり、最終的に関心すら持つことのできない「非関心」を生みだすことになり、次第に異常性は、普通に変わった。

 

自分の好きなものだけを選ぶ現代。自分の好きなものしか目に入らない現代。

そんな今の社会では、自分に関係ないことに対する感覚は、日に日に鈍り、それこそ無関心が蔓延っている。そして一部では非関心に陥っている。

「どちらでもいいけど、皆が言うから批判しておこう」

「どちらでもいいけど、皆が良いっていうから良いんだろう」

「どうでもいい」「なんでもいい」という無関心だけならまだいい。

だが、その先の決断を他人に合わせて容易に行う非関心はとてもマズい。

SNSの普及によって拡大した、多数派至上主義は、いずれメディア良化法のような悪法を生み出し、劣悪な世界を生み出してしまうのかもしれない。

ヒトラームッソリーニ大日本帝国

全体主義と呼ばれ、遠い存在と思われた戦時下の状況がなんだか近く感じる。

あり得ないと思っている世界が、人々の小さな無関心と、想像力の欠如で、気が付けば成立してしまうという事実。それが確かにあるのだと。

この作品は、それを”ありえない”が普通のフィクションという形を使う事で、視聴者に身を以て感じさせるところに意味があるのではないだろうか。

 

本というメディアが具現化する「表現の自由

現代において「政治的無関心」や「若者の政治離れ」が叫ばれ始めてもう久しい。

この作品は、「表現の自由」という言葉、またメディア良化法という法律を始め、省庁、警察の思惑なども描かれ、政治色の強い作品になっている。

そういった点で、(政治的)無関心が起こすかもしれない政治の暴走に対する危惧を、無関心を超え非関心に至りかけている若者に、エンタメという形でなんとか届けようとしているとも言える。

無関心、そして非関心、ささいな事柄に対するものであっても、いずれは大きな問題へと波及する。

「政治的」と言うから堅苦しく感じるが、実際は私たちの生活に深く関係する事だ。

以前、ブログで野木のある発言を取り上げたが、ここでもう一度、その発言を引用したい。

ニュースやドキュメンタリーは観ないけどドラマや映画は観るという人はたくさんいます。エンターテインメントの形にすることで世の中に伝える、知ってもらうのは意義のあることであり、必要なことです。

逃げ恥脚本家語る「エンタメ共感競争」への異論 | 映画界のキーパーソンに直撃 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準

 

表現の自由」といっても、正直なところ、教科書で学んだ用語にすぎず、大事だとは思っていても、イマイチその本質を理解できずに皆いるのではないだろうか。

本作では、”本が火炎放射器で焼かれる”、”雑に回収され処分される”という目に見えて痛ましい描写がある。

そうそれが「表現の自由が奪われる」という状況なのだ。

本作は、「本」という長い間生活を私たちと共にしてきたメディアを用いることで、「政治的」と括られてしまう問題を、私たちの身近な場所にまで敷居を下げて考えるきっかけをくれる。

まさに、この作品は野木の「エンタメという形で伝える」を体現している。

それが『図書館戦争』の良さなのだと思う。

 

現代において、情報の器は、紙から電子メディアに移行しつつある。

コロナ禍においてもオンラインやリモートといった言葉が飛び交い、デジタル化の動きをより感じる。

電子メディアの情報に、物理的な質量はない。

それ故に、言葉や表現の価値も軽薄になりがちだ。

消しゴムで力をかけて消した一文字も、長押し一回で簡単に消すようになる。

劇中でのメディア良化法は、本だけでなく全ての表現に適用される。

だが、その中でも「本」を所蔵する「図書館」が反旗を翻したのは、ワンタッチで紡げる言葉でなく、力をかけて紡がれる一文字一文字の価値を証明する存在であったからなのかもしれない。

 

【総括】実写映画『図書館戦争』を見て

 さて、ここまで『図書館戦争』という物語自体に関して語ったが、少しだけ、実写映画自体の感想を述べてたい。

映画の主人公は、榮倉奈々演じる笠原郁。

脚本の野木氏もツイートしているが、とにかく郁が可愛い。というか榮倉奈々が可愛い。うちの母親の個人的推し女優なのだが、榮倉奈々のイメージ、解釈通り!という配役だ。

というのも、郁は、勝気で男勝りな性格、運動は好きだが、勉強はイマイチというキャラクター。高校生の頃に、検閲図書として取り上げられそうになっていた本を守ってくれた人を、王子様と呼ぶ乙女っぷりも持ち合わせておりキャラクターとして非常に魅力的だ。

榮倉は今では、落ち着いた大人な印象が強いが、”若手女優”と言われていた頃は、とにかく「天真爛漫」が似合う女優だった。本作もそれに漏れず、誰もが好きになってしまう主人公を見事に演じていた。

そして、そんな高校生の郁を助けた王子様が、岡田准一演じる堂上。

とにかくカッコいい。後半につれ、郁が王子様の正体が、堂上だと気づき関係が近づいていく様は本作のキュンキュンポイントだろう。

周りを固める福士蒼汰栗山千明田中圭、土屋太鳳などのキャストも皆、個性豊かで生き生きとしていてとても心が満たされる作品であった。

 

そして全体としても、ここまで書いてきた「表現の自由とは?」などを問いかけながらも、図書隊と良化隊の武力衝突はなかなかの迫力であった。

アクション映画としても十分楽しめる。またそういったシリアスな面がある一方で、郁と堂上を中心としたムズムズする恋愛模様も描かれる。

シリアスとポップの程良いバランスはさすが野木脚本...!!と言わざるを得ない。

他にも語りたい事は山ほどあるが、最後に、、

図書館における本を巡る戦争というあり得ない状況を視聴者に提示することで、視聴者の興味を惹き、また、「本」と「武力」という実体の確かな存在で「表現の自由」「政治的無関心」といった概念的な取っつきにくい事柄に関心を向ける構成。

また、全体としてあり得ない状況があり得るかもしれないと視聴者に追体験させるロジックには非常に感銘を受けた。

改めて考える事、知識を得る事、ひいては想像力を持つことの大切さを感じさせられた作品であった。

 

今回は以上!!したっけ~!

図書館戦争 THE LAST MISSION

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  • 発売日: 2021/05/01
  • メディア: Prime Video
 

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あとがき

今回は思いつくままに『図書館戦争』3作品を観て思った事を書き連ねました。

本という存在。

私は本あまり読まないけどやっぱり電子書籍より紙の本がいいな。と思ってしまいます。劇中で本が破かれた、焼かれたり、銃でハチの巣にされているのが、とても心苦しかった。紙の本ならではの質感というか、平たく言えば愛着みたいなものがある気がして、電子書籍に移行できない組の一人です(笑)

本と言えば、皆さん、新聞は読みますか?

随分と読む方が少なくなっているようですが、私は就活を始めた頃から、毎日読んでいます。

全てを読むことは時間的に厳しいのですが、一面を俯瞰して見ると、大体のニュースの内容が入ってきて、そういう空間的に情報を概略的に把握できるのが、新聞の良さだなと思います。

その中で、”談話室”という新聞の読者が投稿するエッセイコーナーみたいなのが密かな楽しみです。老若男女、様々な人の文章が毎日読めるのですが、特に楽しみにしているのが、小学生から高校生までの子供さんの文章!

読んでみると感服するものばかりなんです。

文章は読みやすい構成になっているし、題材も身近な場面で、自分が考えたこと思った事を分かりやすく綴っていて、「すげぇ....」ってなることもしばしば。

そんなに若い子が新聞の一コーナーに文章を投稿して、私が見るのってすごい奇跡じゃない?って事をふと思いました。

読む人が少なくなっている新聞を、手に取って、かつ談話室のコーナーを見て、その上で「書きたい!」と思って投稿して、それが選ばれて、私が新聞を読んでそのコーナーを読むことで初めて、私のもとにその子の文章が届く。

そしてそれがとっっても素敵な文章。

そう思うとなんだかとても感動しちゃいませんか?

どこかの誰かが紡いだ一文字一文字には、想像できないくらいの偶然が、思いが乗っているのだと、『図書館戦争』、そしてこの新聞の寄稿コーナーで思わされました。

いつか、新聞の談話室に寄稿した少年少女にインタビューしてみたいなと思いました!!(笑)

平等じゃない「選択」2021.4.30

自分で選んだんだから仕方ない

コロナ禍で、懸命に働くエッセンシャルワーカーに向けられる言葉。

自己責任論というのだろうか。こんな言葉を聞くと、悲しくなる。

私も、介護の仕事を始めて早3週間。もはや「辞めたい」と正直思っている。

そんな鬱々とした気分ではあるが、仕事をしていると、幸いにも同僚の方は私に色んな話をしてくれる。

この仕事を何故選んだのか?

決まり文句のようにこの質問を会う人々にする。

すると、返ってくる答えはよく言われる「やりがい」や「社会貢献」などという言葉ではなく、

ここしかなかったから」「頭が悪かったから

などという答えだ。

介護業界の有効求人倍率は実際、全体の有効求人倍率の約3倍である。

それ故、そのような控えめな後ろ向きな動機で入社を決めている人は珍しくない。

今思えば、自分も就活中は、自分に自信がなく妥協や諦めというネガティブな動機でこの仕事を選んだのかもしれない。

前回のブログでも散々書いたが、仕事に対する「向いてない」「合ってない」という気持ちは日に日に、固定化してきている。

「皆、後ろ向きな動機で入社を決めているのか....」とため息をつきたくなるが、

それが現状。

実際、自分も、学歴や目指していた職業、話しぶりから職場で「この仕事を選ぶのはもったいない」とも言われた。

でもその中でも、ある言葉が私を引き留めている。

やってるうちにやりがいが出てくる

 

どんな仕事でも、突き詰めれば見えるもの、分かることがある。

介護の業界で働き続ける人たちは、そういう、続ける事で得られる何か、唯一無二のものをどこかのタイミングで手にするのだろうか。

それはおそらく実際は「やりがい」という言葉では、表しきれない何かだ。

私は、妥協や諦めで、「したい」「やりたい」をこじつけのように仕事に当てはめて、選択をした。それ故ギャップや躊躇い、戸惑いが生まれているのだろう。

だが、その選択を悔やんではいない。

その選択をしたから、その業界について考え、実際何が大変で、何が問題なのか机上の空論にならない経験則として日々、身につけることが出来ているし、妥協や諦めというものを近くに置いてはいけないという事にも気づいた。

もちろん、やっていて素敵だなと思うことも多い。それにも気づけるし、実際に働いている先輩たちもすごい。それは確かで。介護業界のイメージを落とすつもりはない。

だが、実際に、それが自分に合っているかどうかというのはまた別であろう。

自分の活かせる能力。それを信じず、

出来るかもしれない挑戦できるかもしれない道を選ばない。

それは、自分に思う道を選択したくても選択できない人に、失礼だ。

短い期間、仕事をしていてそんな思いを今感じている。

 

www.nhk.or.jp

今日(4/30)放送の朝ドラ『おちょやん』

主人公の千代(演:杉咲花)が、旦那の浮気により離婚することになり、絶望に打ちひしがれていたが、幼少期に千代をぞんざいに扱い、奉公に出させた父親の再婚相手、栗子(演:宮澤エマ)と再会し、役者として再起する姿が描かれた。

その栗子、放送1週目、一年近く前に登場したっきりで、「最低やん...」と私も思うぐらい印象悪く描かれていた(父親テルオは酒入り浸るは借金作るはでもっと最低だったが)

千代は自由に学校も行けない、選択できない環境下で生きてきたが、彼女を追いこんだ再婚相手、栗子も「学校に行けていなかった」ということが字が読めない事から今週発覚した。

自分で選んだんだから仕方ない

この言葉、一見正しいように見えるが、その人それぞれの背景をガン無視だ。

経済状況や家族構成、教育方法などの家庭環境など、生きてきた環境に人間は、選択肢を絞られる。選択を強制される。

それに抗う事はできるのかもしれないが、簡単じゃない。

そして、そんな環境で自己決定を奪われた人は、強烈な劣等感や、歪んだ羨望からくる嫉妬から、他者に対して強く当たったり、どこか曲がった人間になってしまう。

それが関わる人間を伝って伝染していく。

なかなか切れない呪いになってしまうのだ。

 

だが、今回、栗子はその負のループから抜けたのだ。簡単じゃないその敵に抗った、その先にあったのが、千代の抗いでもある「女優になる」「芝居をする」ということだった。

抗う事は難しい。だが、それを可能にした一因に、「芝居」があったのは、『おちょやん』という作品が、丁寧に「芝居」に向き合っている証拠でもあろう。

 

そういう意味でも、私は「自分で選んだんだから仕方ない」とは言われたくない。

そしてあなたがそう言われたなら、私は「仕方なくない。納得して自分で100%選択してんじゃないよね」と言う。

だが、それを言い訳にもしたくない。

だから、ちゃんと向き合う、そして自己決定ができるように今から出来ることがあるなら何でもしなくてはと思うのだ。

そして千代に「芝居」があったように、「音楽」や「ドラマ」を人生のどこかに置き、誰に何を言われても、納得する「選択」をする。そんな自分でいたい。

 

正直、明日明後日一か月一年どうなっているか分からない、新入社員だが、まだまだ人生は長い。正解への道筋は一つではない。

世間から「その選択は間違いだ」と言われたとしても、まだ遅くない。

毎日、揺れ動きながらちょっと良い明日を目指して、変えられない過去に思いを馳せるのではなく、今から変わっていく未来へ進む一歩を踏み出していきたい。

 

最後に、一曲。

可愛らしいビジュアルから人気の高い声優、”みっく”こと伊藤美来

彼女が今週リリースした一曲。『No.6

youtu.be

MVはモノトーンな衣装とセットで、サスペンダーを付けている少しお調子者の彼女と、少し大人で色気のある彼女の二人のみっくが楽しめる。

そして声優というのはすごいなと思うのが、2分40秒という短いMVの中で、魅せる表情の多さだ。表情豊かとはこの事だ。

またメロディも豪華な演奏で、心が躍る。

実は、先ほどの締めのコメントは、この曲の歌詞からインスピレーションを得たものっだったのだが、それに表されてる通り、歌詞もとても素敵なのだ。

 

全てはきっと見えない だから夢見る ちょっとだけ良い明日を

予定通りじゃなくても 新しい未来 淡い期待の先で 巡り合えますように

遠回りでもいいから 探したい未来 それぞれの明日が 希望で満ちますように

 シンプルだが、未来や明日に対しての、希望や願いを優しく描いていて、綺麗事と言われるような事を胸を張って言える音楽の素晴らしさを改めて感じる。

 

また二番の歌詞が、特に私は好きだ。

踏み出す前に一瞬考えてみてもいい 

正解へのパターンなんて 何通りでもあるよね?

選んだ答えが 間違えててもIt`s not too late

誰かの〇は誰かの×で 世界は回って行く

Operation No.6  比べるより並べよう

君だけが見る世界と私の世界

混ざり合えたら光るよ

 

良いも悪いも、矛盾も、清濁飲み込んでくれる。あったかい歌詞。

この中でもさらに好きなのは比べるより並べようという歌詞、シンプルな9文字の文字列だが、並べるという言葉を充てるのはすごい...!!

 

 

ということで、今回はここまで。したっけ~!!

 

【過去記事】

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

mizomone7118.hatenablog.jp

 

 

「新社会人」2021.4.19

4月も中旬に入り、もう5月がこちらを覗き始めている今日この頃。

私も、新社会人になり早3週間だろうか。なんだかんだ慣れてくる頃なのだろうが、全然慣れない。むしろ自分と仕事のミスマッチに日々、気づいていく日々である。

いつも、ブログは何回か書き直したり、色々考えて時間をかけて書くのだが、今回はまんま今思った事を、リアルタイムに書いていく。これからはこのスタイルが自分の主流になるのかなと思ったり。

 

 

さて、仕事と自分のミスマッチと言ったが、そりゃ入社前と入社後のギャップは不可避。それはそうだろう。だが、私の場合は、そのギャップが大きすぎた。

未経験でもOK

なる文句は、新卒採用でも、中途採用でもかなりの数、目にする。

まぁ大体、そういう風に書く職種は、専門性の高いとされるものであることが多い。

ITエンジニアや介護福祉などがそうだろう。

そんな中でも、私は介護の仕事を選んだ。

思いやり」「優しさ

そんな言葉が、前に出てくる世界。もちろん、綺麗事だけではないだろうが、そういうものが地盤にあるような仕事なら、出来ると思った。

でも実際は、それはもう地盤どころか、地下深くあるものだった。それらのある深さを随分見誤っていた。

 

 

職場の先輩も同期もとても良い人だ。大体の事は聞けば教えてくれるし、気遣ってもくれる。だが、私が初出勤した時感じたのは、

建設事務所みたいだな

ということだ。あんまり喋ると、会社の規約に抵触するのかもだが、まぁお客さんの事でないから良いのだと思うので、続けて話すが、私の勤める会社は訪問型の介護サービスだ。それ故、世間一般の想像する、高齢者施設のようなものとは違う。

オフィスで仕事をすることがほぼないので、簡素な感じになっているのだ。

それは、仕事を選ぶ段階で想像は出来たが、想像以上に、建設事務所感。

実際の仕事に関しても、

引っ越し業者みたいだな

と思った。あんまり業種が断定されるのは良くないので濁すが、介護の中でも私の勤める会社は、大きい荷物を搬入してサービスを行う。

それ故、もはや引っ越し業者さながらの搬入作業の繰り返し。

それも、直角に近い階段が立ちはだかったり、物が置けないほどの部屋の広さだったりと条件もおうちによって様々だ。

 

もうここまでで、察しただろうが、私に80~90%合ってない。

「でもそれを分かってて選んだんだから自業自得だろ!」

という声もあるだろう。

しかし、超狭いお部屋にサービスに行く事も、荷物をめちゃめちゃ運ぶことも、その程度がどれも想像以上だった。分かりやすく言えば舐めていた。

そして何より衝撃だったのが、仕事の多さ。

物を運びサービスを行うのも時間勝負、効率重視

最初に現場で作業を見た時は、まさに度肝を抜かれたというやつである。

漫画で腕を何本も書いて、早さを表現するアレがあるが、まさにそんな感じ、顔も皆、真顔だ。

だが、お客さんの前では、笑顔

プロだ。プロすぎる。

そう思った。

同時に「私には無理だ...」とも思った。

先輩は「作業は覚えていくから大丈夫。早くなるから!」というが、

私は、その仕事の効率と、接客の二つを両立させることがすこぶる苦手だ。

このブログを読んで下さってる方なら分かるだろうが、私は感受性が高く、一つずつ、ニュアンスを大事に、丁寧に物事に向き合える。逆に言えば向き合ってしまう。

それ故、それに作業効率が入るとかしんどすぎるのだ。

この時点で、介護って究極の接客業なんだと認識を訂正した。

スーパー・コンビニの店員さんも、作業効率を意識しながらも、お客さんに対しては笑顔だ。

介護の世界では、それに加え体調、着替えの用意や様々な事を気にしなくてはならない。ハイレベルなお仕事だ。

それに、仕事のフィールドが、スーパーやコンビニなどの公な空間ではなく、お客さんのご自宅という私的空間だ。

他人の家に踏み込むのが怖い。もともと心の壁が分厚い私は、相手の私的領域に入ってさらに、他者の体に触れるという、プライバシーへの介入行為がどうしても辛い。

 

先ほど、ハイレベルな仕事と言ったが、ホントにハイレベルな仕事だ。私的領域へ身体的にも、領域的にも踏み込む、そしてそこに作業効率が求められる。その仕事には体力が必要。

やればやるほど、「なんで介護の地位はこんなに低いのか。待遇がなぜよくないのか。せめて給料だけでも普通より高く設定すべきだろう」と、大学時代思っていたことが、現実性を帯びた言葉として顕現する。

 

先輩に話を聞くと皆「勉強ができないからこの仕事に」と言う。

そして「看護師やってたからこの仕事に」とも言う。

そして私の学歴を聞き「もったいない!もっといい仕事あるのに!」と言う。

 

「うーーーーーーーん。そうか....」

それを聞いてこんな言葉で表されるような気持ちになった。

力仕事があるなどの仕事の性質上、そのような「妥協で入ってきた人」や「医療系の人」が多いらしい。

社会がこの仕事のハイレベルさを理解しない結果、なんか良からぬ連環ができているのだなと思ってしまった。

また、「学歴で人は区別されない、されてはいけない」とよく言うが、学歴は、ある種、その人が生きてきた環境を表す。それ故、学力云々は差し置いて、やはり何かしら違いはあると感じてしまった。

 

仕事の効率。

それがあるからか、お客さんに対する愚痴もかなり多い。

私が「接客業は向いていない」と考える理由の一つが、お客さんの悪口を言えないという点。

「確かにそうだな」

と思う反面、それを大っぴらに笑って盛り上がれない。

私が変なのだろうか。まぁ変だろう。でもそれがダメだと思いたくないのだ。

それに染まることはやってみれば簡単なのかもしれないが、それは自分じゃない。

 

ここまで文脈ガン無視で書いてきたが、「人手不足」と言われる理由が、とても分かったこの3週間だった。

排泄介助が大変とか、腰を痛めるとかそんな理由以上に、

私的空間に踏み込んでもある程度の割り切りが持てるか(愚痴含め)

独特な人間関係(かなり上下関係、曖昧)

人手不足なのに、サービス利用者増やすから作業効率重視

になってなんか大変ということだ。

からしたら、効率を求められながら接客は困難、また万年、文化系の私が運動部並みの作業をこなすなどそりゃ大変、そして曖昧な上下関係もかなり困る、私的空間に入るのも自分が嫌なのに単身敵陣に踏み込むなど、毎回心臓がつぶれそうになっている。

つまりは100%向いていない。

 

やりたいことを必ずやれるとは限らない。それが社会、それが仕事。

そう思って、自分のやりたいことよりも妥協して選んだのが、正直なところ。

会社の研修で、我慢する必要のあることと、我慢すべきでないことの二つがあるという話があった。

「しんどいな。辛いな。」

そう思うのはある意味、当たり前の事。

だが、それが正当な辛さ、しんどさかどうか。

ブラック企業パワハラを受けている、体質的に合わない、そんな場合は、

「今は我慢してやれ」

とはならない。そんな話だった。

だが、それも社会では、ただの忍耐力不足でカテゴライズされてしまうのが難しいところ。だから皆、病になってから死に瀕してから気づくのだろう。

 

とりあえず、一日一日頑張っていきたいとは思うが、将来のビジョンが完全に消失している。すぐに仕事辞める選択はなかなか出来ないが、そもそも私は社会のはぐれ者だ。

もっと妥協せず求めてもいいのではないかとも思う。正しい妥協をしたい。

「しんどいけど、これならできる。」「しんどいけど、楽しい」

そのどちらかを選んでいたい。

介護福祉という特殊な業界故に、長居すればするほど、他の業種に行けないのではという不安もあったりするので、こんな時期に、こんなブログを書いてみるほどになった。

まぁ大きい独り言なので、気にしないで欲しい。

言語化する事で、悩みは折りたたまれる。

そういう私の強みがどこかで活かせないか考えていくべきだろう。

 

なんかとてつもなく暗い感じになっているが、この仕事を選んだこと自体に後悔はないのだ。ここに書いた全ては、やってみないとホントに分からない。

そしてそれが、ただ単に自分に合っていないということだけで、悪と言う訳でもない。

日々、介護に対してリスペクトは増し、気づきも多い。

人生の豊かさに繋がるヒントを貰っている。

最後に、仕事に関してではないが、一つ仕事中にハッとした事を一つ。

仕事上、車にずっと乗っているが、ラジオを付けてくださることが多い。

夕方頃のこと、「仕事がもう少し長引きそうで定時では終われなさそうです」といったメールに対して、DJが「お疲れ様です!このラジオが終わる頃には終わっていればいいですね!!」と返した。

私はこの20何年間ずっと、「仕事中に、ラジオにメール??」という感じでそんなメールに違和感を持っていた。

だが、実際、車に乗る仕事をするようになり、

「あぁ~!!!そうか!!そういうことか!!」となった。

車に乗りながら仕事をする人もいて、そんな人の拠り所にラジオ番組はなっているのだなと感じた。そんな素敵な気づきもある。

だから、選択に後悔はない。

とにかく前に進んでいきたい。真正面じゃなく、斜め前でもいいから進んでいく。

仕事中、ラジオから流れてきたこの曲、ROCK`A`TRENCHで「My SunShine」でお別れです!!

以上、みぞ!でした!したっけ~!!

youtu.be

 

 

「想像の世界」ーMy Imagination ZOneー 2021.3.31

 突然だが、私は「想像力」を持った優しい人でいたいとずっと思っている。

そしてそんな人と関わって生きていきたい。

でも、現実はそううまくはいかない。理由のない悪意に出会う方が多い。

そんな時に、助けてくれるのは、他の何ものでもない「想像力」であり、その副産物である。

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「現実」と「妄想(想像)」

 昨年、あるドラマが放映された。

お笑いコンビ「南海キャンディーズ」の山里亮太、山ちゃんの妄想が原案になったドラマ『あのコの夢を見たんです。』である。

タイトルにあるように、山里が妄想した実在する女優やアイドルが主人公の妄想物語を実際にドラマ化したという贅沢で、豪華なものになっている。

私の好きな女優、森七菜や、芳根京子など、錚々たる面々がオムニバス形式で、出演し、毎週毎週本当に楽しませてもらった。

このドラマでは、始めに決まってある台詞を仲野太賀演じる山里が呟く。

このノートに妄想を書いている間は嫌なことは一切考えない。現実逃避は最強で最高だ。逃げろ!とにかく逃げるんだ!妄想の世界へ!!

 この文言を呟き、山里は妄想をノートに書き記していき、妄想が始まる。

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妄想

一度は、皆したことがあるのではないか。

「あの子と付き合えないだろうか?」「勇者になってドラゴンを倒しに行く!」

現実から派生したものから、非現実的なものまで様々な妄想があると思う。

2021年の今、辛いことや悲しいことが多くてもどうにもならない事はそこら中に転がっているのではないだろうか。現実が苦しくて辛くて過酷で。

でも、「皆しんどいから仕方ない」と誰にも話せずにいる。でも現実は変わらず迫ってくる。そんな毎日を送る人も多いはず。

そんな時に、逃げられる場所、それが妄想、想像の世界だと思う。

私も、そんな想像の産物である音楽やドラマには、とても助けられた。

でも、何故、スポーツや釣りなどの趣味が、その避難場所にならなかったのか。

 

『あのコの夢を見たんです』で題材になる山里の妄想では、どれも根底に、

劣等感、嫉妬、孤独、悲しみ、苦しみなどが流れている。

「それじゃ現実と同じで辛いままじゃないか」

そんな声も聞こえてきそうだが、どの物語も、中盤では好転し終幕する。

逃げる」という言葉だけ聞くと、普通はあまりポジティブな印象は感じられないだろう。だが、ただ現実が辛いから趣味に逃げる。ということでは無い。

逃げるが、必ず戻る

それが、私が趣味として音楽やドラマに魅かれた大きな理由だった。

 想像の世界では、非現実的なものだけでなく、現実と瓜二つの世界にすることも容易、そして存在しない自分の望む未来も自分勝手に描ける。

現実と同じ嫌な事、辛い事、苦しい事はあっても、その先の未来にはマイナスを打ち消す人や出来事、理想の自分がいる。同じようで違う世界を作ることが出来る。

だから、現実と想像の世界を往復し、戦っていける。

他の趣味と違い、戦うための逃避を、想像の世界は可能にする。

 

誰かの気配 「避難場所≒居場所」

私は、幼い頃からテレビっ子で、よくドラマや音楽に触れていた。だから意識して、それらの作品が自分にどういう影響をもたらすかんて当然考えず、ただただ見ていた。

だが、今思えば、それは沢山の誰かの想像の世界に訪れては、現実に戻っての繰り返し、現実と想像を毎日のように行き来していたという事だったのだと思う。

一人の想像ではなく、テレビ局の制作陣、役者、脚本家という沢山の人がつくる想像の世界。それは、現実とは大きく違うファンタジーの世界かもしれないし、現実と瓜二つの世界かもしれない。

だが、どんな想像の世界でも、

「そこには自分以外の誰かも、自分と同じ苦しみや辛さを持ちながらも、「こうなればいいな」と世界を想像しているんだ。」という事をその世界では感じられる。

自分とは別の誰かが、同じ気持ちでいる。

自分の描く想像の世界は独りよがりの絵空事じゃないんだと思えるだけで、うんと想像の世界は、現実に近づく、明日への活力に繋がる。

そういう意味では、音楽やドラマなどのエンタメ作品は、避難場所でありながら、

居場所でもあるのだと思う。

 

今は、SNSが発達して、ドラマが放送されるとハッシュタグを通じて、想像の世界を共有する多くの人々が、可視化され、「一体感」を簡単に体感できるが、私が子供の頃(といっても10年程前)は、そんなものは無かった。

それ故「一体感」が「トレンド入り!」などの見える形で感じることはできなかった。

だが、ドラマをリアタイしていても音楽を聴いていても、

「どこかの誰かも同じように観ている(聴いている)んだろうな....」

となんとなく感じていた。

そして何だかそれが、まるで確かなような気もしていた。

そして何よりも、それが心地よかった。

現代のように見える形で「一体感」が感じられるのも確かに悪くはない。

だが、エンタメ作品という想像の世界が、避難場所として、ひいては居場所として強く作用するのは、現実として、存在としてではない、「なんとなくそこに同じ思いを持った人がいる気がする...確かにいる」という想像の世界を共有する人の気配を感じさせるからなのではないかと思うのだ。

現実では、いつも確かなことが求められる。だから理想は口にできないし、形を持ったあらゆる要因に悩まされる。

気配というのはとても心地よい絶妙な距離感なのだ。

実際、現実で「1万人がそのドラマについて呟いていた」と言われるより、

感覚で「どこかの誰かもこのシーンを見て「こんな風に思っているんだろうな」と思う方が、その作品を通じて誰かと繋がっている気がしないだろうか。

 

SNSの発達で、繋がりが可視化されるのが当たり前になった。

だが、どこかで繋がっている、どこかに同じ思いを持っている人がいる。

そんな気配をいつまでも感じていたいと思う。

そして、その気配をもっと感じたいと思った時に、SNSを利用すればいいだろう。

 

「なんとなく」を許容してくれる世界

想像の世界は何でもありだ。と言ったが、それは他者の想像の世界の中で生きようとするときも同じである。あくまで作品は世界のイメージ。それ以上は何をしても構わない。それはドラマ以上に、歌に当てはまることだと思う。

その想像の世界が持つ、それを創造した作詞者、作曲者がつくったものはメロディと詞だけで、ビジュアルの情報がないのがドラマとの違いだ。

それ故、限られた世界観の枠組みに、自分で色を付けていく必要がある。

だが、それは他者に伝える必要がなければ必ずしも言語化されるものではないし、むしろ言語化できない感覚である場合が多い。

「なんか良いな、、」「この間がいいんだよな、、」

といったような「なんか」という感覚。

これこそ、想像の世界に魅かれるもう一つの理由だ。

現代では、インターネットの発達で、前述した繋がりという面だけではなく、情報という面でも少々窮屈だと感じる。

確かに、情報が簡単にかつ大量に手に入ることは良いことだ。

だが、その分、「こうでなければならない」「これはこういうものだ」という確かな情報への過度な依存、情報第一主義に陥りやすい。

これも、また私の10年程前の話になるのだが、昔は、歌だけでなくドラマも枠組みだけが提供される、いわゆるクールメディア(それそのものの情報は薄く、受容者が情報を補完するメディア)だった。

それ故に、自分の感じたものが、ダイレクトにその作品に対する思いだったし、そういう意味で、他の他者の意見なんて関係なく「なんか好き」と言えていた。思えていた。

だが、現代では、レビュー記事や、考察サイトといった、他者の意見が情報として大量に流れ込んでくるホットメディア(そのものに関する情報が大量で、受容者が補完する必要が少ないメディア)の状態になっている。

そうした状況の中では、自分の内なる感情を言葉として表現する事が強制されるようになっている気がする。

また、インターネットの普及で自分の検索傾向や視聴傾向から自動的にレコメンドされる「おすすめ」機能も同じように「なんか良い」と思える環境とは真逆だ。

「私がその曲を「良い」と思ったのは、条件的傾向によるものではなく「なんとなく」だ。」

年々、そういうエンタメ摂取が難しくなってきている印象がある。

もちろん語彙力を持って表現することはコミュニケーションの上では大事であるし、「おすすめ」の機能も、新たな世界との出会いを助ける便利な機能ではあると思う。

だが、「なんか良いなぁ」と思えること、「たまたま」作品に出会うこと、そんな不確定なエンタメとの邂逅の感動も忘れてはならない。

 

思い出を保存するエンタメモリー

なんか良い」というような言葉にならない感じは、言葉にするよりその想像の世界思い出として残してくれるのだと思う。

よく夕方に過去のドラマが放送していたりしたのだが、そこで見たドラマには色々思い入れがある。学校から急いで帰ってきて、ブラウン管のテレビの前で観たあの感じ。

「あのドラマやってた時、夏休みの宿題に追われてたな、、」

「あのドラマの後は、あのバラエティ見てたなぁ」

「あのドラマ楽しみすぎて火曜日はハッピーだったな」

「あのドラマは何回も観たな」

など、ドラマの内容以外の情報が、そのドラマの情報として補完され、そのドラマの思い出として残る。また、逆にその頃の思い出を保存して、いつでも再生してくれる。

最近では、テレビでなくてもドラマが見れるようになったり、音楽もわざわざCDを買いに行かなくても聴けるようになり、作品以外の情景が作品に補完されることが少なくなっている気がする。

その一例として、挙げられるのがほとんどのドラマ・バラエティなどのテレビ番組を見逃し配信という形で配信する民放公式テレビポータル「Tver

ここでは、CMがカット(あるが、自局番組の番宣CMのみ)されて番組が配信されているのだが、私にとってはドラマの合間のCMもそんな情景の一つだった。

最近では、CM中にスマホを触ったりしているので、同じだと言われればそうなのだが、あのCMの間に「次にどんな展開するのか」などを考え物思いにふけていた。

だから意外にも、なにも思い入れのないCMも時が経つと、ドラマの一部であるかのような気がしてくる。

 

作品を観たり聴いたりした時の「あの感じ」や「なんか良い」、そして作品に触れた時の情景が、思い出という情報として追加されることで、

他者の作った想像の世界は、自分の想像の世界へとリメイクされる。

だから、その世界は他者の作り出したものでありながら、自分のものになるのだ。

音楽やドラマはそうやって受容する人の感性が加わって初めて完成されるのだと思う。

だから、自分に寄り添った避難場所になるし、居場所にもなるのだろう。

作品はどんな形にも変化できる。それぞれの心の形にフィットしていく。

私自身は、朝ドラ、昼ドラ、夕方(再放送)ドラマ、夜のドラマ、深夜ドラマと、時間帯ごとに思い出があった。だからドラマ枠の消滅で一喜一憂したりもする。それとともにその頃の思い出が遠くなるようで。

そのドラマ、その音楽を聴けば、様々な事が思い出される。何気ないなんでもない日常もいつかかけがえのない思い出になるのだと、記憶装置の役割を果たす想像の世界が気づかせてくれる。

mizomone7118.hatenablog.jp

 

代弁者としてのエンタメ

ここまでは私の持論をつらつらと書いただけだったので、ここでは少し私以外の言葉も紹介したいと思う。

ドラマは絵空事だし、絵空事を楽しむものだとも思うんです。ただその中に、何か本当のところを作りたいとは努力してます。

脚本家 野木亜紀子さんにスペシャルインタビュー!「ドラマは絵空事。でもどこかに真実を入れたい」 | LEE より

逃げるは恥だが役に立つ』『アンナチュラル』『MIU404』など話題作を数多く手掛ける脚本家野木亜紀子。彼女が雑誌のインタビューでこんな発言をしていた。

序盤で、制作者側が「こうなればいいな」と想像の世界を作っていると分かれば、なんだか頑張れるといった記述をしたが、実際、作り手側も、近年、よりそういった「現実の延長上の想像の世界を生み出すことで、現実に対してアプローチをかけている。

逃げるは恥だが役に立つ』では、契約結婚、家事の有償労働、「好きの搾取」などという観点から、労働問題やジェンダー問題に、ユーモアかつポップな作風で真正面からぶつかっており、野木のドラマには社会問題を背景にコミカルさを挟みながら人間模様を繊細に描く「社会派ドラマ」が多い。

なぜ、野木の描くドラマは「社会派ドラマ」が多いのか。別のインタビューでこうも語っている。

ニュースやドキュメンタリーは観ないけどドラマや映画は観るという人はたくさんいます。エンターテインメントの形にすることで世の中に伝える、知ってもらうのは意義のあることであり、必要なことです。

逃げ恥脚本家語る「エンタメ共感競争」への異論 | 映画界のキーパーソンに直撃 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準 より

 想像の世界は時に、現実に生きる私たちの抱える内なる声を大きく増幅させ響かせる。

「歌」の語源は「うったえる(訴える)」だという話もあるように、想像の世界は、現実では目を背けられること、気にも留められないこと、押さえつけられてしまうことを、作品というクッションによって「伝える」「考えさせる」ことができる。

私たちの代わりに。声を上げてくれる。最大の味方なのだ。

 

想像力の源泉

想像の世界は、現実にある何かを「伝える」「考えさせる」代弁者であるのだが、それは同時に作品の受容者の「想像力」にも繋がる。

www.toshin.com

この記事、とても面白い(こんな私の文章より格段に)のでぜひ、全文読んで欲しいのだが、ここではこの記事にあるドラマ研究者、岡室美奈子のある言葉を紹介したい。

例えばドラマを観ていると、「自分だったら絶対こうするのに!」とか、「何でこの登場人物はこうするんだろう?」とか、頭のなかでいろいろ考えてしまいますよね。つまりわたしたちは、想像力を駆使しながら作品と対峙しているわけです。このように、想像力に何かを訴えかけてくるのがフィクションの力であり、作品と向き合うことは想像力を鍛える作業です。それを高めていくことで作品自体を豊かに受容できるようになるし、実生活でも想像力を駆使できるようになるんじゃないかと思っています。

想像力

本文中でも岡室は現代でも頻繁に取り沙汰される「想像力の欠如」の問題に触れているが、想像の世界の根底に「想像力」があるのは、自明のことだと思う。

想像の世界であるドラマや音楽に触れると、そこで描かれている人物や、場面に自分も対峙することになる。つまり「想像力」を用いるということ。

すると自然と、現実では、目を背けてしまう、穿った見方をしてしまう、そもそも気にも留めない人やモノに対し、想像の世界に目を向けることになる。

また、岡室はこうも語っている。

現実世界の二分法からこぼれ落ちてしまうグレーゾーンにこそ豊かさがある。それはフィクションを通じて触れられるもの。合理的な思考では割り切れないものを描くのが、芸術の仕事だと思います。

岡室が教鞭をとる「オカルト芸術論」という授業の話題になった際、幽霊がいるかいないかの二分法から脱却し、「いるかもしれないし、いないかもしれない」というグレーゾーンを肯定することを目標としているとしている。

これは、私が前述した「なんか」や「なんとなく」の話の延長にある考え方だ。

この世の中のものは、理屈で全て表しきれるかというとそうではない。

岡室の言う「二分法の脱却」や「グレーゾーンの肯定」は何事に対しても寛容でいて、ニュアンスをもって接することに繋がる。

見えないものに気づく、「どちらでもよい」を認める、「ただそこにある」を受容する

想像の世界は、そういった他者と社会と関わるうえで大事な「想像力」をプレゼントしてくれる。

 

いつか、どこかの私の理想の場所

 何事も確かな言葉で語らなければならないような雰囲気の今、そういう感覚が、「想像力」が一層大事になってくる。

そういう意味でも、想像の世界は現実を、現代を生きる上でのライフハックとも言える。人々の繋がりがカジュアルに、言い換えれば希薄にもなっている現代、個々人に寄り添う柔軟性を持つ歌やドラマがより人々を助けていくと思う。

 

近年、性的マイノリティを扱うドラマや、オタクを題材にしたドラマ、そんなドラマが多く作られている。また特段、マイノリティとしてカテゴライズされない(まぁカテゴライズされることが必ずしも良いことではない)人の、生きづらさをも肯定するドラマも増えている。

例えば、桜井日奈子主演の『ふろガール!』では、一人で大好きなお風呂を楽しむ様子を楽しく描いたり、上白石萌音主演の『ホクサイと飯さえあれば』では、相棒のぬいぐるみ「ホクサイ」と共に、料理を楽しむ様子が描かれている。

そのどちらでも共通するのは、「一人」であるということだ。

現代において、「孤独」は社会問題にもなっている。

だが、孤独といっても色々な形があると思う。

他者との関係を保持していたとしても、本当の自分を抑え込んでいては、それもある意味では、孤独だ。

見かけだけの孤独よりも、より見えにくく当事者の心は、強風に晒されているだろう。

この二つのドラマでは、他者との関係に苦手意識を持ち、他者との関わりから離れ「一人」で己の好きな事(風呂や料理)に没頭する主人公が描かれている。

現実でもそんな風に生きている人は少なくないと思う。

「人付き合いが苦手」だから、仕方なく「一人」を選んでいる。

そう決めつけられて辛い思いをする事も多い。

確かに、二つの作品の主人公たちは、作中で好きなものにひたすら没頭する。

ただ、彼女たちは「一人」ではあるが、他者の目を気にせず、ひたすらに自分のありのままを楽しんでいる。そして、実は彼女たちは完全に一人ではない。

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ふろがーる!』においては、主人公早夜子が一人で様々な風呂を楽しもうとするが、そこで必ず、愛乃という大学の後輩が電話をかけてくる。そして、物語後半では、興味の無かった風呂に興味を示し、早夜子と仲を深めていく。

また、『ホクサイと飯さえあれば』では、主人公ブンは、ホクサイと二人っきりで料理を楽しむが、話が進むにつれ、料理を通じ、多様な人々と仲を深め、繋がりの温かさに気づいていく。

この二つのドラマから分かるのは、想像の世界は、他者の目を気にして「一人でいること」に後ろめたく感じなくていいのだよ。と私たちを肯定しながら、今は「一人でも」、いつかどこかで自分らしくいながら、誰かと繋がりを持てるよ。と希望を示してくれるということだ。

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 想像の世界は、「こうなればいいな」という理想の結集だと言ったが、理想という大きなものであると共に、日々を生きる私たちの道標、希望の光なのだ。

 

エンタメは必要不可欠

さて、ここまで「想像力」の副産物である、想像の世界に関して述べてきた。

 

作品は、時に形あるもの、どんな人よりも自分の心に近く、いつまでもどこにいてもそばにいてくれる。横にいてくれる。待っていてくれる。許してくれる。肩を押してくれる。声をかけてくれる。包んでくれる。

作品に触れた途端、あの頃の思い出は鮮明に蘇り、あの頃の自分との対話を可能にする。

あの頃、思い描いていた理想や夢、「まだ子供だから仕方ないよね」と大人に揶揄された思いや感情を思い出させてくれる。

そして、そんな綺麗事をずっと思い続ける事を良しとしてくれる。

どんな暗がりにいても、一筋の光が広がって、「君と一緒だよ。一人じゃないよ」って誰かの存在を教えてくれる。繋いでくれる。

 

逃げたい。でも諦めたくない。その二つを両立させる世界。

自分で自分が分からなくなった時に、自分を写す鏡になってくれる。

ありのままの感情を思いを、そのまま受け止める大切さを教えてくれる。

白黒つけなくていい、同じでなくていい、違っていてもいい、言葉にならなくていい。

ただそこに、それがあること。君がいること。私がいること。

それでいい。自分にも他者にもそんな風にいて。と優しく伝えてくれる存在。

 

簡単に要約するとこんな感じだろうか。

想像の、表現の世界は、不可侵な世界だ。自分が信じている限りそれは本当で、最強だ。これは、『あのコの夢を見たんです』の最初で呟かれる言葉でもあった。

なりたい自分になるには、自分を信じる、ひいては自分の理想像を信じ抜く必要がある。そんな時に、「最強の世界」は自分を最強にしてくれるだろう。

理想を信じていれば、いつか本当になる。

キラキラ ワクワク ドキドキ。そんな世界に出会えて、私は本当に良かった。

さて、そろそろ私も幸せになる想像をしよう。そして実現させよう。

想像の世界と共に。 

 

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(あとがき)

長い文章にまたまたなってしまいましたが、ここまで読んで下さりありがとうございました!!今回のブログは、前回更新したブログの後編というような感じで書いてみました。前回は自分のなりたい、そして好きな人。今回はそんな風に思ったきっかけをくれた存在であり、理想の自分に近づき、好きな人と出会うためにどうすればいいかを教えてくれた音楽やドラマに代表されるエンタメ作品について書かせてもらいました。

おそらく今、私の中にある思いと考えの全てです。

私事ですが、長い長い学生生活がついに終わります。

正直、満足に学生生活を楽しむことはできなかったし後悔もあります。

だけど、その代わり沢山の作品で、沢山の感情に触れ、沢山の人に出会いました。

人生の中でも特に感性が鋭いこの学生時代に、それが出来たのは本当に良かったし、好きになれて良かったと思います。

だからこそ、これからの人生、自分らしく想像の世界で得たものをもって、より良くしていきたいと。そう思います。

これからはブログ、しばらく更新できないかもしれません。ですが、文章を書くこと、言葉を綴ることは続けたい。そして、誰かの心に少しでも寄り添える存在になりたい。今はどうなればいいか分からないけれど、いつかそんな存在になれたらと思います。

ということで!!!この記事を読んで、少しでも何かを感じてくれたら、今の私には十分存在価値がある。そう思えます。

とか言いながら、Twitterの方には今まで通りいると思うので変わらず贔屓にしてくださいね(笑)

では!!したっけー!!

 

私の「好きな人」 2021.3.30

 気づけば、2021年も3か月以上が経ち、もう新年度だ。新しい環境での生活が始まる人もいるのではないか。だが、未だに目に見えないウィルスとの戦いは続いている。

 

「コロナなんて少しすれば誰も気に留めなくなる」

 

そう昨年の今頃は思っていた気がする。

皆、ここまで長引くとは思っていなかっただろう。

コロナがもたらすほとんどはマイナスな事ばかりだ。だが、その中でも良い事も多少はある。その一つが様々な事を考えるきっかけになっているという事だ。

今回はその中で、思っている事を一つ書き記しておく。

過去のブログと内容が重複するところも多々あるが、是非読んでいって欲しい。

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 「優しい」は当たり前?

コロナ禍になり、奇しくも人の良い部分よりも悪い部分がよく目につくようになった。

皆、どこかで誰かの批判を背に生活している。日々そんな鬱々とした感じがする。

自分の都合が良い時は「コロナなんて大丈夫」と口にし、都合が悪くなれば「コロナうつるから」と凶器を振りかざす。

「コロナ」という便利な言葉が、世の中を締め付け苦しめている。

 だが言葉が、人を苦しめる存在になってしまう事は、コロナ以前から日常に溢れていた。

 

私の母は昔からいつも「人には優しくしなさい」と口にする。

私も幼少期からそれを聞き、「そうなんだ」と信じ疑わなかった。

だが、いつしかその「優しさ」という言葉が自分を苦しめ始めた。

 

「自分は優しくしているのに、なぜ私は損をするのだろう、

 惨めな思いをするのだろう。」

 

私はずっと「人に優しくする事」は当たり前の行為だと思っていた。

それ故に、少しでも悪意を目にしたり、自分が晒されるととても苦しくなった。

優しい」人間である事は当たり前じゃない。

子供の頃、誰もが、誰かに教えられた「優しさ」を忘れず、諦めずに生きている人は特別なんだと。そういう人はすごいんだと。もっと褒められるべきことなんだと。

そう気づいたのは、意外にも最近の事(なのかもしれない)

なぜ、それに今気づいたのかというと、自分が大人に近づいたからなのだと思う。

大人になれば、何かしらの利益を出す事、意味のある事をする事が一番になる。

それに「優しさ」は直結しない。むしろ邪魔になる時だってある。

だから、皆、いつの間にか諦めて「優しさ」を捨てていくんだと。

優しい」って当たり前じゃない。

 

「優しい人」ってどんな人?

女性が好きな男性のタイプを聞かれると大抵、

優しい人

とそう答える。

優しさ」という概念は、素晴らしいものだが、同時に都合の良い言葉でもある。

優しくあるべき」「人には優しくしなさい」

そうは言うけど、何が優しいのか?なぜそうあるべきか?皆、意外とよく分かっていない。私が今「素晴らしい言葉」と言ったように、皆なんとなくで認識している。

そうだ。いつの間にか「優しさ」は中身を失い、都合よく使われる飾りと化している。

だから、「『優しい人』ってありきたりじゃないの(笑)」とそれを聞いた男性は、

呆れたりする。

好きなタイプを聞かれ、女性によって答えられた「優しい人」は、価値を喪失した「優しさ」なのかもしれない。

でも、私は「優しさ」ってそんな薄っぺらな都合の良い言葉で終わらせたくない。

優しい人」は当たり前じゃないと言ったが、そう当たり前じゃない。

決してありきたりに皆が持っているものじゃない。

だから、「優しい人」ってどんな人なのかしっかり自分で考えて、

私の好きな異性のタイプは、優しい人だ。

そう「優しさ」という概念を大事に使いたい。

 

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 「想像力」=「なんとなく」というニュアンスを感じる力

私の思う「優しい」人はこんな人だ。

まず、「想像力」を持っている事だと思う。

私はとてもこの言葉を愛用している。

だが、これも便利な言葉で、人によって捉え方は千差万別。

だから自分の考える「想像力」を少し紐解いてみる。

 

まず「物事の”ニュアンス”を大事に感じ取れること」だ。

世界は一つの側面では語り尽くせない。

同じ曲を聴いても「あったかい」「優しい」「ちょっと切ない」と沢山の様々な言葉によって表される。

一つの言葉で形式的に物事を表す、捕捉することは出来ない。

人だってそうだ。

性格を聞かれて、「真面目な性格」「社交的」などと答えるが、それはほんの一側面でしかない。人は、ミルフィーユみたいに何層にも様々な要素が重なって、形作られているはずだ。

だから言葉によって迂闊に世界を分断してはダメだ。

多面的にニュアンスを感じ取ろうとするというのは、自分の感じる感情や起こった事象に対して、意味付けをしすぎないことでもある。

つまり、「なんとなく」とか「なんか」とか「たまたま」とかそういうものを、ありのまま受容することだ。

なんとなく好き、なんか良いとかそういう気持ちを持っておくこと。

理由が分からなくても好きでいいし、良いと思ったらそれでいい。

そんな態度こそ、ニュアンスを感じ取るということ。世界を分断せずに包括して捉えようとする心構え。

そんな態度は、誰に対しても「優しい」人の心構えであると思う。

 

「想像力」=Yes/Noどちらでもないグレーゾーンを許容する力

 またニュアンスを捉える事は「Yes/Noどちらでもないグレーゾーンを大事にできる」ことでもあると思う。

人間は、物事をYesとNoのどちらかで考えたがる。

良いか悪いか」「好きか嫌いか」「賛成か反対か

でも、世界は0と1でというような二進法では出来ていない。

それをしっかり理解し、二進法ではなく無限大で考えられる人は、世界を、人をしっかりと認識できる。それは、ニュアンスを捉えることと同等に「優しさ」に直結する。

 

コロナ禍に放送されたドラマ『姉ちゃんの恋人』

有村架純演じる桃子と、林遣都演じる真人のほっこりする恋愛が中心に描かれた。

真人は、過去に恋人を暴漢から助けるため、暴漢を撃退しようとし、ある理由から傷害事件の犯人として服役していた。だが、あくまで正当防衛の行為で、真人自身は、優しい青年だった。

そんな真人と付き合う事を決めた桃子が、親友のみゆきにそれを相談した第6話。

そのシーンのみゆきの言葉に私は胸を打たれた。

私は反対する。応援もしない。でも私が反対したからって言う事聞く必要もない。(中略)

反対する人を説得させるには幸せになるしかない。だから必要なんだ。

悔しかったら私に「だから言っただろ」って言われないようにしろ!

『姉ちゃんの恋人』第6話より

「好き」だからこそ、幸せになって欲しいと思っているからこそ、「反対」する。

「意見の同じ人=好き」となりがちだが、違っていてもその違いは必要で、「=批判」にはならない。大事なのは、表層ではなく中身だ。

「反対」という形を取っていても、相手を「思いやって」の行動なのだ。単純に「違う」ことが「嫌い」や「悪い」に繋がらない。

 

www.ktv.jp

また「違うけど気が合う」という関係性、「理解」の大切さを感じた歌詞がある。

mihimaru GT『マスターピースという楽曲の一節だ。

youtu.be

好きな本も 趣味も まるであわないけど

君だけだよ うなずいてくれたのは

mihimaru GT 『マスターピース』より

「好きな本も趣味も」合わないのに、頷いてくれる。理解してくれる。

たった二行の歌詞だが、私の思う「優しさ」を体現してくれているとても好きな歌詞だ。この曲は全編通して素敵なので、是非曲を聴きながら見て欲しい。

 

よく「共感力」が大事だとか言うが、私は、「理解」する事こそ一番大事にすべきものではないかと思う。

他者の全てに共感できるなんてことは、滅多にない。だけど共感できないことの全てが批判に繋がるかと言えば、そうではないと思う。

自分には分からないけど、その人はそう思うんだ。大事なものなんだ。

そうやって、曖昧なままそっと横に置いておいてくれる。

分からないという事を理解する。

共感でも批判でもないグレーゾーン。

そういう「理解」という態度が人間関係において「優しい」という状態を作り出すのではないだろうか。

 

「想像力」=「分からない」を分かろうとする力

「理解」の態度は、自分は分からないけど否定はしないというスタンスだとしたが、

そこで特に大事にな要素は「分からない」という事実に対する積極的肯定だ。

形式的な言葉で物事を分断してしまうのも、「これは良い」「これはダメ」で判断してしまうのも、自分が「分かった気でいたい」からなのだ。

SEKAI NO OWARIの楽曲の一つに『プレゼント』という曲がある。

youtu.be

2015年に「NHK全国学校音楽コンクール」の課題曲にも選ばれた一曲であるが、

その曲の一節にこんな歌詞がある。

「知らない」という言葉の意味 間違えていたんだ

知らない人のこと いつの間にか「嫌い」と言っていたよ

何も知らずに 知ろうもしなかった人のこと

どうして「嫌い」なんて言ったのだろう

流されていたんだ

「知らない」ことは怖いから 醜い言葉ばかり吐き出して誤魔化して

自分のことまで嫌わないで

SEKAI NO OWARI『プレゼント』より

人は「分からない」ことが、「知らない」ことが何よりも怖い。だから何かにつけて「言葉」という道具で、簡単に分かりやすいように作り変える。だけど現実は何も作り替わっていない。自分の認識が変わっただけだ。見ないようにしただけ。例外は自分が勝手に除外しただけで、そこに存在する。

 

だからこそ、「分からない」ということをしっかり受け止めなければ、本当の「優しさ」にはたどり着かない。「分からない」をダメなものだとして、取り繕いたくなるが、それは一番ダメだ。勝手に分かった気になってはならない。

分からない」ものは考え、「知らない」ものは知ろうとする努力をしなければ、根本的解決にはならない。

自分にとっては「優しい」ことでも、相手からすれば「迷惑」になっているかもしれない。だからこそ、相手の考えや思いは「分からない」のだという事を前提に寄り添うべきだ。

分からない事を、分かった気にならずしっかりと分かろうとする事、それが「優しさ

 

ここである言葉を紹介する。

 これは昨年解散した音楽ユニット「Salley」のうららのツイート。

ふとTLで見たツイートだったのだが、何だかとても腑に落ちた言葉だった。

「悲しいけど仕方ない、ではなく、仕方ないけど悲しい」

「仕方ない」「そういうものだ」

そう分かった気になる、現実を諦めてしまう事は、日々に溢れている。

だが、そこで現実を横に置き、感情をありのまま受け止める。

なんとなく」悲しい、「なんか」悲しいという感情に意味を求めず、

素直に受け止める。

その姿勢でいられれば、他者にだけでなく自分にも優しくできる

 

また、元乃木坂46橋本奈々未のある言葉も、とても好きな言葉の一つだ。

不幸なことこそ誰かが笑ってあげないと本当に不幸になっちゃう

(2016年9月5日放送『乃木坂工事中』「橋本奈々未に聞かせたい!乃木坂不幸話グランプリ」より)

不幸なことがあれば誰もが心配し同情する態度を取る。当然のことだと思う。

だが、考え方によれば、他者が追い打ちをかけて「不幸」の烙印を押しているとも捉えられる。

「不幸」な出来事に直面した時、当の本人にそれを笑って済ませることは容易ではない。そんな時に誰が笑ってあげられるのか。それは他者だろう。

不幸な事が起こって、その人が「不幸だ」と負の連鎖から逃れられなくなっても、他者はそれを否定し、カジュアルなものとして笑うことができる。

他者の「不幸」を軽んじて「あざ笑う」のではなく、「不幸」に寄り添い、思いやりを持ち「笑ってあげる」

「不幸」=悪 とは捉えず、多様なアプローチを持つことは、グレーゾーンの許容とも言える。

tv-aichi.co.jp

 

ここまで、私が思う「優しさ」を3つの「想像力」から述べた。

私は、文中で紹介した二曲と、二つの言葉から「優しさ」を感じた。

その「優しさ」を、自分なりに解釈し濃縮したのが「想像力」という視点だった。

皆が、このような「優しい人」であって欲しいと思うし、私もそうありたいと思う。

だが、「優しさ」は今の世の中とても難しいものになっている。

それは、冒頭で述べた通りだ。

その時必要なのは、「強さ」であり「信念」であり「」なのだと思う。

 

「優しさは強さ」=自分の芯を持つこと

皆、一度は聞いたことがあるのではないだろうか。

優しさは強さ

この意味、私はずっと分からなかった。なんとなくそうなんだろうと思っていた。

だけどこれが、「優しい」の本質的な概念だと思う。

想像力」を持っているだけでは「優しい」ことを保持することは難しい。

優しさ」は「悪意」「暴力」などの言葉の真反対に存在すると思う。

「悪意」や「暴力」のタチの悪い点が、それ単体で強い力を持っている事。

だから、「優しさ」ではとても対抗できないし、対抗するにはこちらも「悪意」を持って闘うしかない。

 

だが、本当にそうなのか。

優しさは強さ」と言われるのは何故か?

それはそれ自体には力がないのに、力を持つことだ。

よく分からない言い回しになってしまったので、私の過去の体験談(?)を例に話を進めていこうと思う。

 

 私は中学生の頃、同級生にいじめられていた。「気持ち悪い」「消えろ」そんな言葉を吐かれて、暴力も受けた。

だけど、必死に耐えた。だが、その頃は、まだ「悪意」に対抗する道具を持ち合わせていなかった。

だから私はただただ、孤独になり、相手に対抗するために、自分の存在を維持するために心の中で、他者への憎悪を募らせた。

その一方で、「自分は弱い」と自己否定を繰り返すようになった。

別に不幸自慢をしたい訳ではない。でもこんな日々を何年間か過ごした結果、一時期、「私はこの世で一番不幸だ」というような思想に陥っていた。

この頃の、私は「想像力」も足りていなかったが、自分の「」がなかった。

他者への憎悪、他者への恐怖が自分の行動原理だった。

それ故、自分がどう思うかではなく、他者にどう思われるかが行動の基準になっていた。それが私が拗らせてしまった大きな要因だ。

 

優しい」状態でいることは非常に難しい。だから「悪意」に接しているといつの間にか、自己を否定し、「優しさ」という形だけになって苦しむことになる。

冒頭で述べた形骸化した言葉の一つになってしまう。

否定された自己を保つために、相手を批判し、「自分の苦しみ」を相手にも味あわせようとする。自分の存在を正当化するために。

そして次第に批判すること、他者と同じに染まること自体が目的になってしまう。

そんなのは「優しさ」でもなんでもない「悪意」よりもたちが悪い「優しさ」の姿をした「悪意」だ。そうなってしまっては最悪だ。

 

優しさ」は不安定なものだ。「想像力」を持って人に接する。それは相手を簡単に否定したり、形式的に便利な概念で判断をしないこと。

それは非常に面倒くさいし、難しい。

1つの確かな何かに依拠されたものではないのだから。

だからこそ、それを持ち続けられる人は強い。

優しい人でいる!!

という信念、願望、理想、それ自体を優しさを成り立たせる存在にしているから。

自分の中にある思いを信じ抜ける芯の強さが「優しさ」には必須。

 「優しさ」は誰に何を言われても、誰かを否定せず、とにかく自分を信じることで成り立つ。ある種、「覚悟」でもある。

それ故、価値があり、強い。

その態度が、Yes/Noで決めつけない、違っていても否定しないという「想像力」に繋がっていく。

 

仮面ライダークウガ』EPISODE41「抑制」で、主人公五代雄介は、「綺麗事こそ、現実にしたい。ホントは綺麗事がいいんだから」と言っている。

dic.nicovideo.jp

私は主人公五代雄介こそ、まさに「優しい人」だと思う。綺麗事が通じない「暴力」と、「暴力」でしか抗えない状況の中、自分の理想が綺麗事だと自覚しながらも、

綺麗事を実現させるために戦ったのだから。

優しさ」がどれだけ難しくても、綺麗事なのだとしても、それを諦めない。

それが大事なのだ。「優しさ」を思うだけではなく、信じる事。それがあって初めて、それが機能し価値を持つ。

 

優しくいるための「好き」

 だが、何もなしに「優しさ」を信じる事はやはり難しいし、独りよがりになってしまう。そんな時にあるのが「好き」と言う感情であり、好きなもの自体だ。

私は、いじめを受けたり家庭環境で色々あったりと、「好き」を我慢することが多くあった。だが、「好き」という感情は、人間にとって最大でかけがえのない唯一無二のものだと思う。

好き」は誰に否定されても、絶対だ。相手を傷つけ自分の「好き」を押しつけない限りは絶対だ。

youtu.be

2018年に放送されていた東京モード学園のCM。このフレーズが私は大好きだ。

イヤならやめちゃいましょう!

苦しいなら逃げちゃいましょう!

でも、好きなことだけは死んでも離すな☆

(東京モード学園2018年CMより)

 

この世には理不尽な「悪意」がそこら中にある。それが連鎖していく。

「~さんホントムカつくよね」「あの人どうかしてるでしょ」

そんな言葉が当たり前に飛び交う。時には愚痴ることも大事だと思う。

だけど、

「この前の推しめっちゃ可愛かったよな...!!」「あの曲、今ヘビロテ中!!」

なんて言葉をどうせなら交わしていたい。いやそうでなくちゃ。

現実で、なかなか嫌なこと、苦しいことから逃れられなくても、

「私は大人しいから」「私は引っ込み思案だから」

と自分の性格を言い訳にせず、「好きな人」が溢れる「好き」な生活を強く希求していたい。死んでも離さない。そのための妥協だけはしない。そんな人であれば、「優しさ」を信じることにも繋がっていくのではないだろうか。
mizomone7118.hatenablog.jp

 

私はこれから何があっても自分の思う「優しさ」を信じ、「優しい人」でいたい。

そんな人と関わっていたい。

大事にしたい「優しさ」は今、確かに心の中にある。

だから、大丈夫だ。

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 (あとがき)

 今回もここまで読んで下さってありがとうございました!!

ずっと「優しい」ってなんだろう?と考えているのですが、コロナ禍で、現段階での私の答えが出た気がして、書き留めました。

 この内容は、自分の目標でもあり、理想でもあり、好きな人の事でもあります。

年齢=彼女いない歴の私。そろそろお付き合いしたい!!そう思う日々です(何の話

書いていても、「同じこと言ってるなぁ」と思ってたのですが、何度も言葉を変え、書き記す事で、自分の考える「優しさ」が分かってもらえる気もして(笑)

まとまってるようでまとまらない私の思う理想の人間像。

これを読んで、また誰かが何かを思ってくれれば...と思います。

 私の考えの基本になっているのは、誰かの言葉や表現です。それを一人でも多くの人に伝える事もこのブログの一つの意味なのかなと思っています。

それ故、ここでもう一つ。

アイドルグループHKT48のメンバー豊永阿紀さんのあるブログ。

10代最後の日に書かれたブログなんですが、自分の誕生日前のブログとは思えないくらい、濃厚な内容で、最初読んだ時、度肝を抜かれたんですよね...

ここに書いてある生き方。

とても好きなので、皆さんにも紹介しておきます。

ameblo.jp

そしてそして、もう一つだけ。ドラマ腐女子、うっかりゲイに告る』でのセリフ。

『真に恐れるべきは、人間を簡単にする肩書きさ』

『人間は、自分が理解できるように世界を簡単にしてわかったことにするものなのさ』

「好きなものを好きだって言える時間がいちばん好きだな」

 

 さて今回、そして次に更新されるであろう記事は、私の学生生活の総決算みたいなものなので、次回もとても思い入れのあるブログになっているはず!!

是非次も読んで頂き、感想も送って頂ければ、とても嬉しいです。

では、したっけ~!!

 

 

 

「カバー」という味付け 2021.3.13

  突然だが、皆様は「カバーソング」についてどう思うだろうか?

”カバー”は、既にリリースされている曲をリリースした本人ではない人が歌うというイメージが一般的だと思う。

最近で言えば、中島みゆきの『糸』という楽曲が、菅田将暉主演の映画『糸』として映画化されたが、その『糸』も名立たるアーティストにカバーされ続けている超名曲であり、カバー曲の代表だと思う。

そんな映画のプロモーション期間、テレビで『糸』がカバー曲の一つとして紹介されていたのを観ていた時、母がこんな事を言った。

 

「カバーしすぎじゃない??もう糸ばっかりで飽きた」

 

確かにその声、「カバー」曲の話になると必ず出てくる。

いくら名曲だとは言え、何度も何度もカバーされ、その度に、

「あの不朽の名曲をあのアーティストがカバー!」

などと紹介されると、少し(いや場合によってはかなり)興ざめして、嫌気が差すこともあるかもしれない。

だが、私は「カバー」にこそ、音楽の無限大の魅力が詰まっていると思う。


mizomone7118.hatenablog.jp

 

このブログにおいては幾度も「音楽」について、考えを述べているが、「音楽」ひいては「曲」の面白いところは歌詞とメロディーだけでは完成しない、いわば「未完」の作品だということだ。

突然だが、歌詞とメロディーが記された譜面は、料理のレシピのようなものだと思う。

例えば、カレー。基本的な材料は、じゃがいも、にんじん、牛肉....とレシピに書いてあるし、カレールーも市販されている。そして、何より皆が「カレー」を知っている。レシピがなくともある程度のものは、余程の不器用でない限り、作れるはずだ。(多分

だが、一つとして同じ「カレー」にはならないはずだ。

 

レシピ、材料が同じでも、目分量で味付けをしたり、野菜を小さく切ったりと、人それぞれで違う味わいになってくる。

ある者は、「牛肉よりシーフードがいい」

ある者は、「カレールーは使わないで、スパイスから!」

ある者は、「にんじん嫌いだから、なしで!」

ある者は、「隠し味にチョコレート入れるぞ!」

と、挙げればキリがないが、同じ「カレー」と言っても絶対に同じにはならない。

それぞれの作り手によってその味は変わる。

曲も同じなのだ。

楽譜にある歌詞やメロディはレシピにしか過ぎない。

そして、オリジナルの楽曲は、実家の味、おふくろの味のようなものだ。

だから、「オリジナルが良い」のは当然だ。もっと言えば慣れ親しんだ味は、わざわざ評価するものではないだろう。

 

「誰が」・・・男子大学生が作るカレーとおばあちゃんが作るカレーは当然違う。

「どのように歌うか」・・・目分量で調味料や入れる人と、きちんと量る人でも違う。

「どんなアレンジ(音楽ジャンル)」・・・シーフードカレーにするか、キーマカレーにするかでは全然違う。

 

というように、一つのレシピから沢山の趣向を凝らし一つの料理を作り上げるのと同じように、一つの譜面から様々な歌い方、アレンジによってそれぞれ一つの歌を完成させる。それがカバーなのだ。

 

中島みゆきは『糸』が映画化されるにあたり、以下のように語っている。

「糸」 は、とても素朴な曲ですから、いろいろな方々に歌っていただく度に、さまざまな色があらわれて、いつも驚かされています。この度は映像の世界に用いていただくこととなり、ありがとうございます。また新たな「糸」に出会えるのを、楽しみにしています。

『糸』を歌う中島みゆき自身も、受け手である他者に歌ってもらう事で、それぞれの『糸』が完成される事を望んでいるのだと思う。

この曲はこれまで約120組ものアーティストによって「カバー」されている。とてつもない数だ。1つのレシピから、120もの料理ができる。カレー屋巡りならね、『糸』巡りをしたくなってくる。

jocr.jp

 

「カバー」、それはその曲が「完成」される、譜面と言うレシピから曲が生まれる、オリジナルの楽曲が新たな楽曲として生まれ変わるプロセス。

メディアが商業的アピールで「~があの名曲をカバー!!」などと紹介すると、

「またかよ...」とうんざりしてしまうかもしれない。

だが、曲をカバーするという事は、オリジナルの曲に感情を重ねていく事。

1つの楽曲から色を変え形を変え、様々な楽曲になる。そんな音楽の多様性や無限大の魅力をより美味しく味わうことができる創作活動の一つなのである。

 

 

さて、ここからは私の好きな「カバー」ソングを紹介したいと思う。少しでも興味があれば、是非とも聴いて欲しい。カバー曲を聴いて、その曲のオリジナル曲をチェックしてみたり、カバーしているアーティストの曲を聴いてみたり、他のカバーを探してみたり、これを機に様々な方向に音楽との邂逅を楽しんで貰えれば、嬉しい限りである。

それではいってみよう!!

 

みぞ!のみぞ知るカバーソング

1.住岡梨奈『歩いて帰ろう』

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2012年から放送されていた恋愛リアリティーショーの先駆けとも言える「テラスハウス」 そこで、出演していたシンガーソングライター住岡梨奈が、くつろぎながらカバーした斉藤和義『歩いて帰ろう』

Youtubeでのみ公開されたこのカバーだが、商業的なものから離れた純粋な「カバー」という雰囲気がとても好きだ。お風呂上りに彼女が弾き語ってくれる...想像しただけで幸せだ。

2.Softly 『恋に落ちたら』

恋におちたら

恋におちたら

  • Softly
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

 北海道で結成された2人組音楽ユニット「Softly」

現在は活動休止中だが、私が好きなシンガーソングライターが北海道出身という事もあり、数年ほど前に知った音楽ユニット。

自身のアルバムで、Crystal Kayが2009年にリリースしヒットした楽曲『恋に落ちたら』をカバーしている。これが本当に良い。好き。好きなのである(語彙力)

この楽曲に関して言えば、私にとっては原曲よりもカバー曲の方が印象深い。

原曲はポップな楽曲に仕上がっているが、このカバーでは、アコースティック調のゆったりとした雰囲気にリメイクされている。

思い通りにいかない日には 懐かしい景色見に行こうよ 

いくつもの思い出がやさしく 君を包んでゆくから

 この詞は私が好きなワンフレーズなのだが、「恋におちたら」と銘打っているものの、環境の変化から心が疲れてしまった時に響く普遍の歌詞になっており、このカバーではより優しくそんな詞が響いてくれる。

 「Softly」という彼女たちの名前が表すように、ボーカルのMUTSUKIの柔らかい歌声が優しく包んでくれているのだ。

また、宇多田ヒカルの代表曲の一つ『First Love』のカバーも、優しいヒーリングミュージックに仕上がっており、おススメだ。

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3.瀧川ありさノーサイド

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シンガーソングライター瀧川ありさが、松任谷由美が手掛けたノーサイドを2017年にカバー。この曲は「ノーサイド」というタイトルにあるように、曲の背景にラグビーがある。

実際、この瀧川のカバー曲もラグビーがテーマのアニメ主題歌として起用された。

「グロッシーボイス」と評される、のどごしならぬ、耳ごしが良い艶のある低温ボイスが70年代に発表された楽曲とマッチして、ノスタルジーを感じさせる。

私も8mmフィルム風の映像で構成されるMVもお気に入りで、少し疲れた時にこの曲を聴いて癒されている。ルックスの事を言うのは違うかもしれないが、女優さんのような端正なルックスも映像美である(? 実はハロープロジェクトのアイドルが好きなオタクだというギャップもある、愛らしい瀧川ありさ、ぜひチェックして欲しい。

 

4.竹内美宥明日晴れるかな

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続いては、2018年までAKB48のメンバーとして活動、そして現在では韓国で活動している竹内美宥

当時から、その歌声から歌うまメンバーとして根強いファンが多かった彼女が、自身のYoutubeチャンネルで披露した明日晴れるかなも私のとてもお気に入りの楽曲だ。

この楽曲は、2007年に放送された山下智久主演のプロポーズ大作戦の主題歌で、ご存じの方も多いのではないだろうか。ドラマの中では、山下演じる主人公が、長澤まさみ演じるヒロインとの恋をやり直すため、タイムスリップを繰り返すといった内容だが、曲もそれになぞらえた歌詞になっている。

在りし日の己れを愛するために 想い出は美しくあるのさ

歌詞が全編通して好きなので、挙げればキリがないのだが、ドラマのテーマに沿ったこの歌詞が特にお気に入りだ...(ぜひ歌詞もチェックして欲しい

竹内の儚い歌声、そしてサビにかけて徐々にシフトアップしていく抑揚が気持ちよくて、これもノスタルジーを感じずにはいられない一曲である。

また竹内はAKB48の楽曲も多くカバーしている。アイドルソングというと穿った見方をされることが多いが、素敵な曲が本当に良い。『初日』『君はメロディー』『走れペンギン』と下記にリンクを貼っておくので是非チェック!!

(ちなみに最後に貼ってあるリンクは、作曲された成瀬英樹さんと、私好きなシンガーソングライター山崎あおいさんとの豪華なコラボ!!)

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5.井上苑子『どんなときも。』

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山﨑賢人と飯豊まりえが出演したスマートフォンCMでもお馴染みではないだろうか。シンガーソングライター(SSWが多いのは私が好きだからである。ご容赦願いたい(笑))

井上苑子の歌う『どんなときも。』

こちらも『恋におちたら』同様、ピアノ一本で、原曲とは異なり、落ち着いた印象に仕上がっている。井上苑子と言えば、JC JK界では知らない人はいないのではないか?という人物(そうだよな...?(笑))、キュートな曲が多い彼女だが、この曲では、しっとりと見事に歌い上げている。個人的には歌い出しからサビまでの、吐息混じった歌声が大好きだ。

6.ねごと『空も飛べるはず

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2017年に公開されたトリガール!の主題歌、空も飛べるはず

歌ったのはガールズバンド「ねごと」

残念ながら2019年に解散を発表したのだが、映画のEDでこの楽曲が流れた際には、映画の感動を良い感じに包んでくれた。原曲は私も昔から大好きなバンド「スピッツ」の名曲。スピッツの楽曲はファンタジックでありながら、どこかノスタルジックな感じがする「ふわふわ」した感じが魅力だと個人的には思っているのだが、この曲はシンセサイザー(?)のようなサウンドで曲が始まることで、その「ふわふわ」した浮遊感が倍増されていて気持ちがいいのだ。映画の方も、私はテレビで放送されているのを、何気なく見たのだが、とても良かったので、是非....!

 

7.私立恵比寿中学自由へ道連れ

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アイドルグループの中でも歌唱力に定評がある”エビ中”こと私立恵比寿中学

そんな彼女たちがカバーしたのは、椎名林檎自由へ道連れ

椎名林檎といえば、エキセントリックなイメージがあるが、その椎名林檎の楽曲を力強くカバーしており、とてもパッションを感じる一曲となっている。

(ちなみに、ライブのアンコールでトップスだけTシャツに着替えてくるやつ大好き)

8.Jewel(J☆Dee'z) 『だいすき』

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Little Glee Monsterと並ぶ歌唱力とハーモニーを持ち、さらに高いダンスパフォーマンス力まで持ち合わせている「Jewel」

2019年に「J☆Dee'Z」から改名した彼女たちだが、「何故売れないの?」と私が疑問符を度々付けるアーティストの一つ。

そんな彼女たちのライブ定番曲『だいすき』

この楽曲は1988年にシンガーソングライター岡村靖幸がリリースした楽曲。私はまだ生まれる前なので、岡村の当時の活躍は存じ上げないのだが、近年ではDAOKOとのコラボで話題になっていたのを記憶している。

『だいすき』のオリジナルはかなり個性的なリズム感で歌唱されているのだが、Jewelは軽やかでポップにアレンジして、曲の個性を残しつつ曲の更なる魅力を引き出している。

このパフォーマンスは、ライブ映像なのだが、生バンドとのパフォーマンスでとても豪華。他にも彼女たちのオリジナル曲のパフォーマンス映像も公式チャンネルに投稿されているので、気になった人はチェック...!

9.北川莉央(モーニング娘。’21)『オリビアを聴きながら

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高い歌唱力から長きに渡り根強い人気がある「Hello! Project」通称「ハロプロ

その中でも、一世を風靡し今現在もスタイルを進化させ人気のモーニング娘。'21」の15期メンバー、北川莉央の歌うオリビアを聴きながらを紹介したい。

彼女はいわば、現在のモー娘。の最新メンバーであり、後輩メンバーという立ち位置なのだが、その目まぐるしいパフォーマンス能力の向上からファンからも一目置かれている存在だ。

楽曲自体は1978年、杏里のデビューシングルとしてリリースされた。

昭和の名バラードを軽やかにかつ、深みを持って歌い切っており、まさに「カバー」だと思わされる。

この楽曲は「Hello! Project 2020 〜The Ballad〜」というコンサートでも披露されており、他のメンバーも多種多様なカバー曲を披露している。時間があれば、Youtubeに公式の動画が更新されているので、コピペをして是非、純度の高いカバー曲の世界に浸って欲しい。また、まだ16歳の北川の成長にも期待したいものだ。

10.Lefty Hand Cream『オレンジ』

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Youtubeで活動しているLefty Hand Cream。多くのカバー動画を投稿しているのだが、その中でも『オレンジ』が、私のお気に入りの一つだ。

何となくYoutubeを放浪していた時に巡り合ったこの一曲。

私は「レフさん」と呼んでいるのだが、彼女の潤った天然水のようなナチュラルな歌声に、心を浄化してもらっている。

この曲も、このカバーで初めて知ったのだが、歌っていたのは国民的アイドルSMAP

SMAPにもこんな歌あったんだ...!」という感動も味わえ、その後に原曲を聴いてみると、SMAPの楽曲としての良さも感じられるというのも、アイドル楽曲のカバーの良いところなのではないか。

何回言うんだという感じではあるが、ノルタルジーを感じる一曲だ。

 

11.ЯEAL ポケモン主題歌メドレー

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こちらのカバーは、つい最近見つけた。言わずと知れた国民的アニメ「ポケモン」の主題歌カバーメドレー。

そんな歴代主題歌をバンドサウンドで復刻しているのが、ガールズバンドЯeaL

「ガールズバンド戦国時代」と未だに言われるが、そんな流行の中にいたバンドの一つだったと思う。私は今から10年ほど前に平成のガールズバンドブームの火付け役と言ってもいい「SCANDAL」にハマっていたのだが、その頃から存在自体は知っていた。

今回たまたま見かけたこのカバーだったのだが、楽曲の懐かしさとともに、バンドサウンドの染み渡る感じにやられた。

個人的に、あきよしふみえの『Together』が懐かしすぎる上にとても好きだ。

ダイヤモンドパールの時代の私。ダイパリメイクで鳥肌が立ち、最近はめっぽうゲームをしないが改めて「してみたい」と今熱が上がっている。

それはそうとめざせポケモンマスターや現在の主題歌『1・2・3』そしてЯeaLの楽曲『未来コネクション』も素敵なので、通して動画を見てもらいたい。

(個人的にメドレーで、そのまま次の曲にいくあの感じが好き)

12.たんこぶちん『世界でいちばん熱い夏』

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個人的に、90年代のJ-popが好きなのだが、こちらはそんな90年代からの一曲。

ガールズバンドの先駆け「PRINCESS PRINCESS」が1992年にリリースした『世界でいちばん熱い夏』を同じくガールズバンドの「たんこぶちん」がカバー。

「たんこぶちん」

その響きがとても可愛らしいのだが、とても力強いサウンドを聴かせてくれる。

この楽曲は色褪せない楽曲だなと改めて思わされるカバーになっている。

ボーカルMADOKAの凛とした声が、90年代のエモーショナルな情景を私たちに追体験させてくれる。

現在は活動休止中なのだが、また彼女たちの音楽が聴けるのが楽しみだ。

13.上白石萌音『366日』

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最後に紹介するのが、現在大ブレイク中、飛ぶ鳥を落とす勢いの女優、上白石萌音が歌手としてリリースしたHY『366日』

とてもとても個人的な話だが、私の大好きな女優さんで、当たり前に好きすぎてこの曲を紹介することを忘れかけていた...(笑)

2016年にリリースされたこの曲。

曲だけでなく、瀧川ありさの『ノーサイド』同様。MVが必見である。

8mmフィルムで撮られた映像からは、昔懐かしの郷愁感、言うなれば、小学校時代の放課後のような幸せを感じる。

楽曲自体は、ラブソングなのだが、彼女のカバーは、その楽曲の幅を飛び越える包容力が感じられる。

そして映像の彼女が「可愛い」それに尽きる。

今や、女優の風格を漂わせ始めた彼女だが、そんな彼女の少し幼い姿を見られるこのMVは、まるで「この頃は、よく遊んだのに遠くに行っちゃったな...」という謎の幼馴染設定に浸れる一曲になっていると思う。

この曲を聴いて「女優」上白石萌音を見れば、都会であか抜けた幼馴染を見るような気持になるのではないだろうか(?

とにかく萌音ちゃんは良い。

Youtubeチャンネルでは他にも、「The Favorite Songs」という動画で、スキマスイッチ『奏』、アンジェラアキの『home』をアカペラを披露している。

ファンゆえに超おススメしておく。

youtu.be

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ここまで、いかがだっただろう?正直、まだまだ紹介したいカバー曲はあるのだが、この13曲だけでも、「13」という数字以上の楽しみ方が出来ると思う。なのでもうお腹一杯でしょう?

 

他にも、2013年1月19日に放送された「ミュージックフェア」で披露されたシンガーソングライターmiwaと元AKB48で演歌歌手の岩佐美咲そしてアカペラグループチキンガーリックステーキ」によるAKB48『桜の花びらたち』や、先日レビュー記事を投稿したLittle Glee Monsterによるカバー曲(私は特に桑田佳祐の『白い恋人たち』のカバーが好き)など、まだまだ紹介したいが、それはまた次の機会に紹介したい。

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【あとがき】今回は、カバー曲に関して書いてみました。「カバー」を料理の味付けなり、カレーに例えたのは我ながら良い表現だなと思いました(笑)

今は、なかなかカラオケに行って歌うのも難しいですが、皆さん一人一人がその楽曲を歌えば、皆さんのカバー曲です。皆さんもアーティストなんです。

なんかそれってワクワクしませんか?(笑)

また、カラオケに行って思い切り歌いたいなと書いていて思いました。

 

カバー曲に関しては、全部女性アーティストカバーでした(笑)

そしておススメしすぎ、「ノスタルジー」言いすぎ(笑)

また、皆さんの好きなカバーも教えてもらいたいなぁとも思いましたね。

曲のおススメし合いは、自分の好きなお店の料理を紹介するようなもの。

音楽で息抜きして、もう少し踏ん張りましょう。

では、したっけ~!!

 

【過去記事も是非とも...!!】

mizomone7118.hatenablog.jp

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「好き」を抱きしめる Little Glee Monster『GRADATI∞N』レビュー 2021.3.2

 先日、Little Glee Monsterがベストアルバムとなる『GRADATI∞N』をリリースした。

リトグリ”の愛称で親しまれ、メンバーそれぞれの歌唱力、そして5人が織りなすハーモニーが高い評価を得ているのは皆様もご存じだと思う。

私自身、幼少期からテレビっ子である事もあり、彼女たちがデビューした時からその存在は知っていた。

当時から、アカペラもできる女子高生グループということもあり、注目はしていたが、特に最近は「大人っぽくなったなぁ~」というような感情を持つと共に、彼女たちの表現力に驚かされることが多い。

 

 さて、ファンの方(”ガオラー”と呼ぶらしい)には「にわかだ!!」と怒られてしまいそうだが、今回初めて、CDを購入した。その理由はずばり、”ベストアルバム”だからである。その一枚を買えば、”リトグリ”を堪能できる訳である。買わない選択肢はない。

という事で、今回はそんな『GRADATI∞N』を堪能した私の個人的感想を書き連ねたいと思う。

なおレビューと言いながら、自分の思ったことを綴る「感想文」に近いので、ちゃんとしたレビュー記事を読みたい方向きではない。別の優秀な音楽サイトを見てもらいたい。また、歌詞解釈等に関しては、あくまで個人的解釈なのでご了承頂きたい。

 

 

私だけの”キミ”「キミ」が好きだ。

このアルバムを聴くに際して、知っている曲も含めて歌詞カードを見て、じっくり聴くことにした。すると、素晴らしい歌詞が沢山あった。その中でも特に多くの曲から感じられたメッセージは「好き」の大切さだ。

リトグリの代名詞とも言える『好きだ』はそれを体現していると言えるのではないだろうか。

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2015年にリリースされたこの楽曲。TBS系金曜ドラマ『表参道高校合唱部!』の主題歌としても知られている。

ドラマは、ある合唱部の物語で、芳根京子演じる主人公・香川真琴が、潰れかけの合唱部を自らの「歌が好き」という気持ちで再興していくストーリー。『好きだ』もそんな歌への愛を包み隠さずストレートに伝えようとする真琴を写し取ったような歌詞になっている。

その中でも印象的なのだが、サビの歌詞であろう。

キミ」が好きだ ホントに好きだ

言えないけど 好きなんだ

どうしたら伝わる? この胸のざわめき

呟いても呟いても言い表しきれない、具現化できない「好き」の尊さを、「言えないけど 好きなんだ」と表しているところが、何ともキュンキュンする。余計な言葉を尽くすより、「好き」の持つトキメキを醸し出していると思った。

ところでサビの始めに出る「キミ」

これは単純に人、つまり「好きな人」のことなのだろうか?

「何故、そこに疑問が沸くんだ?」

そう感じた人もいると思う。だが、『好きだ』における「キミ」は、君でもなくキミでもなく「キミ」である。

ここで、もう一曲こちらも初期に発表された『人生は一度きり』を見てみる。

(MVの、高橋ひかるさんが若い...!! 最近は、バラエティで大活躍...!!)

 

どうしてこの曲なのかというと、この曲にもキミが登場するのだ。

くよくよして めそめそして

弱虫な自分を知って

初めて僕はゆずれない”キミ”に出会った

これはサビ前の一節。”キミ”という表現が出てくる。『好きだ』における「キミ」とは表記こそ異なるが、どちらも君ではない。「」や””が付いた、カタカナ表記のキミで表現されている。

これは私の妄想なのだが、君ではなく「キミ」”キミ”なのは、シンプルに二人称の人に対する代名詞ではなく、もっと大きい「もの」まで含んでいるという事を表しているのではないだろうか。

ここまで紹介した2曲。一見すると恋愛ソングに聞こえるようだが、実は、

『「好き」の気持ちを大事にするべき。いやしろ!!』

という普遍なメッセージソングと私は思うのだ。

つまり、

「キミ」(”キミ”)=好きなもの(人)=「好き」という気持ち 

なのだ。

 

「好き」に正直になれない自分

だが、『好きだ』においても『人生は一度きり』においても、自分の「好き」を大事にするより、曲の主人公は、周りの誰か他者の視線を気にしている。

世間の顔色をうかがうばかりじゃ

いつか自分の色忘れてしまうよ 

『好きだ』

誰かを傷つけないように 誰も傷つかないように

あるはずのない答え探す夜更深け 好きだ 

『好きだ』

いつかできるはずさ 明日があるからって

きっと きっとって思ってた

言い訳ばかりで 誰かと比べたり

ずっと ずっと くやしかった 

『人生は一度きり』

「世間の顔色をうかがう」「誰かを傷つけないように 誰も傷つかないように」「誰かと比べたり」というフレーズにあるように、楽曲の主人公は、他者に縛られてしまって身動きが取れなくなっている。

 

youtu.be

『私らしく生きてみたい』でも、他者の目を気にして苦しむ主人公が垣間見える。

物分かり良い人にずっと

なりすまして来たけれど

空気読めすぎたら 

空気みたいな人になって

ここにいてもいないみたい 

『私らしく生きてみたい』

「好き」を肯定できないということは、自己を肯定できないという事でもある。

他者の目を一番に生きてしまうと、いつの間にか誰かのための「自分」を演じるようになってしまう。その結果いつのまにか「自分の色」を忘れて、「空気みたいに」なってしまうのだ。

 

大事なのは「やれないこと」?「出来そうなこと」?

現代社会では、誰もが他者の目を気にして生きている。

「あの人に嫌われないように」「この集団の中で浮かないように」

と、自分じゃない自分になって日々を必死に生きている。

そして、いつの間にか自分の色を忘れてしまう。

残念だが、現代に生きる人々の大半が、そのような景色を体感しているのではないだろうか。

そんな景色に慣れてしまっている私たちに寄り添って「夢」を思い出させてくれるのが、リトグリの楽曲だと思うのだ。

I BELIEVE

I BELIEVE

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出来そうなことから 
やりたいことを探して
それに夢と名付ける
日々に別れを告げた 
I BELIEVE
やりたいことも やれない日々に 自分を合わせて
”これでいい”と言い聞かせた
本当は自分で 選ぶすべてに 心躍らせて
”これがいい”と言えるように 生きていたい 
『Love Yourself』

I BELIEVE』そして『Love Yourself』この二曲では、「世間」や「誰か」といった他者を気にして、自分の色を見失っていた主人公が、大事にしていた「キミ」を思い出し、奮起する様子が克明に描かれている。

個人的にはこの二つのフレーズが、とてもお気に入りだ。

 

子供の頃は、「好き」なものに熱中できたのに、成長する内に、周りの目を気にして「好き」に嘘をついて、世間に染まれるように「キミ」を騙して、好きでもないのに

「新しい趣味始めてみたんだ!」って言ってみたり、気づいたら、子供の頃、心の奥にあった「キミ」が見つからなくなっていたという経験が私にはあるからだ。

でも、この歌詞が指すように、「やれないこと」や「出来そうなこと」ばっかり考えて、肝心な好きなもの、「キミ」を蔑ろにしちゃいけないと思う。

「何を綺麗事言ってるんだ」と言われそうだが、やっぱり諦めちゃいけない。

他者の顔色をうかがって生きることももちろん大事だ。だけど、自分の心の底では「キミ」を忘れちゃいけない、「好き」という気持ちはずっと持っていて欲しいとリトグリが教えてくれている。

 

Love Yourself

Love Yourself

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 前半に 「キミ」(”キミ”)=好きなもの(人)=「好き」という気持ち  だと示したが、

実はまだその続きがある。

 

「キミ」(”キミ”)=好きなもの(人)=「好き」という気持ち=夢⇒君(自分自身)

 

『Love Yourself』の歌詞にはもう一つ響いたフレーズがあった。

心で君が夢を
作り出しているわけじゃない
いつでも夢が君を
作り出しているのさ きっと 
『Love Yourself』
好きなものや好きな人は、言語化できない「好き」の気持ちが溢れ出した存在だ。
そしてそんな「好き」の気持ちの先にあるのが、よくうるさいほどに呟かれる「夢」でもある。
 
子供の頃から卒業式などでよく発表する「将来の夢」
そんな私の「将来の夢」は
「漫画家」「パティシェ」「イラストレーター」「おもちゃ会社の社長」
と小学生の6年間だけでも、右往左往としていた。
その頃、「夢」なんて聞かれても具体的に浮かばなかったから、なんとなく「好きかなぁ~」なんてものを夢にしていた。
だけど、それも中学、高校となるにつれ「好きかなぁ~」でも選べなくなり、「夢」がなくなった。そしていつしか、
 
「夢...(あれはやりたいけど大変そうだし、あれは親に反対されるな...あれは不安定な職業だから...) ないです!」
 
と答えるようになってしまった。そう思うと右往左往していても「好きかなぁ~」で選べていた当時は、右往左往していてもそれが確かに「夢」だったのだと思う。
好きかなぁ~」の延長上に、「夢」があり、それが自分自身を作っていく。
だから皆、ホントは夢を持っているはず。
それが、「夢」という概念になるから分からなくなるだけで、「好き」の感情それそのものが「夢」なのだ。
 

「好き」を抱きしめろ!!

さて、少し脱線をしてしまったが、要するに、大事なのは「好き」を大事にすること、ギューーっと抱きしめることだと思う。

Girls be Free!(GRADATI∞N Ver.)

Girls be Free!(GRADATI∞N Ver.)

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Hop Step Jump!(GRADATI∞N Ver.)

Hop Step Jump!(GRADATI∞N Ver.)

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感じるまま 生きていたい
現実も 結末も 全部受け止めて 
『Girls be Free!
一度しか生きられないなら 私 もっとドキドキしてみたい 
『Hop Step Jump!』
それは、どんな現実があって、どんな結末になろうとも、胸のドキドキに嘘をつかず、感じたままにいることでもある。
そして、「好き」を抱きしめることを応援してくれるのは、最初に紹介した『好きだ』と『人生は一度きり』だ。
いつも独りだった 誰かのせいばかり
本当 本当 寂しかった
好きと言えることは 恥ずかしくないこと
やっと やっと 気づいたんだ 
『人生は一度きり』
負けても 負けても
終わりなんかじゃない
諦めちゃったらそれが終わりなんだ
幸せはいつも心で決めるもの
かけがえのない今を生きろ 
『人生は一度きり』
 「好き」を抱きしめれば、「夢」は形にならなくても確かにそこに生まれるし、その先に、自分らしさ。幸せが見えてくる。
好きだ。(GRADATI∞N Ver.)

好きだ。(GRADATI∞N Ver.)

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精一杯届けよう 二度とないストーリーを声が枯れるまで・・・・・・
叫ぼう! 
『好きだ』
「好きだ」と言葉にならなくてとも、心の中でもいい。
自分だけの心のトキメキをドキドキをキラキラを大事に抱きしめて欲しい。
そんな思いがこの最後の歌詞には詰まっていると思う。
そうすれば、ずっと心の中には「キミ」がいるし、自分の色もはっきりする。
濁って前が見えない世の中でも、「好き」の気持ちを忘れないでいれば、絶対に大丈夫。「好き」は自分が思い続ける限り最強で最高なのだ。
 

 ということで、全曲紹介はできなかったが、歌詞はもちろん、メロディ。そしてリトグリのハーモニーが素晴らしい『GRADATI∞N』

ぜひ、手に取って歌詞カードと共に、音楽の世界に浸って欲しい。
そして「好きだ~!!!」と叫ぼう!!
 
GRADATI∞N (通常盤) (特典なし)

GRADATI∞N (通常盤) (特典なし)

  
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あとがき・・・いつも見て頂いている方、そして今回初めてブログ見たよ~!という方も、最後まで読んで下さいまして本当にありがとうございました!!
今回は、私としては初めて「レビュー」っぽい感じの記事に挑戦しました!といっても中身としては、いつもの自己啓発本みたいな感じになってしまいましたが(笑)
 
私は昔好きなものでいじめられてから、「好き」と言うのが億劫になってしまった類の人なんですが、「好き」の気持ちを大事にすること。
本当に尊い事だなと思いますし、それができる人は素敵な思いやりのある人だと感じます。
「好きな人の好きなものが、好きになれれば、好きって永遠に続くのでは...?」なんて
事を思ってみたり(笑)
これからは私も「好き」を精一杯「好き」でいたいなと思うばかりです...!!
さて、今回取り上げた、Little Glee Monsterさん!!本当、歌っている姿が好きで、今回のアルバムも、今回取り上げた曲の他にも、恋の曲や、クールな曲などバラエティ豊かでホント聴いてて楽しかった!!
個人的には『好きだ』『君に届くまで』『ギュッと』『足跡』『Dear My Friend feat.Pentatonix』『CLOSE TO YOU』が好きです!!(多い
そして、これだけは言っておかねば!!私はメンバーの中でもアサヒちゃんがめちゃめちゃ好きです!!!この子、すごい楽しそうに歌うんです!!歌ってる時の体の揺らし方がとても好きです!!皆さんもぜひ見てみてください!!(笑)
という事で、今回はこれまで!!
したっけ~!!